第4話 美人な男の人

「じゃ、じゃあ試しに……うまくいくか分からないですけど」


「ありがとうございます!」


 私は静かにベッドの横に移動した。そして、横たわる彼の顔を見る。


 なんとなくその表情を見たくなって、そっとフードをどかせてみた。これが初めて見る、お隣さんの顔。


 そこには、少し驚いてしまうほどの綺麗な顔があった。


 白い肌に長いまつ毛、高い鼻。薄めの唇に、さらりとしたダークブラウンの髪。一瞬、女性だったのかと思ってしまったが、体格は間違いなく男性なので、『美人な男の人』なのだろう。こんなきれいな人、初めて見た。


 しかしその眉間には皺がより、頬がぴくぴくと動いている。苦しいのか、痛いのか。どちらにせよ、彼がひとり苦痛に耐えているのが分かった。少しすると、唇からうめき声が聞こえてくる。不規則な息遣いから見ても、これはかなり辛そうだ。


 私は意を決して、彼の手をそっと取ってみた。やはりひんやりしていて、生きている人間の体温とは思えない。


 黒いもやたちが、より一層動きを速め、男性を覆う。離れるもんか、と言っている気がした。だが少し経って、その動きが緩慢になってきた。もやたちはゆらゆらと陽炎のように揺れつつも、明らかに薄くなってきているのだ。


 私はというと、特に自分の体に異変は感じられない。辺りを見回してみても、部屋に変わりはなかった。短髪の男性が、信じられない物を見る目で私たちを見ているだけだ。


 どれほどの時間そうしていただろうか。気が付けばとっくに日付は超え、もやもだいぶ小さくなってきていた。柊一さんの表情は穏やかなものになっており、気持ちよさそうな寝息が聞こえてきたほどだ。


「もう大丈夫だと思います」


 短髪の男性が言ったので、私はようやく手を離した。まだもやは消え切ってはいないが、だいぶ減ったので、楽にはなっただろう。


 振り返ると、男性が私に深々と頭を下げていた。何事かと慌てる。


「あ、あの?」


「ありがとうございました。あなたは体調など、大丈夫ですか?」


「はい、私はなんともありませんから、顔を上げてください」


「凄い、こんな短時間で」


 顔を上げた彼の表情は、ほっとしているようだった。固かった表情が柔らかくなっており、だいぶ心配していたんだろうなあと想像がつく。


 彼は再度私に頭を下げた。


「申し遅れました、俺は片瀬暁人と言います。そっちは、黒崎柊一」


「ああ、黒崎さんがお隣に住んでるんですよね? 一度見たことがあって」


「はいそうです。この度は無理なお願いをしてすみませんでした」


 片瀬さんは丁寧にそう言ってくれる。思っていたけれど、ずいぶんしっかりした人だなあ。顔立ちもきりっとしてるし、義理堅そうな印象がある。


 私はおずおずと尋ねた。


「いえ、別にいいのですが……何が何だか分からず」


「正直、俺も信じられない気持ちでいっぱいで、混乱してて。ただ、柊一が落ち着いたというのは間違いないみたいです。色々説明しなければならないでしょうが、遅くに女性の家にお邪魔しているこの状況もどうかと思うので、一度タクシー会社に連絡して、家の鍵について聞いてみてもよろしいですか?」


「あ、それはもちろんです!」


 片瀬さんはポケットからスマホを取り出すと、一旦立ち上がって廊下へ出ていった。電話を掛けるようだ。私はふうと一旦気持ちを落ち着ける。


 ちらりと、自分のベッドに横たわる黒崎さんの顔を眺めた。すやすや眠っているようだけれど、なんだか生きてる人間とは思えない。顔の造りが綺麗だからだろうか? 人形のようだ。


 この前もあのもやに包まれていたけれど、なぜこんな状況になっているのだろう。そして、私が触れることによってそれが軽減されるのはなぜ?


「分からないこと、だら、け……」


 一人でつぶやいたとき、ぐらりと視界が揺れた。猛烈な眠気が襲ってきたのだ。寝てはだめだ、素性も知らない男性二人を家に入れたままなんだから。そう自分を叱りつけたが、これまで感じたことがないほどの強い眠気で、到底抗えない。


 体がずるずると床に倒れこむ。そして瞼は重くなり、そのまま夢の中へと入り込んでしまったのだ。







 うっすら目が開く。見慣れた自分の家の棚が見えた。上には、写真が入っていない写真たて。


 すぐ頭上にある窓にはカーテンが引かれているが、その隙間から光が差し込んでいるのが分かった。


 あれ、朝?


 慌てて体を起こしてみると、同時に肩から毛布が滑り落ちた。見覚えのない毛布だった。フワフワとした柔らかな茶色のそれを、ぽかんとしながら見下ろしていると、


「大丈夫ですか」


 心配そうな声がした。横を向いていると、壁にもたれて座り込んだ片瀬さんが、眉をひそめて私を見ていた。その瞬間、昨晩起きたことが一気に脳裏によみがえる。


 結局あのまま眠ってしまったのか。しかも朝までぐっすりと!


 ハッとしてベッドの方を見てみると、黒崎さんはいまだ静かに寝息を立てていた。彼の体にはもう黒いもやはまとわりついていない。


「わた、私寝てしまってたんですか!」


「あ、無理に起きないでください! 今、体調はどうですか? すみません、無理をさせてしまったようで」


「いえ、ただ眠ってしまっただけです! 体調が悪いわけでもないですし、全然大丈夫ですよ」


 そう返事を返すと、彼はほっとしたように微笑んだ。そして申し訳なさそうに頭を垂れる。


「すみません、戻ったらあなたが寝ていて。家の鍵はタクシーの運転手に持ってきてもらったので帰宅しようと思ったんですが、勝手に帰っては戸締りが出来なくなると思い……女性ですし、そのままにしておけなくて。って、見ず知らずの男二人と同室にいるのも問題ですよね。本当にすみません」


「謝らないでください、寝てしまったのは私のせいです!」


「多分あれのせいですよ」


 片瀬さんが黒崎さんを見る。なるほど、確かに尋常ではない眠気だったもんな。あれの正体は知らないけれど、あんなものに触れては普通ではいられないのは間違いないだろう。


 私はとりあえず、冷蔵庫からお茶を取り出し、片瀬さんに手渡した。自分も喉が渇いていたので一気に飲み込む。


「えっと、挨拶もまだですみませんでした。私は井上遥と言います」


「井上さん。色々話を伺いたいのですが」


「それは私もで」


 言いかけた時、背後から小さな唸り声が聞こえた。振り返ると、黒崎さんがゆっくりと目を開けたところだった。片瀬さんがそばに寄り顔を覗き込む。


「柊一!」


「うう……ん」


 長いまつ毛が揺れ、とろんとした目が片瀬さんを認識した。かすかな声が形のいい唇から漏れる。


「暁人……」


「お茶飲むか?」


「何日経った……?」


「まだ一晩だ」


 片瀬さんが微笑んで言うと、黒崎さんは不思議そうにした。そして腕を持ち上げ、自分の手を観察している。まだぼんやりしているようだ。


「ん……あれ?」


 黒崎さんはそっと体を起こす。ややふらついたものの、上半身は問題なく起こせた。そして彼は、ゆっくりと私の方を見る。ばちっと目があった。彼はまだぼんやりした顔で、小さく首を傾ける。自分の心臓がドキリと鳴った。

 

 やはりなんて綺麗な人なんだろう、俳優も真っ青ではないだろうか。綺麗なだけではなく、どこか色っぽさも感じる。瞬きをしたら消えてしまいそうな、そんな儚さを感じる人だった。


 同時に、近寄りがたいオーラを感じる。……そう、どこか影があるのだ。あの黒いもやに包まれている姿を見てしまったからなのか。声を掛けるのを、なんとなく躊躇ってしまう。


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