7、潜入・化学準備室

漁火いさりび先生、いるかな」

「いるだろう。確実に。教育実習生のための部屋があるわけじゃない。なら、専門教科の準備室があてがわれているのは当然の流れだ」


 俺と七海ななみはいつもより三十分ほど早く登校して、化学実験室の中にいた。隣接する扉は化学準備室に繋がっている。互いに扉の脇に張り付き、こっそり中をのぞく。


「ほら、いるじゃないか」

「ほんとだね」


 俺が指摘した通り、漁火は何かの書類をじっと見つめていた。俺たちの視界からは見えないが同じ部屋にいる化学教員に声をかけられたのか、顔をあげそちらに向かう。振る舞いには特におかしなところはない。


「白衣を着ているほかは、昨日と様子は変わらないな」

「昨日の『実験』は漁火からすれば想定内の行動だったんだろうから、そりゃいつも通りだろう」


 俺は化学準備室の中に、漁火が変な薬剤を隠し持っていないかを確かめたかった。しかし詳しく調べるには、部屋が無人になる必要がある。皆がいなくなるタイミングを見計らうために実験室の扉に張り付いているわけだが、七海はドアノブに手をかける。


「おい、待て。誰もいなくなるまで待つっていう話だっただろう」


 昨日話した段取りと違うので焦る。しかし七海はどこ吹く風というように腕時計をちらりとみやった。なお、腕時計などの小物はお互いのものをつけたままにすることで合意している。ゆえに今七海が見た腕時計は俺のものだ。


「張り付いてから十分経つが、先生たちが出ていく気配はない。出ていくとしたら授業の直前になる。私たちが部屋の中を確認する時間が充分に取れないだろう。だったらもう正面突破して、漁火先生に直接疑問をぶつけたほうがいい。机を漁るのは、授業の間の休み時間とかにもできるから」

「でもそれだと、俺たちのことを警戒して薬剤を隠したりしないか?」


 俺の疑問に、七海は笑みを浮かべる。


「あれだけ大胆な方法で私たちの入れ替えを実行した漁火先生だ。いまさら逃げも隠れもしないだろう」

「そうは思えないが……」


 反論しようとした俺の言葉は、扉を開ける七海の行動にさえぎられた。


「おい、話はまだ終わって」

「漁火先生いますか?」


 完全に俺を無視して、七海はどんどん中に入っていく。今の七海は俺の姿だから、他の先生からは俺が入ってきたと思われるだろう。フォローのために俺も一緒に入ったほうがいい。そもそも七海が突撃した時点でプランAは崩壊している。隠れているのをあきらめて、七海の後ろに続く。


「はい。ここにいますよ」


 書類が納められた戸棚の奥からひょいと漁火が顔を出す。俺が何か言うより前に、七海が口を開いた。


「昨日私たちのクラスで起こした入れ替わりの現象について、詳しい話が伺いたいんです」

「あなたは、七海さんでしたか」

「先生、覚えるの早いですね」

「記憶力には自信があるんです」


 確かに、昨日の放課後顔を合わせただけのクラス――それも、男女で中身が入れ替わっている――の顔と名前を一致させているのはなかなかすごい。だが俺は感心しているわけにはいかない。


「いくら実験目的の学校だとしても、漁火、先生がしたことは度を越えていると思います。納得のいく説明をしてもらえないと、俺は腹落ちしません」

「君は、並木なみきくんだね」


 俺のほうを向いた漁火は、小さく頷いた。


「二人の疑問はもっともです。わたしも、いささか強引な手を使いすぎたという反省はしています。朝は少し忙しいから、放課後に時間をとる形でもいいですか。なぜわたしが薬を使ったのか、その時話します」

「わかりました。嘘はつかないでくださいね」

「ええ。七海さんは嘘を見抜くのが得意そうですから。そんな真似はしません」


 冗談か否かわからないことを抜かす漁火に、俺は鋭い視線を向けた。


「じゃあ、ひとつだけ今教えてください。漁火、先生が俺たちに飲ませた薬は、身体が入れ替わる以外の害はもたらさないんですか。眠くなるとか、怒りっぽくなるとか、めまいがするとか」


 ぱっと思いついた薬の副作用をいくつか羅列すると、漁火は首を横に振る。


「皆さんに飲ませた薬は、風邪薬の類とは違います。よって、そういった副作用はないと断言できますから安心してください」

「わかりました」


 とりあえず、俺たちの身体に害がないこと――入れ替わっているだけで十分害だが――だけは一刻も早く確かめたかった。それが確認できたので俺は七海の袖を引く。振り返った彼女に頷きかけた。


「では私たちは、また放課後伺いますね。その時お話を聞かせてください」

「わかりました」


 頭を下げる七海に対して、漁火も頷きを返す。今度はきちんと化学準備室の入り口から、二人で出て行った。


「一晩考えて組んだ段取りを、その場の思い付きで変えるなよ」


 扉が完全に閉まったのを確認してから、俺は七海に文句をつけた。協力してくれるとは言ったが、今後も二人で相談した以外のことをされたら計画を立てる意味がなくなってしまう。しかし七海はまったく堪えた様子がない。


「結果的に放課後の約束を取り付けられたんだから、いいじゃないか。ちゃんとほかの先生がいる場で言質を取ったから、逃げられる心配はないし。漁火先生が不誠実だと糾弾する気なら、私たちは誠実に対応する姿勢を見せたほうがいい」

「それはそうかもしれないが、だったら昨晩の時点でそう言えばよかっただろう」


 なおも釈然としない俺に、七海は口角をにっと上げる。


「昨日の時点では、朝、漁火先生が準備室にいるか定かではなかったからな。それに、まずは私の考えを言うよりも並木の意見を聞きたかったんだ。そのうえで、どう行動するかは私が決める」

「はあ」


 妙に自信満々な七海にどう返せばいいのかわからず、生返事になってしまう。七海は、思っていたよりもマイペースな性格をしているようだ。


「だが、放課後の話は俺がメインで質問させてもらうぞ。聞きたいことも色々と整理してきてあるからな」

「もちろん、それは並木に任せるよ」


 つい先ほどの言動からして、委任の言葉を信じるのは難しい。疑いの目を向けると、七海は「お手上げ」のポーズをとった。


「さっきの行動は悪かったよ。これからは思ったことを行動に移す前に、相談するようにする。別に並木の計画を邪魔したいわけじゃないからね」

「どうだか」

「本当だよ」


 あくまでもひょうひょうとした様子を崩さない七海は、案外御しにくい。先が思いやられる。内心頭を抱えながら、俺たちは教室に戻った。

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