37、変わるって怖いね

 七海ななみの家の扉を開けたのは心之介しんのすけだった。彼は俺を一瞥するなり、顎をしゃくって部屋の奥を示す。


「姉さんは自分の部屋にいる。場所はわかるでしょ。勝手に部屋に押し入ったりしたら許さないから」

「わかってる」


 今はわずかなやり取りをしている時間さえも惜しい。扉を支えた体勢の心之介の横を急いで通り過ぎ、靴を雑に脱いで二階へと急ぐ。


 七海の部屋の扉は少しだ け開いていた。それでも一応三度ノックすると、ベッドの上にでもいたのだろうか。シーツがこすれるような音がした。


しんちゃん?」

「いや、俺だ。並木大河なみきたいが

「……大河?」


 足音が近づいてくる。それは、扉の前で止まった。どうやら姿を見せてくれるつもりはないらしい。


「ここで、話してもいいか?」

「うん」


 とん、と鈍い音がして扉が少し揺れる。おそらく七海は扉に背をもたれかけているのだろう。それでも閉まらないあたり、そこまで体重をかけているわけではないようだが。


「悪いな。突然押しかけて」

「ううん。こちらこそごめん。学校での私の態度が悪かったこと、謝りたかったんだ」


 七海の声は低く沈んでいた。


「最近、どうも調子が上がらなくてね。特に大河のことを考えたり、話そうとしたりすると頭がぐるぐるして。私は少し前みたいに大河と関わっていきたいのに、ままならないものだよ」

「俺も同じだ」


 とっさに言葉を返す。


「俺も、七海の家で勉強会をしたり、虎門の話を聞いてもらったりするのが楽しかった。ただそれが続けばいいと思っていた」

「一緒にクッキーを作ったりもね」

「ああ」


 七海が付け加えた言葉に頷くも、クッキーづくりというワードから蛍さんらとの会話を思い出して頭が重くなる。同じことを考えたのか、七海が深く息を吐く音が聞こえてきた。


「でも、周りの人はそれをよしとしない。少しでも仲良くしようとしたら、付き合っているのかとか、将来結婚する気なのかとか言われる。まるでそれが当然の流れかのように。だが、大河はそれをよしとはしないだろう?」

「そうだな。俺は、学生時代に恋愛をして、付き合ってという過程を経ることに意味を見出していなかった。つい最近までは」


 自分でも思いがけない言い回しが口をついて出る。その勢いは止める間もなく続いていく。


虎門こもん高嶺たかみねに告白された話は知っているか? 虎門は、一旦保留こそしたが付き合うという判断をした。その理由は、自分の選択に後悔したくないからだそうだ。高嶺が虎門に好意を抱いた時点で、二人の関係は『今まで通り』にはいかなくなった。だったら、より互いに後悔しない選択をしたいというのが、彼の考えだった」


 七海は、俺の話を黙って聞いている。虎門らが付き合っていることを彼女が知らないとは思えないので、そのまま言葉をつづけた。


「虎門の話を聞いていて思った。いくら女子と距離をおきたいと思っている人間でも、人から向けられる好意を拒むことは難しい。相手のことを嫌っているならともかく、そうでないのなら互いにとって嫌な思いになるのは避けたい。そういう心理になるのは理解できる。だったら、恋愛というものに関係性が変わることもあるのかもしれない」

「大河は、恋愛否定派だったと思うが、その考えが変わったということか?」


 静かに口をはさんできた七海の言葉に、彼女に見えていないことを知りつつも頷く。


「そうだな。俺は結局、いままで恋愛を身近なものとして考えていなかったんだ。姉さんたちが次々に彼氏を作って、破局して、元カレの愚痴を言うのを聞いて、なんで結局文句を言う間柄になるのに、彼氏を作ろうとするのか全く理解できなかった。今でも、姉さんたちの考え方はわからない」


 ひと呼吸おいて、さらに言葉を続ける。


「だが、虎門の考えは少し理解できる気がした。大切だと思える人がいるなら、その人と後悔しない関係性を築きたいっていう考えはな。きっと、そう思える相手が見つかったのなら、恋愛も悪いものじゃないんだろう。今の二人の様子を見ていたら、『恋愛に意味はない』なんて言えない。むしろ彼らにとって意味があってほしいと願うよ」

「そうだな」


 短く同意を返してきた七海は、小さく息をついた。


「私も二人には幸せになってもらいたい。あそこまで親身に話を聞いてくれる同性の友人は、はなが初めてだったからね……だが一方で、彼女たちを見ていると、私はこのままでいいのかという疑問が頭をもたげてくる」


 七海のもとまで来たのに、俺が一方的に色々話してしまった。だから今度は、俺が彼女の話を聞く番だ。耳を澄ませていると、彼女が小さく息をつくのが聞こえる。


「私が大河に抱いている感情が、華が竹内たけうちに抱いている感情と同じなのかはわからない。何せ、異性の友人はおろか同性の友人さえろくにいたことがないんだ。恋愛感情と友情の区別がいまいち付けられないんだ。でも、大河は恋愛関係を肯定的に考えていない。もし私の抱いている感情が恋愛感情なのだとしたら、きっと君は受け入れてくれない。そう思うと、このことを君に相談するのは憚られた」


 七海が最近俺とスムーズに会話ができていなかったのは、この件について話したいが話せない、という葛藤があったからなのか。だとすると、俺たちの間の『現状維持』を妨げていたのは俺の方だということになる。


「ああ、虎門は謝らないでくれよ。人によって譲れないポリシーがあることは理解している。それに、君の考えが変化していることに気づけなかったからな。私はひとりでぐるぐると葛藤していただけなんだ」


 俺の考えを見透かしたように、七海は呟く。


「だが、七海の様子が今までと違うことに、俺は気づいていた。なのに見て見ぬふりをしてしまった。俺と七海が今後どうしたいかを一緒に考えるべきだったのに、七海にだけ考えさせてしまった。申し訳ない」

「気にしないでくれ。それに大河はこうして、逃げてばかりの私のところに来てくれたじゃないか。それだけで充分嬉しいんだ。君は、自分の仲間内だと思っている人にしか親身になれない性格だろう? それでいて私にここまでしてくれるということは、君にとって私は仲間内だということだからな」


 七海の声は心なしか弾んでいた。言われてみれば、虎門以外の人間に対してここまで意識を向けるのは初めてかもしれない。彼女の言う通り、俺は自分にとって大事な存在だと認識している相手にしか親身になれない。となると七海のこともまた大事なのだろう。指摘されて初めて気づいた。そして、それを自覚した途端顔が熱くなるのを感じた。

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