第4話 心の父親

 コーヒーとは、味ではなく香りを楽しむものだ。

という少年時代の秋名陽一あきなよういちの中で凝り固まっていた概念が覆されたのは何歳の頃だったか?

良い珈琲豆を使えば香りだけではなく、透明感のある味わいまでも楽しめるという事を知ってからコーヒーは奥深い世界があるのだと思い知らされた。

だから今こうして、客にコーヒーを振る舞う立場に立っている。

コーヒーとは焦らずに楽しむもの、だから客にもゆったりとした空間を楽しんでもらいたくドッシリと構えてなけりゃいけないのだが今の陽一はそんな悠長な事を言っていられない。

何故なら――



「そんなに心ちゃんのこと、心配っすか?」

「ああ?」



アルバイトの大学生、真鍋守まなべまもるはカチャカチャと音を鳴らしながらカレーやオムライス、ビーフシチューの皿を洗いながら話しかけてきた。

平日の昼間下がり、ランチタイムも終わり今はコーヒーとケーキを楽しんでいるOLや常連の老人しかいない時間帯だ。

真鍋もここ『珈琲店フルハウス』で働き始めてから2年ほど経ち、今は立派な戦力だ。

ややチャラチャラした一面もあるが、守の進路次第ではいつかは正社員として迎えてもいいと陽一は考えている。



「この間、俺が心ちゃんと一緒に映画を観に行こうと誘ったら『彼氏いるんで、そういうのマズいです。ごめんなさい』って断られたって話したらマスター、皿割ってたじゃないすか。普段は俺が割るのに」



真鍋にそういう気があったわけではない。

元々は真鍋が男の友人と観に行こうと思って取った映画のチケットが、友人が急に別の予定が入って行けなくなってしまったので心を代わりに誘おうとしたらそういう断られ方をしたのだ。それも、父の陽一がいる前で。

話題の映画であり、恋愛映画というよりイケメン俳優が出るラブコメだから歳頃の女の子でも観られるだろうと思ってのことだったのだがダメだったらしい。



「それからどうにも様子がおかしくて、あれこれ悩んでる素振りを見せるようになったから……もしかしたら、原因それかなーって」



プルプルと陽一は震えているが、我慢の限界が来たのかとうとうキレた。



「そもそも――勤務先の店長の娘に映画館デートを誘うなよ!! まだあいつ、中学生だぞ!!」

「中学生でもデートくらいはしますよ」

「するけど!! 普通は同学年の男子とだろ!!」

「中学生男子の方が遥かに危険っすよ。あいつら、覚えたてのスケベな事しか考えてないし、思春期なもんだから教えがきかないし」

「そ、そうなの……????? いや、でも男子大学生ってだけでもう思春期の女の子には毒だ!! 無条件で憧れてしまうだろ!!」



陽一が中学生だったのはもう25年近く前の話だ。その頃に何をしていたかなんて思い返せない。

頭の中空っぽで友人と商店街を練り歩き、1本100円以下の焼き鳥を食べながらバカな話をしていたと思う。

客は陽一と真鍋のやり取りを見てクスクスと笑っている。この二人、時には心を交えた漫才はこの珈琲店『フルハウス』の新しい名物になりつつある。



「でも、俺は心ちゃんをそんな目で見たことないっす。俺としてはもっとおっぱいのボリュームが欲しいというか、もうちょい髪の毛伸ばしてもらえると推しやすいというか」

「ふざけんな!! あと数年したらもうちょい色気は出るし胸も大きくなるわ!! 美乎みこのDNAがそれを証明している!!」



陽一の記憶通りなら、妻の美乎はかなりの巨乳だった。

初めて声をかけたのもその圧倒的なプロポーションに釣られて、一目惚れしてしまったからだ。

父親として娘の体が貧相と言われたら反論せざるを得ないが、この場に心がいたら二人とも引っ叩かれていたところだろう。



「まあでも、良かったじゃないすか」

「……何がだ?」

「自分のお父さん以外にも、頼る相手が出来て。大切な人がいなくなって、どうしようもない気持ちのやり場って一人で抱え込むしかないじゃないですか。自分のお父さんだからこそ、そういうのって気持ちを共有しづらいもんでしょ。きっと心ちゃん、近い将来……ちゃんと立ち直れますよ」



真鍋が心と初めて会った時の第一印象は、なんて暗い眼をした女の子なのだと驚愕させられた。

話しかけても、まともに取り合ってもらえなかったがしばらくしてからようやく笑いかけてもらえるようになった。

あの時の心の眼差しが脳裏に焼き付いて、抉られたような気持ちになったからこそ真鍋はついつい心を揶揄ってしまうし守ってやりたいと思うようになってしまった。



「あいつにもう一人、きょうだいがいたら変わっていたのかな」

「きっと、きょうだいじゃダメなんですよ。外界の人間だからこそ支えてあげられる事ってありますし」



お会計お願いしまーす。

という、ケーキを三つも注文した縦にも横にも大きなOLがノシノシとレジに歩いていく。



「はーい! ええと、お会計は2250円になりますね」

「今度、心ちゃんに美味しいケーキを作り方を教えてもらおうかしら」

「それはちょっと困りますね……ここで食べていってください」

「ケーキといえば――」



生クリームと牛バラ肉がもうすぐ無くなりそうなので、買い出しに出なければいけないだろうと陽一は食材ストックを確認する。

業務用スーパーから食材を仕入れているのが、もうそろそろ買いに行くべきだろう。



「少し、買い出しに出掛けてくる。真鍋、あんまり客をナンパするなよ。トラブルになったら困るからな」



エプロンを外してハンガーに掛け、車のキーを取り出す陽一。

この買い出しの時間は陽一にとって憩いの時間でもある。

あれこれ食材を見てブラつくと、やはり癒される。



「はい、お気をつけて! ここ最近、変なバケモンが出るって噂ですからね」

「その時は俺のドライビングテクニックで逃げ切ってやるさ」




◆◆◆◆◆◆◆



『良かったじゃないですか。お父さん以外にも頼る相手が出来て。どうしようもない気持ちのやり場って、一人で抱え込むしかないじゃないですか』



普段はあまり信号に引っかからないのに、この時は連続で信号に引っかかってしまった。

だからだろうか、妙に真面目な顔で語る真鍋の表情と言葉がリフレインしてしまう。

真鍋は真鍋なりに、心のことを大事に思っているのだろう。それはきっと、やましい気持ちなどではなく身近な男性として傷を負った少女の心を解きほぐしてやりたいと必死だったからこそあのチャラチャラした態度を取っていたのだ。

陽一もそんな事は分かっていた。だから信頼して、近くに置いていたのだ。



――俺は、心のように前を向こうとしていた事があっただろうか? 自分の娘の背中を押してやろうとした事があっただろうか? 心のことを顧みずに、悲しんでばかりだったのではないだろうか?



『ほら、ボサっとしないで起きる! 私、お母さんにお父さんのことを任されたんだからね!』



妻の美乎が今際の際に心にかけた言葉、あれは夫がだらしない上に妻と死別するという事実に耐えられないだろうと、見透かしていたのだ。

だから、まだ幼い娘に夫のことを頼むような事を言ったのだろう。



「まったく……情けない事だ」



コーヒーを淹れることしか能のない人間だったが、今度は娘にさえ追い越されてしまった。

自分なりに娘を守ろうとしていたのに、娘は悲しみを乗り越えて自分なりの人生を歩もうとしている。

心はしっかりしている、目先の優しい大学生ではなく同級生の男の子を愛そうとしているのだ。



商業通りを抜けて、駅の裏手にある業務用スーパーであれやこれを買う。

確か、アーモンドプードルを切らしていると心が言っていたが思っていたよりもずっと高い。

心は「フィナンシェなんてそんなに高いものじゃない」と言っていたが、もう少し値上げをするべきだったか?

最近は食料品も次々高騰しているし、焼き菓子の中でもかなり人気なのでもう少し値上げをしたいところだが――。



「もう少し様子を見るか」



コンビニスイーツよりも安い、手軽に焼き菓子やケーキを食べられるというのも『フルハウス』の売りの一つだ。

菓子は美乎に、美乎が死んでからは心に任せていたがこの辺りの経営判断は自分でやるべきだ。そう、陽一は静かに決意した。

だが、フィナンシェの値上げを勝手にしたらしっかり者の心を怒らせてしまうだろう。



「お、じゃがいもが安いな……牛乳とチーズもあるし心にグラタンでも作ってもらうか」



……陽一はそんな決意とは裏腹に料理が苦手である。というより、心に自宅のキッチンには立たないように固く言われているのだ。



――まったく、今日はつくづく自分が情けなく思える。



◆◆◆◆◆◆◆



 車を走らせ、急いで『フルハウス』へと車を走らせる。

ディナータイムに向けて、そろそろカレーやオムライスなどの仕込みをしなければ。

だが陽一は基本的に安全運転を心がけている、交通事故による遺族が交通違反など許されるものではない。



『ハートイーター警報発令!! ハートイーター警報発令!! 現在、星乃灯市ほしのびし第一地区にてハートイーター出現反応を確認しています。民間人の方は直ちに安全な建物などに避難してください。繰り返します、ハートイーター警報発令――』

「ハートイーター警報!? つい先週出たばかりじゃないか、どうなってるんだ!!」



半年ほど前から、この星乃灯市ではハートイーターが出現した場合、ハートイーター出現の警報を市内全域に発令される。

そうする事で、民間人による被害を少しでも減らそうとしているのだ。



「安全な建物、ね。取り敢えず、店へ行かねえと!」



――あの『フルハウス』は美乎が遺したかけがえのない店だ。そう簡単に壊させてやるわけけにはいかない。



陽一は信号が青になったのを確認するとアクセルペダルを踏み、店へと急ぐ。とはいえ、突然の警報に人々は戸惑っているため極力安全運転で。

が、ズシンズシンとハートイーターと魔法少女と思われる戦闘音がくぐもった音と共に振動で伝わってくる。



「左の方から、か?」



ウィンカーを右に出し、遠回りをして店へと向かおうとするがそこに小さな人影が飛んできてフロントガラスに叩きつけられる。



「うわっ!?」

「きゃあっ!?」



急いでブレーキを踏む。そんなにスピードは出していないかもしれないが、一目で魔法少女が叩きつけられたのだと分かった。

ニュースでも遠影しか見かけないが、色合いやコスチュームの派手さから誰かは判別できた。



「お、おい! 大丈夫か!? 怪我は?」

「車を置いて、近くの建物に隠れていてください! ここはハートイーターとの戦場……安全は保証出来ません!」



ハァハァ、と肩で息をしているがその息遣いと声、顔立ちは髪型や瞳の色が変わっていてもすぐに分かった。



「心……か? お前、まさか!?」



そう呼びかけられて、魔法少女は咄嗟に振り返る。



「お父さん? どうして……!?」

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