第13話
本日も特にすべきことがなかった太老は、祖母――鶴絵と一緒に彼女が手入れをしている花壇の世話を朝からしていた。
祖母は花好きで、この花壇には四季折々の花々が咲く。特にこの春に咲くルピナスという花が可愛くて好きなのだそうだ。
ルピナスは花自体も丸みを帯びていて、しとやかな薄桃色で可愛らしいが、その葉も綺麗な若緑色で見た目も素敵だ。太老も爽やかな雰囲気を持つこの花を気に入っている。
それにしても平和だ。こんな平和を満喫できるとは喜ばしいことである。
前の人生では、結局すべての受験も失敗したことで、しばらく落ち込んでいたし、通信教育の準備をしたり、バイトを探したりとバタバタしていた。
こんなにも穏やかな時間を過ごせるとは思いもしていなかったのだ。それもこれもあの少女のお蔭だと思うから、本当に感謝している。
「そういや朝からじいちゃん出かけてったけど、どこに行ったの? 散歩?」
ジョウロで水やりをしながら聞いた。
朝食を食べた後に、祖父である太助はフラリと家を出て行ったのだ。
「ああ、パン屋さんよぉ」
「パン屋? この近くにあったっけ?」
少なくとも自分は知らない。
「つい最近できたって聞いて覗いてみるって言うてたねぇ」
「なるほど。じいちゃん、パン好きだからなぁ」
見た目は和を愛し和に愛される頑固一徹ジジイに見えるが、ああ見えて洋風にも造詣が深い。昔はいろいろ世界中を旅して回ったらしいし、その経験からパンを好きになったのだろう。
パン屋なら朝早く向かうのは理解できる。昼頃に出向いても、すでに売り切れになっているパンがあったりするから。
そんな話題で楽しんでいると、その当人が帰ってきた。その手には紙袋を持っていて、明らかにそこからパンの香ばしい匂いが漂ってきている。
太助曰く、焼き立てを買ってきたということなので、皆でベーカリータイムを堪能することになった。
「おぉ! めちゃ美味そうな塩パンじゃん!」
袋から開けると、さらにそこから強烈なバターの香りが飛び出てきて食欲を刺激する。
「ほれ、バアさんにはコーンパンだ」
「あら、嬉しいわぁ」
さすが鶴絵の夫である。好みをしっかり把握している。
太老は塩パンを頬張ると、反射的に頬がとろ~っと緩む。まだほんのり温かく、外は少しカリッとしていて中はモチッとした食感。絶妙な塩加減とバターの上品な香りが五感を楽しませてくれる。もちろん味も抜群だ。
すぐに一個をペロリと完食すると、さらに二個目を口にする。
「うっまぁ……これなら無限にいける!」
さっき朝食を食べたばかりだというのに、腹の虫がどんどん胃に放り込んで来いと要求してくる。
見れば、太助も大好物のクリームパンを噛み締めるように食していた。その頬が少し赤らみ緩んでいることから、大当たりだと満足している様子。
「にしてもどこのパン屋? これなら俺も常連になりたいし」
太助が言うには、この住宅街の中にできた小さなパン屋らしい。家族経営で小さな子供も手伝っている微笑ましい店とのこと。
一週間ほど前に開店したらしく、まだそこまで人気ではないが、その美味さから口コミやネットで広がり、ジワジワと客も増えてきているようだ。
太老はそのうち自分も一度足を運ぼうと思った。
そして三つ目の塩パンを食べ終わると、真っ直ぐ自室に戻り座布団に座ってひと心地をつく。
(そういや、あの子……ちゃんと喋ることができたかな)
不意に思い浮かんだのは、昨日出会った幼女のこと。
(名前は確か富士河音々呼……だっけ)
彼女は原因不明の高熱で寝込み、その副作用で声を失ったと思われている。実際の三年間で一言も発せていないことから、治療は絶望的だという雰囲気を彼女の母から伝わってきた。
けれど先天的なものではないと聞き、なら何かのきっかけで治ることは十分可能性としてあると太老は踏んだ。
実際に医者が不可能や、無理と思われた症例でも回復したことも数ある。それだけ人間の身体はいまだ謎に包まれているということ。
さすがに切断された部位から、トカゲの尾のように新たに手や足などが生えてくるなどという現象は絶対起きないとは太老も思っているが、音々呼の症例に関しては治る可能性を感じた。
だから富士河家から帰る際に、自分の能力を使ってみたわけだが……。
(治ってるといいけどな……)
完治したのかどうかその目で確認していないので分からないが、この《確率変動能力》が発揮してくれているなら恐らくは大丈夫だろうと思う。
この力も万能でこそあるが、やはり制限というものは存在する。
その一つが効果を及ぼす範囲である。いろいろ試してみたが、自分と近い対象ほどより確実に確率を操作できることが分かっていた。
例えば先ほど出たパン屋だが、数日後潰れてしまう確率をこの場で百パーセントに操作したとする。しかしそれは現実に起き得ない。
これは能力が効果の範囲外であることを示している。だからもし本当に潰すつもりならば、実際に店に行ってその場で力を発動する必要があるのだ。
また元々の確率が低いだろうと太老が思っている事象に対しては、やはり直近でなければ確率を操作することができない。
つまり対象に触れることさえできれば、どれほど絶望的でも現実に起こすことができるのだ。
だから昨日は、確実性を増すために音々呼に触れて能力を発動させた。直感でしかないが、成功したとは何となく感じている。
それでも実際に目で見ていない以上は不安は残っていた。
(……確かめに行ってみるか?)
一応昨日治療してもらったあとに、医者の舞香にできれば患部を確認したいから顔を見せに来てほしいと言われていたことを思い出す。
幸いあれから傷の痛みは落ち着いていた。さすがに風呂で洗ったりはしなかったし、太助たちに心配させまいと隠していたが。
それにできる限り早く完治するように確率も上げていたから、そのお蔭か今はほとんど痛みはない。
(それに気になることもあるし……)
そこまで注意することではないかもしれないが、やはり気に出したらそのままにしていられないのは性格だろう。
「……よし、昼過ぎにでも行ってみようか」
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