第11話

「ああそれと、できれば明日も来たまえ。傷が悪化していないか確認もしたいからね。まあ時間があったらでいいが」

「ありがとうございます。別に忙しくないのでお世話になりに来たいと思います」


 太老が身形を整えて帰宅準備をしていると、沈黙を破るように舞香が発言する。


「……君は何も聞かないんだな?」

「……?」

「あの子……音々呼のことさ」

「…………まあ、プライベートのことなので」


 何故声が出せないのか、その理由が気にならないわけではないが、今日会ったばかりで追及するのは不躾というものだろう。


「やれやれ、本当に子供らしくない気遣いをする。まあ別に込み入った話があるわけでもないから、恩人の君になら教えてもいいんだがね」


 太老はそれでも自分から聞くことはせずに黙っている。すると舞香が遠い目をしながら語り始める。


「元々はね、ちゃんと話せていたんだよ」

「生まれつきではなかったんですね」


 声が出せないことを知り、反射的に音々呼の喉に目をやったが、そこに傷一つ見当たらなかったので、事故とかそういうことで声が出なくなったわけではなく先天的なものかと勝手に解釈していた。


「今あの子は六歳なんだけど、三歳の頃にね、原因不明の高熱に襲われたのさ」

「高熱……」


 幼児が高熱を出す病気の代表格といえば、おたふく風邪とか、はしかだろうか。あまり幼児に関する病気について詳しくないのでよく分からないが。 

 ただ医者である舞香が原因不明と言っていることから、ただの高熱ではなさそうだ。


「その日は家族で海に行ってね。その帰りに突然さ。熱は三日ほどで引いたんだけど、その後遺症か声を出せなくなっていたのさ」

「そんなことが……今でも治療法などは試されてらっしゃるのですか?」

「一応過去の症例なんか調べて効果がありそうなものは一通りね。けれど……」


 大げさに肩を竦めることから何一つ効果はなかったようだ。


「そういうことってあるんですか? 高熱で声が出なくなるとか」

「まあ人間の身体は……特に病についてはすべてが解明されているわけじゃないからね。音々呼に関しても、原因が声帯なのか、脳なのか、それとも別の部位なのか。はたまた精神的なものなのか。少なくても原因さえ分かれば嬉しいんだけどね」


 悲痛な面持ちで声を絞り出す舞香の姿が痛々しく見えた。

 それもそのはずだ。大事な娘であり、しかもまだ六歳だ。声が出せないことは常人と比べても大きなハンデになってしまう。将来を考えるとなおのこと悲観することだろう。


 しかも自分は医者にもかかわらずに原因さえ掴めず、その無力感に苛まれてしまう。太老も自分の大事な人がそんなことになったらと思うと心が痛む。


「話すことができないっていうのは本当に辛いことだよ。神様に人間が唯一許された能力の一つだからね。それが奪われたんだ。きっとあの子も辛いはずさ……なのに泣き言さえ言ってくれないけどね」


 表情に陰りが走る。その言葉でハッと思い返した。


(そっか。何となくだけど気になってたあの子の笑顔。あれは……俺と同じだ)


 自分もまた生まれた時から不運に見舞われる人生だった。そのために恐らく両親を巻き込んだりしてきたことだろう。だからこそせめて暗い雰囲気にならないようにと、子供心に笑顔だけは繕ってきた。しかしそれは本当の笑顔ではない。

 だからこそ音々呼の違和感に気づけたのだ。


「けれど元々話せてて、眼に見えるところには傷がなく、日常生活にも支障がないなら、また治る可能性だってあるってことですよね?」

「ん? ああ、もちろん私は……私や千咲は必ず治るって信じてるさ」


 強い眼差し。今の言葉に嘘偽りがないことが伝わってくる。医者として絶望を抱えていても母としては希望を捨てていないということだ。


「…………治る可能性がゼロじゃない、か」


 太老は舞香の言葉からそう認識した。そしていまだどこか暗い表情を見せている舞香に向けてこう言う。


「大丈夫ですよ」


 そんな何の根拠もないはずの言葉に、「え?」と眉をひそめる舞香に対し太老は続ける。


「きっと音々呼ちゃんの声は蘇ります」

「はは、気休めでもありがたいよ」

「いいえ、気休めなんかじゃありません。俺がそう認識したら絶対にそうなりますから」

「……は?」


 あまりにも自信満々な太老の言葉に呆けている舞香に一礼をすると、そのまま「ありがとございました」と言って診察室を出た。


 受付で舞香が言っていた抗生物質の薬を受け取りクリニックから外へ出ると、その足で隣の富士河家に視線をやる。

 本来ならそのまま帰るつもりだったが、やることができたので挨拶がてら訪ねることにした。


 縁側があり、そこに顔を出すと、窓越しに見えたリビングの中に目的の人物である音々呼を発見する。

 向こうもこちらに気が付いたのか、早足で近づいてきた。


『タローおにいちゃん、もうかえるの?』


 タブレットにはそう書かれている。見ると彼女は小さなエプロンを身に着けていた。どうやら食事の手伝いをしていた様子。


「うん、その前にお別れの挨拶をね」


 するとキッチンの方から「どうしたの、音々呼?」と声を出しながら、これまた淡いピンク色のエプロンをしている千咲が姿を見せた。


「あ、えと……もう終わったの?」


 どこか気まずそうな表情なのは、エプロン姿を見られるのが恥ずかしいからだろうか。


「まあね。だから挨拶をしておこうって思ってさ」


 太老はその視線を千咲から音々呼へと戻す。


「お母さんから聞いたよ。この子の声のこと」

「っ……そうなんだ」


 やはり親子か、消沈する表情はよく似ていた。

 太老はそんな彼女をよそに、音々呼の頭にそっと触れる。


「――大丈夫」


 そんな太老の言葉に、「え?」と千咲が目を見開く。同時に音々呼もよく分からないといった様子である。


「大丈夫。この子はまた喋ることができるから」

「……!?」

「俺はそう思う。この子がすぐにまた喋れるようになる確率は――百パーセントだ」


 それから太老は軽く撫でるとゆっくり手を離す。そしていまだ困惑気味の姉妹に向かって右手をサッと上げる。


「じゃあまた、今日はありがとうな」


 太老が踵を返すと、音々呼は『バイバーイ!』と書かれたタブレットを持ちながら手を大きく振っているが……。


「……な、何なのよ一体……?」


 千咲だけは、いまだ謎に包まれた感じで立ち尽くしていた。




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