37. 熱い衝動
脱衣所は真っ暗で誰の姿もなかった。
浴場からも湯を浴びる音は一切聞こえてこないし、おそらく誰もいないのだろう。
しかし、ガラス戸で遮られた浴場の方からは昼のように明るい灯りが照り付けている。
この浴場はどんな照明を使っているんだと不思議に思いながらも、僕は義足と衣服をカゴに放り込んでガラス戸の取っ手を握った。
「熱っ!?」
思いがけない熱さを感じて、取っ手から指を離してしまう。
見れば、ガラス戸は縁から一直線にひびが入っている。
こんな夜更けの残り湯がガラスに熱割れを起こさせるほど熱いわけがない。
まさかこの宿は、二十四時間働く熱心な風呂焚きでも雇っているのか?
……そんなわけないよな。
裸になって冷えてきたので、僕はタオル越しにガラス戸を開いた。
すると――
「ぷわっ!?」
――一瞬にして湯気に包まれた挙句、まるで火事を目の前にしているかのような熱波を感じた。
「なんだこの熱さは!?」
もはや暑いを通り越して、熱い。
しかも、湯気の先では赤みを含んだ黄金色の光がうっすらと明滅している。
火事かと思って浴場に飛び込んでみると、大理石の床までもが異様な熱を持っていた。
たまらず片足で跳び跳ねていると、ひとりでにガラス戸が閉まってしまう。
「ど、どうなっているんだ!?」
困惑する僕の耳に、ざばぁっと湯が流れる音が聞こえた。
先に誰か入っていたのか?
浴場は真っ白な湯気に覆われているせいで、人影などは見えない。
そもそも、こんな異様な温度で湯に浸かっていられるとは思えないけれど……。
「……誰?」
湯気の奥から声が聞こえた。
しかもその声は僕が知っている人物のものだ。
「まさかルールデス、か?」
「……マリオ。何をしに来たの」
「何をって、ここ浴場だぞ。そりゃ風呂に入りに――」
そこまで言って、僕は血の気が引いた。
ここ、まさか女湯じゃないか!?
思い返してみると、入り口にそんなマークがあったような……。
廊下は薄暗かったし、浴場のある宿なんて久しぶりに泊まったから、うっかりしていた。
「ごご、ごめん! すぐに出ていくよっ」
慌ててガラス戸を開こうとしたものの、不意に僕の体が引っ張られた。
突然の浮遊感に驚く間もなく、僕の体は浴槽にぶつかって跳ね返った。
おまけに高温の湯が背中に掛かって、まるで焼きごてでも食らったかのような痛みに襲われる。
「うぎゃああぁぁっ――あぶっ」
床の上でもがいていると、冷たい水をぶっかけられた。
間一髪で火傷を免れたと思った矢先、全身に浴びた水が一瞬にして蒸発していく。
……これじゃまるで蒸し風呂だ。
「覗きとは、不埒な、真似を、してくれたわね」
「ちちち、違うって!」
「その上、世話を、焼かせないで、ほしいわ」
「うっ!?」
にわかに湯気が薄らいだ浴槽には、ルールデスの顔が見えた。
しかし、何やら様子がおかしい。
彼女は肩まで湯に浸かっているのに、なぜか全身を小刻みに震わせている。
「ルールデス。一体どうしたんだ……?」
「うる、さいっ」
「見るからに顔色が良くないじゃないか!」
「黙りな、さいっ」
邪険な物言いだけれど、その表情は驚くほど弱々しい。
普段の彼女とは別人のようだ。
「まさかシャナクとの戦いで負った怪我が治っていなかったのか!?」
「……違うわ。寒いのよ」
「え?」
「どんなに湯を熱しても、まったく温かくならないのよ……っ」
「暖かくならないって……この熱気で嘘だろう」
ルールデスがそんなことを言うものだから、浴槽の湯に指先を入れてみた。
すると――
「熱っ!!」
――指先に凄い熱を感じて、僕は慌てて指を引っ込めた。
「な、なんだよこの湯は!?」
とてもゆっくり浸かれるような温度じゃない。
こんなものに長時間浸かっていたら、全身がシチューにでもなってしまう。
「もっと……もっと熱くしないと……」
「やめろ! 何を考えているんだよ!?」
僕はとっさにルールデスの腕を掴んで浴槽から引っ張り出した。
しかし、勢いあまって彼女を抱き寄せる形で床へと倒れ込んでしまう。
幸いなことに、タオルが下敷きになってくれたので背中は焼けるほど熱くない。
「さ、寒い……っ」
「ルールデス!?」
ルールデスは僕の腕の中で震えている。
彼女の肌に感じた熱は瞬く間に冷めてしまい、まるで冷たいシーツでも抱いているかのような感覚に襲われた。
この状況は身に覚えがある。
いつぞやのシャナクにそっくりな現象だ。
「うぅ……。た、助けて……っ」
「しっかりしろ、ルールデス!!」
僕が彼女を抱き起こそうとした時、天井に煌びやかな光が見えた。
否。あれは黄金の炎だ。
黄金色をした炎が天井から燃え上がっていて、周囲を熱している。
浴場が異様に熱かったのは、あの炎のせいだ。
「寒い……。もっと、もっと熱を上げないと……っ」
言いながら、ルールデスが震える腕を掲げた。
すると、天井で燃え上がる炎がひと際眩く輝き始める。
凄まじい熱だ。
息ができない――と言うか、喉が焼けそうなほどの温度。
このままじゃ焼き殺されてしまう。
「ルールデス、あの炎を消すんだ!!」
「い、嫌よっ! あれを消したら、寒くて、死んでしまうっ」
「大丈夫だから、あの炎を消せっ!!」
「……っ」
僕の命令に従ってくれたのか、天井の炎が消え去った。
それによって浴場は真っ暗となり、遅れて周囲の温度も下がり始めた。
……焼き殺されるのはなんとか免れたか。
「はぁっ、はぁっ。し、死ぬかと思った……!」
僕は息苦しさから解放されて、床に手足を投げ出した。
しかし、ルールデスは僕の上に乗ったまま離れようとしない。
それどころか――
「ちょ、ルールデスッ!?」
――僕の首に手を回し、豊満な胸を押し当ててくる始末。
その不意打ちに、僕は体が熱くなってきてしまった。
「あぁ……温かい……」
「えっ」
「どうしてこんなに暖かいの……?」
「……!」
ルールデスは僕の顔を覗き込みながら、頬を染めてうっとりとしている。
「さっきまで極寒の中にいるようにすら思えたのに、お前の体に触れた途端、体の芯から熱を感じてきたわ。
「べ、別に僕は何も……」
「嘘をつきなさい。あれほど寒かったのに、今はもうこれほど温かい。お前、
「僕は魔法なんて使えないって!」
「……それもそうね。では、これはお前のギフトによるもの、ということ?」
僕のギフト〝
でも、自分のギフトながらまだまだ不明点も多い。
シャナクも自我がハッキリしてきて間もなく、異常な寒さを訴えてきた。
ルールデスでも同じ症状が発生したということは、もしや僕に操られた死体は寒気が襲うという副作用でもあるのか?
「わからないよ、そんなことっ!」
「……そう。でも、
そう言うや、ルールデスが唇を重ねてきた。
彼女は僕の頭を抱きしめるようにして、口の中に強引に舌まで入れてくる。
……混乱。
抵抗しようにも、彼女は僕にまたがったままどこうとしない。
しばらくその状態が続き、あわや窒息しそうになった頃、ようやく彼女は顔を離してくれた。
「――やはりそうよ。全身に熱が戻ってくる感覚……湯の中にいた時よりも、ずっとずっと温かい!」
「ルールデス、自分が何をやっているのかわかっているのか!?」
「黙りなさい」
「うっ!?」
暗闇に目が慣れてきた僕が見たのは、ルールデスの妖艶な笑み。
そして、細い首と鎖骨に張り付いた湿った髪、露わになった豊満な胸と、馬に乗るように僕へとまたがっている大きなお尻と太もも。
身動きの取れない僕は、目の前の光景にただただ困惑するばかりだった。
「どうやらお前のギフトには、お前自身もわかっていない
「
「支配対象を自らに縛り付けるために不自由を強いている。人形と違って
「どういう意味だ!?」
「
「なんだって……?」
「それは耳に届く声であったり、肌から伝わる熱であったり、内から染み出る体液であったり――おそらくそんなところでしょう。実によくできているわ。支配対象が女ならば、男のお前にとって都合の良い既成事実として使えるものね?」
「そんなの僕の意思じゃない!」
「でも、お前の本能がそれを望んだから、結果としてこの
「……!?」
ギフトが人間の欲望を顕しているだって?
そんなこと聞いたことがない。
「誰かと比べられたくない、誰より優れていると思われたい、自分は特別なのだと存在を示したい――その願望が、自分以外の
「なんでお前にそんなことがわかるんだっ!?」
「わかるわよ。
「衝……動……」
不意に、ルールデスが腰を浮かせた。
「本来なら不愉快極まる不自由だけれど、
「は?」
「アンブロシアを知っているかしら? 食した者に分不相応な力を与える果実だけれど、それを食べ続けた者は永遠にその甘美なる味を忘れられなくなると言うわ。
「な、何を言って……」
「
ゆっくりと彼女が腰を下ろしてくるのを感じた。
全身をくすぐる甘い感覚に息を飲む傍ら、脳裏にシャナクの顔が思い浮かぶ。
とっさに身を起こそうとするも、ルールデスが身を重ねるようにして重い胸を押し付けてきて、寝返ることもままならない。
「――洗脳魔法など必要ないわ。
暗闇の中、押し寄せる快楽によって僕の理性は押し流されてしまった。
その裏で生じる胸の痛み。
僕はそれすらもすぐに忘れて、目の前で微笑む魔女の柔肌を抱きしめることに努めた。
気持ちいい――まっさらな思考の中、その感情だけが僕を支配していた。
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