第6話 平穏の守り方

「おはよう」


 桜井の女子グループが再構築を宣言したのと同じ日。

 今日も例のごとく加藤一派はまだ誰も登校していない。

 俺はいつものように挨拶をして教室に入り、すたすたと自席へと向かった。


「おはよう」


 一つ二つ返るようになっていた声の陰に隠れるように、小さな「おはよ」が聞こえる。

 席に座るためくるりと振り返れば、二つ縛りの頭が下を向き、ぎゅっと膝のスカートを握りしめていた。

 斜め前に座る男子が顔を半分だけこちらに向ける。


「おは、よ」

「おう」


 増えた小さな声は、どちらも昨日の放課後に見た顔だ。 

 たった二人。

 それだけの変化が、やがて大きなさざ波を起こしていった。


 その日風邪を引いたらしい加藤が休みだったことも波を大きなものにした一因だろう。

 加藤がたった一人いないだけで、その日一日教室の空気は穏やかなものだった。

 杉本や原田が大人しくなり、竹中がいないこのクラスでは、誰も『イジリ』をしなかった。

 俺の弁当を捨てろと命じる奴もおらず、くすくすとあざ笑う声も聞こえない。

 そのことでどれだけ息がしやすいか、教室にいる人間は思い知ったのかもしれない。

 その空気が当たり前だったらいいのにと。

 当たり前のことを当たり前に欲した瞬間だったのかもしれない。


 翌日、登校した俺が「おはよう」と教室の中に声をかけると、あちこちから「おはよう」と声が返った。

 一昨日の放課後にいなかった奴からもだ。

 そしてその日の授業の合間の休み時間のことだった。


「白崎くん」


 声をかけられて顔を上げると、俺の机の隣に眼鏡をかけた男子生徒が立っていた。

 誰だっけ。


「なんだ?」

「君のお弁当を僕にくれないか?」

「ああ、いいぞ」


 意図がわからないながらもダミー用に俺がせっせと握ったおにぎりを渡す。


「これを捨ててもいいかな?」

「よくはないが、そういう命令なんだろ。別にかまわねえよ」

「うん。ありがとう」


 お礼を言われるのもおかしいのだが。

 わざわざ俺に直接確認に来たのなんて初めてのことだ。

 だがその後もいつもと違った。

 あちこちから五人が席を立ち、集まってきたのだ。

 何が起きているのかと黙って見守ると、理も俺を守ろうとするかのように傍に浮かぶ。


「私も一緒にやるわ」


 そう言ったのは、このクラスで一番最初に挨拶を返してくれるようになった白石だった。


「私も」

「俺も」


 そう言って眼鏡の男子生徒を中心とした六人は頷き合うと、揃って歩いていってゴミ箱へと俺のおにぎりを捨てた。

 眼鏡の男子生徒はものすごい形相で睨んでいる加藤をくるりと振り返ると、ぎゅっと拳を握りしめ言った。


「すごく嫌だけど、加藤くんが怖いから命令通りにしたよ」

「僕も一緒にやったよ。この六人みんなでやったんだ」

「おまえら……どういうことだ?」


 凄む加藤に一様に怯えながら、それでも白石が声を上げた。


「命令通りにしても気に入らないの? 誰かが傷つかないと気が済まないの? 次はこの六人をターゲットにして、どこまでも傷つけ続けるの?」

「……あ?」


 静かに低い声を上げる加藤にびくりと肩を揺らし、歯を食いしばるようにして六人がぎゅっと固まる。


「ゆあちゃんが斎藤くんの話に乗るなら、私も。私もやる」


 ゆあちゃん……は、白石のことか。その腕にぎゅっと抱きついて、また一人が加わった。

 そういえば斎藤は今日来ていないなと思っていたが、何やらあの放課後の話がここまで発展したものらしい。

 できるんじゃねえか。


「本当にやるのか信じがたかったけど……。みんながやるなら俺も」


 そう言ってまた四人が立ち上がる。

 合わせて十一人。

 乗り遅れまいとするように、さらに五人。

 そこに桜井一派だった女子グループも加わった。


「あんたたち……」


 桜井が睨むのをものともしない。


「ここにいるみんなをターゲットにする? 席に残ってる子たちを使って?」


 席に座ったまま身を固くしていた生徒たちの肩がびくりと揺れる。

 話を聞かされていなかったのか、聞いていたが動かなかったのか、うつむいたまま顔を上げずにいる。

 そこに、教室の扉がガラリと開いた。


「あれ。なんだもう始まってんのか」


 斎藤だ。その隣にはもう一人誰か連れている。


「林……!」


 ざわつく声が何人かその名を呼ぶ。俺がこのクラスに来てから一度も見ていない顔だ。

 斜め上に浮かぶ理を見上げると、ほっとしたように笑った。


「よかった、思ったより元気そうで」

「ああ……」


 理が庇い、いじめられるきっかけになったのが確か林だった。

 見れば、さらさらとした髪の毛を耳の上で切り揃えていて、それをナスとからかわれたのだろう。

 その林は教室を見回し、俺の姿を見つけると、まっすぐに歩いてきた。


「白崎くん。ごめんね。僕のせいで白崎くんがいじめられるようになって、どうしたらいいかわからなくて、怖くて。それで、白崎くんが――怪我したって、聞いて、僕のせいだって、もっと怖くなって、逃げたんだ」


 俯き、たどたどしく懸命に喋るその声は震えていた。

 どうやら理が怪我をした責任を感じて学校に来られなくなっていたものらしい。

 何故被害を受けた奴ばかりが罪の意識を持たねばならないのか。

 元凶ばかりが何故不遜な顔をしているのか。本当に不条理でならない。


「だけど、斎藤くんが、ごめんって謝りにきてくれて」

「斎藤が?」


 ドアのところに立ったままだった斎藤をちらりと見ると、その顔は俺に反発していた時と変わらず不満げだが、気まずげに目を逸らされた。


「僕がいじめられてる時、助けなくてごめんって。そんな自分が悪いことになるのが嫌で、正当化したくて、白崎くんが余計なことした、そのせいで僕が不登校になったって、白崎くんを悪者にしたって。ごめんって言ってた」

「おい、おまえが勝手にぶっちゃけるなよ。そういうのは自分で言うから」


 ということは、俺はおもいっきり図星を指してたわけか。

 本当に痛いところを突かれて逆ギレしたんだな。

 斎藤は「嘘じゃない。後で言うつもりだったんだからな」と俺を睨んだ。

 本当にかわいくない男だ。


「それで、白崎くんはもう元気だから、出て来いって、斎藤くんが僕を連れ出しに来てくれたんだ。みんなといっぱい話をしたことも聞いた。これからはみんなで戦うんだって。だから、僕も、今度こそ逃げないで、ちゃんと戦おうと思って、来たんだ。白崎くんは僕のこと覚えてないかもしれないけど……、いつか、許してもらえるように」


 こいつを許すのは俺じゃない。

 だから俺は黙って聞いていた。

 理は複雑な顔で斎藤と林を見ていた。

 林は俺を見て、それから何かを探すように空中に視線を彷徨わせた。


「白崎くん。ごめんね。それから、僕を助けてくれてありがとう。あの時白崎くんが庇ってくれなかったら、死んでたのは僕だった」


 林は斎藤から話を聞いたのだろう。そして俺と向かい合ってみて、やっぱり理はこの体の中にはいないと、俺の話が本当だと思ったのかもしれない。

 答えがないことをわかっていたように林は「それから――」と席に残る生徒たちを見回すと、続けた。


「いじめは心を殺すよ。体もどんどん、どんどん壊れていくんだ。みんなもターゲットになったら、死んじゃうかもしれない。いじめって、そういうものなんだよ」


 その言葉に耐えられなくなったように、残っていた生徒たちも全員立ち上がり、斎藤と共に加藤一派に向き合った。


「ちっ……。反吐が出るな。クソつまんねえ――」


 加藤が吐き捨てた言葉は、授業開始のチャイムに掻き消された。


 しかしそれぞれに席に戻った面々は、不安そうな顔や怯えた顔をしながらも、どこか覚悟を決めたように見えた。

 いじめを否定する自分たちをメジャーだと示して見せた。

 あの日の放課後に話し合いを続け、考えた方法がこれだったのだろう。

 加藤を否定するのではなく、いじめそのものを否定する。

 誰も加藤には歯向かっていないのだから、攻撃されるいわれはない。

 元々理不尽であった加藤のいじめだが、理由を作らせないことで、次なるターゲットをなくそうとしたのだろう。

 すっきりもざまあもない。だがこれが、このクラスのやつらが考えた平穏の守り方なのだ。

 いじめた相手を幸せにしようと考えた理にならって、攻撃することをよしとせず、カタルシスよりもクラスの『最善』を考えたのだろう。


 加藤はその日以降、誰かに俺をいじめろと命じることはなくなった。

 クラスの面々は加藤がどう出るか窺っている様子だったが、何が来ても一人じゃないという安心感からか、おどおどとした空気はなくなり、どこかせいせいとした顔になった。

 ますます加藤は苛々するようになり、舌打ちばかりしている。

 じっと何かを考えこんでいるようだが。

 たぶん、ロクなことは考えていない。


 その予感は、当たっていた。

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