第20話

「戦う、理由……」


 そんなのは、ひとつだ。もう、FUBEを離脱した今、いつ果たせるか分からないけれど、今も確かにこの翼に宿っている約束。


 ディーテは、カップの中身をクイとすべて飲み干し、カップを両手で強く包み込みながら、アルテアを真っ直ぐと見つめた。


「人々の生命や幸福を守るためです。厄災に、彼らの平穏が脅かされることのないように」


 耳がジンジンと痺れるほどの、重い沈黙。


 アルテアの目から、温度が消え去っていく。ディーテは、自身が死にかけたあの日に見た、アルテアの面持ちを思い出した。


 許し難いという思いが、ひしひしと伝わってくる、苦虫をかみつぶしたような表情だ。


「そう。ひとつ、言っておくわ。強くなりたいのなら……いえ。生き残りたいのなら、その考えは捨てなさい」


「……」


 浸潤するような落胆と平静が、ゆっくりとディーテの臓腑に染みわたる。ああ、貴方のように卓越したフリリューゲルであっても、そう思うのか、と。


 エンデだけだった。エンデとディーテ以外に、人間に肩入れするフリルを、ディーテは知らない。もしかしたら、アルテア様は、なんて。甘い期待だった。


「女神の嘆きから産み落とされた私たちは、生まれながらに、厄災との戦いを定められた種族です。私たちは、生まれた瞬間から、地上の営みのために、翼をすり減らして戦わなくてはならない。だから……人間のため、なんて、間違っても考えてはいけません。私たちは、せめて、信仰心を搾取するのです。ただでさえ、私たちは、奴らのために消費される定めにあるのだから、尊厳までも、捧げることなど、あってはならない」


「……アルテア様は、人間が、お嫌いですか」


「ええ、嫌いです。ともすれば、厄災よりも、ずっと」


 ああ、そうか……ディーテは、瞼を伏せて、ゆっくり息を吐く。


 だから、誰にも顧みられぬまま、人間のために命を使おうとしたディーテのことを、アルテアは許せなかったのだ。


「アルテアさまのお考えを、私がどう口出しなど出来ましょうか。どうぞ、私のような不束者は、ただちにFUBEへ送り返してくださいませ。私は、どうあれ、わざわざ痛くて苦しい思いをして羽を散らすのに、人々の平穏な暮らしや、笑顔のことを思わずにはいられないのです。命を懸けるにも意味があるって、そう思わなければ、厄災に立ち向かうことができない……そんな軟弱者は、貴方様のお傍に相応しくないことでしょう」


 臆病風に、翼が震える。それでも、ディーテはアルテアの眼差しから目をそらさなかった。


 深海の底のような瞳が、剣呑に揺らぐ。あの日、単身で立ち向かった厄災よりもずっと恐ろしいモノに、真っ向から歯向かっているのだと、ディーテは否応なしに理解させられた。


 しかし、恐ろしいなんて思わなかった。


 アルテアは、人間が嫌いだと言い切った。自らをも傷つける凶器のように、鋭い声で。


 多くのフリルが人間に肩入れしないのは、どこまでも興味がないからだ。軽やかで、だからこそ残酷な無関心からくる、果てしない冷徹だ。


 アルテアが抱えているのは、煮えたぎるような憤怒に違いない。ともすれば、ディーテよりもよほど、情熱的に人間を思っている。


 本人にも、手の施しようがないほどに。


「……いいえ。送り返しなど、するものですか。貴方のような危なっかしいフリルを、どうして野放しにできましょう。私手ずから、貴方の考えを矯正してみせます。精々足掻いて、私を楽しませることね」


 アルテアは、片眉を吊り上げ、露悪的に笑ってみせた。再会してから初めて見せた可愛げに、ディーテはようやく翼を脱力させたのだった。

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