第18話 赤ちゃんの正体



 

 どう見ても本物の赤ちゃんだった。




 すやすやとした寝息も聞こえてくる。ぬいぐるみだなんてとんでもない、作り物でもない。紛れもなく普通の赤ちゃんだ。まつ毛が長くて寝ていてもわかるクッキリ二重で可愛らしい。それを見た途端頭の中が混乱した。


 あれ、どういうこと? ぬいぐるみは?


 ただただぽかんとして間抜けみたいに口を開いていた。


「ごめんなさいねえ、せっかくなのにこの子寝ちゃってるわあ」


 赤いおばさんが言った。連れていたのが本物の赤ちゃんとなれば、ファッションセンスが最高にない普通のおばさんに見えてきた。僕はようやく表情を緩ませた。


「あ、いえ……お昼寝中ですね」


 そう言いながら、ちらりと隣にいる星野さんを睨んだ。彼女はどうしたの? とばかりに微笑んでいる。


 さては……騙したな。からかったんだ、僕のこと。


 最近僕が視えてしまうことも確信して、色々試してみたかったんだろうか。彼女の意図は詳しいことはわからないが、とにかくハメられたということはわかった。あとでとっちめてやる。


 赤いおばさんはニコニコ笑う。


「そうね、丁度お昼寝中だから」


「気持ちよさそうですね」


「赤ちゃんの寝顔は天使よねえ」


「そう思います」


「あらありがとう」


 幸せそうなおばさんを見て良心が痛む。怯えていてごめんなさい、赤い服は確かに変だけど、話してみたら普通のいいおばさんでした。でも悪いのは星野美琴なんです。そう言い訳をしておく。


 すやすや眠る赤ちゃんはお世辞じゃなく可愛いと思った。つい頬が緩む。


「まつ毛すごく長いですね。クッキリ二重だし、女の子ですか? モデルみたい」


 特別子供好きってわけでもないが、やはり小さな存在は愛しく思う。僕はニコニコしながら尋ねた。


 しかし、その瞬間だった。


 ずっと笑顔だったおばさんの表情がピタリと止まった。


 引き攣った頬で目をしっかり見開き、僕をじっと眺めたのだ。


「…………あの?」


 その様子についのけぞる。強い眼光に引いてしまった。何か言ってはいけないことを言っただろうか。子育てしてる人には地雷だったとか? 褒めてしかないつもりなんだが……。


 だが、次の瞬間彼女はにま〜っと笑った。それはそれは嬉しそうで、どこか卑しさを感じるような不思議な笑みだった。今までとは違った光景についたじろぐ。


「そう、そうか。そんなに可愛かった?」


「え、ええ、まあ……」


「抱っこしてあげて」


「い、いやでも寝てますし」


「大丈夫、大丈夫。起きてもまた散歩行けば寝るんだからこの子は」


 僕の返事も聞かずおばさんは赤ちゃんのブランケットをとった。そしてそうっと優しく赤ちゃんを抱き抱える。幸い寝ているまま起きそうな素振りはなかった。


「ほら、ね。抱っこしてあげて」


 正直、赤ちゃんは可愛いがこのおばさんの様子がなんだか怖い。それにまず知らない赤ちゃんを抱っこすること自体怖い。あまり抱き慣れていないし。


 それでもおばさんからは絶対に引かない、という確たる強い意思が見えた。僕は迷った挙句、恐る恐る腕をさしだした。


「僕、赤ちゃんなんか抱っこしたことなくて……」


「大丈夫、その腕のままいればいいから」


 僕が構えたところに、おばさんが赤ちゃんをストンと埋めた。こんな小さな子を抱っこしたのは生まれて初めてのことだった。




 氷のように冷たかった。




 それは驚きで落としてしまうんじゃないかと思うほど。


 前腕に伝わる冷たさはひんやり、なんてものじゃなかった。氷を当てられたほどの温度で、僕はそのまま停止した。


 それでも腕の中にいる赤ちゃんはすやすや眠っている。微かに呼吸の音が聞こえてくるし、胸元は小さく上下している。ちゃんと寝ている、寝ているんだ。


「あ、の? こ、この子」


 戸惑った僕がおばさんに話しかけようとした時。すぐ至近距離におばさんの顔が近づいてきた。


 ニマニマと笑いながら困っている僕の顔をじっと見つめている。ファンデーションが埋もれている毛穴すら見えてしまうほどの距離で、鼻からふーっふーっと荒い息が聞こえてくる。それでも赤ん坊が腕にいるので逃げることすらできず、僕はただ固まっているしかできなかった。


「そう、そう……ふふふふふ、お兄さんありがと。ありがとね」


 どれくらい時間が流れただろうか。おばさんはそう言うと僕からそうっと赤ちゃんを取って再びベビーカーに乗せた。抱いていた腕の形から直す気力すらなく、僕は両腕を垂直に曲げたまま呆然としていた。


 丁寧にブランケットをかけ直すと、おばさんは星野さんに言った。


「お姉さん、ありがとね。また会ったら声かけてね」


「ええ、さようなら」


 おばさんは僕たちに頭を下げると、再びベビーカーを押して坂道をゆっくりと登り始めた。星野さんと二人無言でその背中を見つめる。


 真っ赤の洋服が目には眩しすぎる、と思った。

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