第29話
グリシーナ最大の繁華街、レージエ区アンブレル通り。
その一角に居を構える、マルメロ商会のアンテナショップ兼カフェテリア「サロン・ドゥ・ルメレイ」にて、憂いを帯びたまなざしの美青年が、周囲の注目を一身に浴びていた。
その青年のあるテラス席ばかり、まるで別世界だった。その周囲に介在することすら許し難く思うのか、その方をチラチラと気にしつつも、遠巻きに見つめる事しかできない衆目である。
「いつものことながら、凄いですね……お待たせいたしました、オディット様」
「ご機嫌麗しゅう、リーシャさん。もう、肩身が狭いのなんの……いつまで経っても慣れないもので、困ったことです」
不可侵領域として、互いが互いの抜け駆けを許さないその空気を、まるで割り裂くようにかきわけて現れたのは、しかつめらしい詰襟の制服を纏った女性……マルメロ商会代表アベル・ムスキーの専属秘書アリシア・レグロ。
一切の素性を明かさない『シドニアのアビー』の代弁者として、マーケティングやメディアへの露出を務める女性であり、マルメロ商会フリークを名乗るもので、彼女の顔を知らない者はモグリとまで言われている。
そのことに気付いた何人かは、今まで陶然と見とれていた青年を、今度は何者かといった目で見始めたのだが……何のことは無い、アベル・ムスキーもとい、アルテアの直弟子、オディット態に変容したディーテである。
アルテアの側近として、その激務を手伝いつつ、指導を受けるようになって、早半年。
周知の通り、アルテアは筋金入りの人間嫌いだ。預言者アビスとして、全身を隠しながら教会の人間と関わることすら、蕁麻疹が出るほどにストレスを感じる始末で。
人間好きのディーテに対し、これ幸いとばかりに、マルメロ商会関連のお使いを、まるまる押し付けるようになったのも、そう最近のことではない。
「分からないことはリーシャに聞いて、ランジュ関連グッズの企画だけこっちに回してくれれば、あとは好きにしてくれていいわ」なんて言葉で、新商品のマーケティング戦略などまで、殆ど丸投げだった。無茶ぶりもいいところである。
ディーテは当初、プレッシャーのあまり、殆ど白目を剝いたとんでもない形相で各所を走り回ったものだった。
その間、ディーテと苦楽を共にし、奔走してくれたリーシャとは、今や気心の知れた友人のような関係性である。
「先月のコンセプトメニュー、大盛況でございました。メニューを一品頼むごとに描きおろしランダム
「それはよかった! でも、実は、完全に僕の案かと言えば、そうではなくてですね……はじめ、ランダムじゃなく、任意という方向性で考えていたのですが、偶然、代表が企画書に目を通されたらしく、任意でなくランダムで、と訂正が入ったのです。流石は代表と申しますか、利益を上げることに余念がないですね」
「顧客の射幸心を煽ることで、一人当たりの単価を上げる狙いですね……目当てのフリルの
「わ、わあ……」
口角を引き攣らせるディーテ。アルテアが口癖のように何度も言い聞かせる「人間の欲には際限がない」という言葉を思い出したのだ。
300年以上、地上で人間に紛れて暮らしてきたアルテアは、人間よりもずっと、注意深いまなざしで、人間を見てきたのだ。ともすれば、この世に、アルテア以上に人間という種族を理解している生命は存在しないのかもしれない。
「そう言えば、オディット様。新ユニットのデビュタントが控えているらしいですが、お聞き及びでいらっしゃいますか? 何でも、センターはコランダムカラーだとか」
「え、もう、ポスターかビラが出回っていたりするのですか? カラーまで分かっているなんて」
コランダムカラーの新ユニットとくれば、心当たりはあの三原色……ミュスカ、モフィ、ピオニュの三翼だ。遂にそんな時期に……何とも感慨深い気持ちにさせられるものだと、ディーテは半年間の地上での生活に思いを馳せた。
「いえ……一般への周知はまだかと。ただ、教会に支援を行っている商会には、あらかじめ先ぶれがあるのです。ビジネスチャンスですからね」
デビュタントフリルは、主に一般階級からの支持を受ける傾向にある。
ランジュなどの一線級フリルは、貴族や富裕層など、資金力に優れた階級がお布施額の上位を独占してしまうため、一般階級の人々の思いがフリルを彩るのは難しい。
しかし、デビュタント及びルーキーフリルは、身に余る力を得て翼の制御ができなくなる事態を防ぐため、通常よりもさらに厳しい金額制限がかけられるのだ。
ひとりあたりいくらまでと決まっている以上、運にさえ恵まれれば、一般階級の所得でも、チャームに手が届くと言うことで、デビュタントフリルは注目を集めるのである。
しかも、コランダムカラーは、ランジュの天来色に近い色ということで、縁起がいいとされている。女神の注目を浴びやすい、と。
ミュスカらのデビュー雷舞以後は、マゼンタが暫し一般市民のトレンドになることは想像に難くない。
「というわけで、こちら、教会からの情報をもとに開発部に練らせた企画書です。ご確認をお願いしますね」
「お……分かりました。僕の方で精査してから、代表にご判断を仰ぎますので、そうですね……遅くとも、明後日の始業時間までには、ご連絡を差し上げます」
「迅速なご対応、いつもありがとうございます……現場は涙を流して感謝しております」
「そんな……僕なんて」
「いえ。本当に、比喩でも何でもなく、命が助かっているのです。代表からのお返事なんて、一カ月後に返ってくればラッキーくらいで、殆どゲリラのようにお触れを出されることが多く……しかも納期直前に変更を仰せになることもありましたので、デスマーチが通常運転だったのです。皆、今は夢見心地で働いております。ここが天国か、と。さしずめ、オディット様は救いの天使でございますね」
「代表……」
アルテアはどうやら、人間の活動限界については疎かったらしい。デスマーチが常態化している自身と同水準の働きを周囲に求めるのは酷というものだ。
今頃、そのデビュタントのことで、日夜教会と熾烈な交渉を繰り広げているだろうアルテアを思い、ディーテは雲を仰いだ。
あまりいい思い出のない相手だが、大事な同期の、有望な出世頭。
地上はここまで心を砕いて奔走しているのだから、どうか無事にデビューを成功させてほしいと思うばかりであった。
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