第32話 避難訓練



 碧の身勝手な期待に反して、翌日もそのまた翌日も追い出しライブ用のネタは一向に書けないまま、気がつけばKACHIDOKIの予選本番の日になっていた。


 予選会場は大学生会と同じ、杉並区の東南会館だ。最寄り駅に碧が着くと、既に筧たち四人は改札の前に集まっていた。集合時間に間に合うように二本早い電車で来たのだが、それ以上に早く来ている四人を、碧は緊張していると受け取る。


 通路にはどことなく冷たい風が吹いていて、五人は挨拶もそこそこに、足早に東南会館へと向かった。


 この日のALOの出番は、最後から二チーム目だ。だから、東南会館に着いたときには、舞台では学生芸人がネタを披露している真っ最中だった。


 ドアが閉められていたから姿を見ることはできなかったけれど、勢いのある声と小さくても確かに生まれている笑いは漏れ聞こえてきて、碧は気を引き締め直す。少なくともこれ以上ウケなければ、準決勝進出は叶わない。


 大丈夫だと、碧は自分に言い聞かせた。


 控え室に入り荷物を置くと、碧と筧はさっそく出番までの時間でネタ合わせを始めた。廊下の奥は窓から寒気が漏れてきていて、少し寒い。小さく身を震わせながらのネタ合わせでも、碧たちの調子は良好で、最後まで通してみても碧はどこにも引っかかるところを感じなかった。かつてない仕上がりのよさに、絶対にウケるという自信がある。


 KACHIDOKIは一チームが、漫才、コント、ピンの順番でネタを披露するから、最初に登場する漫才コンビがいかにいい流れを作られるかで、勝敗は決してしまうと言ってもいい。


 今までにないほどのプレッシャーがかかる舞台にも、碧の腰が引けることはなかった。隣に立つ筧もいつになく凛々しい表情を見せている。二人で稽古通りできれば、きっと問題ないはずだ。


 碧たちが頃合いを見計らって控え室に戻ると、間もなくしてスタッフが、「藍佐大学ALOさん、スタンバイお願いします」と呼びに来た。五人は頷くと、スタッフの後について舞台袖へと向かう。


 舞台の上では一つ前のチームがコントを披露していた。トリオで結婚の挨拶という、ベタなコントを展開している。定番の設定だから大きな爆発力はなかったが、それでも手堅く安定して笑いを取っている印象だ。


 だけれど、碧たちにはライバルのネタを楽しめる余裕はもちろんない。


 自分たちの出番が刻々と近づいてくるのを、碧は小さく爪先を鳴らしながら待っていた。早く舞台に出たいと気持ちははやり始めていた。


 コントに続いて、一つ前のチームがピンのネタも終える。舞台袖に引き上げてくる学生芸人は、少し浮かない表情をしていた。


 事実、彼はそこまでウケていなくて、会場の空気はかすかに冷えている。


 司会であるかしもと所属の芸人が、軽くチーム全体の総括をしている。歯切れの悪い言い方に、碧の身は今さらすくみ上がっていく。


 自分たちがこうならない保証は、どこにもない。


 それでも、まっすぐ舞台だけを見つめている筧の横顔を見ると、不安は少し軽くなっていく。


 今はすくみ上がっている場合じゃない。


 碧は一つ息を吐く。照明に照らされた舞台に、センターマイクがぴんと立っていた。


「では、続いては藍佐大学お笑いサークルALOです! どうぞー!」


 そう呼びこまれるやいなや、碧たちは舞台に出ていく。


「どーも!」と言いながら現れた碧たちに、拍手はない。まず円滑な大会運営のため拍手は控えられているし、碧と筧を知っている人間は客席にはほとんどいないから当然だ。


 碧は気落ちすることなく、センターマイクの前に立つ。パイプ椅子に座る観客は、ざっと三〇人ほど。碧はその全員を、自分たちの世界に引きこむために声を張った。


「いや、最近思うのがですね、小学生の頃って懐かしいなぁと」


「確かにもう一〇年ほど前のことですからね」


「その中でも、私には特に印象に残ってる行事がありまして」


「ほお、いったい何ですか?」


「避難訓練です」


「いや、避難訓練って。遠足とか修学旅行とかじゃないんですか」


 まだ題材を提示する段階でも、客席には小さな笑いが起こっていた。あわよくばと期待していたところで本当に笑いが取れて、碧の気分は乗せられていく。客席に笑い上戸な人がいることに、感謝した。


「避難訓練と言えば、よく言われるのが『おはし』ですよね」


「ええ。押さない、走らない、しばかないで有名な」


「いや、怖いって。緊急時でも平常時でも、人はしばいちゃダメでしょ」


 漫才のテンポは今までよりも早く、碧たちは矢継ぎ早にボケを繰り出していく。


  賞レースだから展開を早くして、ボケは詰め込めるだけ詰め込んでおいた方がいい。ネタを書いた筧の判断は間違っていなかったらしく、客席の一角から生まれた笑いは、火が燃え広がるように、徐々に勢いを増していた。


 うねるような、とまではいかずとも着実に大きくなる笑いに、碧は自分たちの役割を果たせていると感じる。


 ウケることももちろん大事だが、会場を暖めていい状態で次の瀬川と戸田につなぐのも、同じくらい大切だ。この調子で最後までいければ、準決勝進出に向けていい流れができるだろう。


「避難し終わったら、本当に全員いるかどうか、点呼がありましたよね」


「点呼―!」


「何か始まりましたよ」


「愛内、相生、青木、秋山、浅井、明日葉、麻生、姉崎、雨宮、綾瀬、鮎川……」


「いや、『あ』で始まる生徒多すぎないですか? 史上まれにみる多さなんですけど」


 筧がツッコむ度に、湧くように笑いが起きる。笑いの量だけで言えば、完全ホームだった藍佐祭のときよりも多い。舞台上からしっかりと見える一人一人の笑顔に、碧は漫才をしながら確かな手ごたえを感じていた。


 KACHIDOKIの予選は完全なる客席投票だ。全てのチームが終わった後に、観客が面白かったと思うチームに投票し、その得票率の上位三チームが次の準決勝進出を決める。


 碧たちは終盤に来たから、他のチームの様子は知らないが、このウケっぷりを西巻まで維持できれば、準決勝進出は夢ではないように思えた。


「いい加減にしてくださいよ。ろくな避難訓練じゃないじゃないですか」


「そうですか? あともう一個記憶に残っているのが防災訓練で……」


「いや、変わらないでしょ。もういいよ」


『どうもありがとうございましたー』。声を合わせて三分間のネタを終えた二人にも、最後まで拍手は贈られなかった。


 だけれど、他のチームだって拍手をもらっていないし、客席には満足した空気が弱くても漂っていたから、碧は顔を上げて舞台袖に戻ることができる。


 舞台袖では瀬川たちが、二人に笑いかけていた。緊張を上書きするような笑顔に、碧は自分たちは準決勝進出に向けていい仕事ができたのだと思う。


 まだ何も決まっていない。それでも、碧たちは声を出して客席に聞かれないように、無言で微笑みを返した。


 両手で抱えきれないほどの手ごたえを、学外の舞台で碧は初めて経験する。また何度でもほしくなる味だ。


 センターマイクが片づけられて、まっさらになった舞台に出ていく瀬川と戸田を、碧は目を細めながら見送った。頭には達成感よりも「がんばれ」という気持ちしかなかった。


 碧たちの次に出た瀬川と戸田のコントは、客席に十分すぎるほどウケていた。RPG風の世界観で展開されるネタは、ポップでとっつきやすい設定が功を奏したのか、次々に観客の笑いを誘っていた。


 もちろんそれは瀬川たちの実力によるところが大きいのだが、碧には上昇気流に瀬川たちがうまく乗ったようにも見えた。それを生み出したのが自分たちであることが、誇らしくも思える。


 舞台袖から見る瀬川たちの姿は、ネタ見せのときとは比べ物にならないくらい躍動している。


 今回のKACHIDOKIは、瀬川にとっても最後の大会だ。だから、生き生きとネタをしている瀬川の姿は、碧の目にはこれ以上ないほど好ましく映った。


 さらに、瀬川たちの後に登場した西巻も、的確に笑いを取り続けていた。コンビニエンスストアに次々と変わった客がやってくるという筋書きはデビューライブと同じものだが、五人で考え合ってマイナーチェンジを施したネタは、ずっと練度が上がって面白くなっている。


 一つのボケも外すことのない西巻の姿が、碧には自分のことのように嬉しい。


 贔屓目も入っているかもしれないけれど、それでもALOが三組全てで笑いを取ったのは、紛れもない事実だ。準決勝に進めるかもしれないという期待が、碧の中で膨らむ。


 西巻はオチでもきっちり笑いを取って、ネタを終えた。戻ってくる西巻に、碧は音を出さないように拍手をする。西巻の表情も満足げだ。


 予選の全てのネタを終えて、碧には自分たちがベストを尽くせたという感触がある。あとは、観客一人一人がALOに投票してくれることを祈るのみだった。



(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る