第17話 ご挨拶


 一瞬足を止めた。坂道はまだ続いている。どこかからかずっと聞こえている子供達の声がやけに響いていた。


 星野さんが僕を振り返る。口角を上げて微笑んでいた。


「残念ながら私には分からなかった」


「み、みたの……?」


「だって本屋に行くための近道なんだもの、何度か通ってれば会ってしまうのはしょうがないでしょ? ベビーカーおばさん、天気がいい日は毎日散歩してるらしいし」


 僕は空を見上げた。それは晴れて雲ひとつない快晴だった。気持ちいいはずの天気が一気に嫌なものへと変わる。


 星野さんは続けた。


「私も最初大山くんと同じこと考えた。子供を亡くしたりした人なのかなって。そうだとしたらすごく悲しい話だし、別に周りが騒ぎ立てることでもないと思ってた」


「…………」


「でも、ぬいぐるみの噂を聞いて思ったの。もし自分の子供を亡くしたりしたら、精神を病むか。前を向くか。それとも———もう一度子供と会おうとする人もいるかもって」


 どくん、と心臓が鳴った。


 星野さんの紺色のワンピースがふわりと揺れる。眩しいほどに僕たちを照らしている太陽の下で、彼女はあまりに美しく儚いとすら思った。


 大切な人を亡くしたら。


 精神を病むか、前を向くか、


 ……それとも


 しんと沈黙が流れているとき、目の前に続く長い坂道に赤い何かが出現した。どこかの家か、横道から出てきたようだった。


 赤い帽子、赤い上着、赤いスカート、赤い靴。そんな格好を身にまといながら、誰かがゆったりした速度でこちらへ登ってくる。手は黒いベビーカーを押していた。僕は足を止めたまま動くことができず、ただその場で呆然としていた。


 星野さんは僕の視線に気がつき前を向く。そして微笑んだ。


 細い下り坂は僕たち以外に人がいなかった。両脇にはただひっそりと家が佇むだけのただの道。どこにでもある平穏な道が今、とてつもない不気味さを醸し出していた。


 女性は非常に遅い速度で登ってくる。坂道が辛いのかもしれなかった。それでも、徐々に大きくなってくるその姿を見るに彼女は非常に楽しそうだった。時々何やら話しかけている。黒いベビーカーは日除けのカバーが大きく覆われている。


 いつしかずっと聞こえていた子供達の遊び声も聞こえなくなり、耳にはボソボソと女性の話す声だけが届くようになった。


「……ね……のに」


「……ち……いい……のね」


「ふふふ、……ちゃん、……だものね」


 徐々に近づくその声に背筋が寒くなる。それでも逃げ出すことさえできず、僕はただ真っ赤な人を見つめ続けている。額から汗が伝って顎から落ちた。






「こんにちは。いい天気ですね」


 ついにその女性が近づいてきたとき、星野さんがそう声をかけたので心臓が止まりかけた。ずっとベビーカーしか見ていなかった女性がピタリと足を止め、こちらを見た。


 赤い帽子からは傷んだ灰色の髪の毛が覗いた。やや疲れたようなほうれい線に青白い顔。正気のない表情に僕の心臓は極限まで暴れる。


 星野さんを見て、女性はにっこり笑った。


「あら、こんにちは。また会ったわね」


「本屋に行ってきたんです」


「まあまあ、勉強熱心なのね」


 そう女性が話しかけてきたのを聞いて、自分は一気に安堵した。思ったより普通の会話をしているからだ。話した感じ変なところもない。

 

 星野さんと会話する様子は格好こそ奇抜だけど普通の女性だ。顔を緩めて笑っている。ずっと襲っていた寒気がようやく落ち着いてきた。


「あら、お友達?」


 女性は僕を見て首を傾げた。慌てて頭を下げる。星野さんが説明した。


「バイト先が一緒なんです。本屋でたまたま会って」


「あら、そうなの」


 女性は僕に向かって微笑んだ。細い目がさらに細くなり、三日月の形になった。その奥にある黒目はどこか冷たさを感じる色に思えたのは気のせいなのか。


「は、初めまして……」


「ふふふ、そうなの。学生さんね?」


「あ、はい」


「ふふふふふふ。若いのね。

 ほーら、お兄さんにご挨拶なさい。今ちょうど起きているでしょう?」


 そんな声がしてようやく落ち着いてきていた心臓がどきりと鳴った。未だ日除けの屋根で見えないベビーカーに向かって話しかけているのは明白だったからだ。


 女性は顔をずいっとベビーカーに近づけた。先ほどから、その中から正気が感じることはない。赤ちゃんが乗っているのならもっともぞもぞ動いたり、ちょっとした声とか聞こえてきてもよさそうなのに、微かな音すら聞こえてこないのだ。


 それでも女性は嬉しそうに話しかけている。その光景を見て先ほどの話を思い出す。ぬいぐるみに向かって話しかける女性、そしてそのぬいぐるみは突然笑い出す……


「あらあらいつのまにか寝ちゃったのね」


 そう言って女性は日除けの屋根を思い切り畳んだ。寝ているなら別にいいですよ、と断る余裕すら見えなかった。


 緊張で全身が硬直してしまった自分は、声すら出せずにただ棒立ちでその光景から目を離さずにいた。


 下半身は柔らかなブランケットがかけられていた。真っ白なフリルのついた洋服に、真っ白なよだれかけ。ぎゅっと強く握ったままの小さな手。毛穴ひとつ見えない肌にちょこんとついた桃色の唇。


「気持ちよさそうに寝てるわ。いつもは起きてるんだけど」


 僕は中身を凝視した。瞬きすら忘れて。

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