赤はなまるの日


あたしは少女だった。


お菓子のおうちに空飛ぶ魔法、何でも夢見る脳天気な子だったの。


ついでにサンタクロースも人魚も雪男も信じてた。


それでも何十年も生きていれば、魔法なんてものが存在しないことは嫌でもわかってしまうもので。大人ってもしかしたら寂しい生き物なのかもしれないと、落ち込むことも多々あった。


でもね、少女から大人へ、大人から母親になった時、薄れていた夢が再び芽生えたんだ。


あたしって何の価値もなくて何もできないんだとばかり思っていたけど、命を産むことができた。それって凄いよ、可愛い息子に巡り会えたのってまるで魔法にかけられたみたいなんだもん。産む時は人生最大の痛みだったけどそれ以上に最大の幸せ感じたね。もちろん旦那に会えたのもそうだけどさ。


オーバーでも、それが生まれた意味に思えたの。


いい歳してお花畑みたいな頭してるねって馬鹿にされるけど、これがあたしなんだから仕方ないじゃんね。


家事も大変だし、子育ても大変だし、仕事も大変だし、寝る時だけは自由時間。本当、嵐みたいな毎日でも三人の生活は何だかんだ幸せなんだよ。毎日が記念日だからカレンダーに赤いペンではなまるをつけたい。


だからさ、頼むからぶち壊さないでほしいんだよ、病気さん。


まだ小学生のあの子に何て説明したらいいの? まだ何もしてやれてないのに、離れ離れになっちゃうの? まだ何も伝えてないよ。


ただ一つ良かったのは、あの子じゃなくてあたしが病気になったことだよ。その点、神様っているのかもね。


あたしは考えた、できるだけあの子を傷つけないための作戦を。


これは、最後の力を振り絞って生み出した魔法。


日に日にあの子と面会できる時間が減ってしまった。もう嘘で誤魔化すのも限界。いつ本当のことを言おうって、悩んでいたら間に合わなくなっちゃった。馬鹿なお母さんで、ごめんね。本当に魔法が使えたら、病気なんて消し飛んでまた元気に一緒に暮らせるのにな。


きっと今日もあの子はあそこで待っている。あたしがきちんと話をしなかったせいで、ずっとあそこに独りで座っているんだ。


意識が、遠くなっていく。まだ眠りたくない。


ああ、誰でもいいの。どうか、あの子に伝えてほしい。もうあたしを待たなくていいんだって。


✱✱✱✱✱



グリーフケアの活動は初めの一歩目以降、さっそく躓いた。


カフカは江花さんの時と同様に、インターネットでケアすべき対象を探してはコンタクトを試みるのだが、不信と怒りを買うか連絡を無視されるかのどちらかになってしまう。


カフカが来てから1週間以上が経過していて、その間奴は否が応でも生活を共にする私の姿をコピーしていなければならなかった。虫になれば何もできず一日が終わるし、動物になればパソコン操作は上手くできずトイレの始末も大変だ。結果、行動に不自由ない人間でいるのがベストなのだ。


お面を被ったカフカは床に脱力して転がっている。仕事から帰る度そうしているのを見ると、ニートしている私を客観視しているみたいで嫌気が差す。


「その様子だと今日もだめだったか」


「十件中十件にいたずら電話だと思われたよ。霊感商法と誤解されたり、そっくりさんがいるから何なのって怒られたり」


「一筋縄じゃいかないと言ったろ。しかも自分が未確認生物または魑魅魍魎であることを隠しながらの、慎重で入念な計画をしなくちゃならない活動だ。客だって当てずっぽうじゃなくてしっかり見極めないといけない。あくまでお前は誰かのそっくりさんを演じるんだ。未確認生物であることがばれたら大変なことになるんだから。まあ、これで盗みをはたらいたらやっていることはルパン三世みたいなもんだけど」


「俺、一生こうして青田さんのヒモとして生きていくのかな」


「一生は無理だね、私がいつか世帯を持ったら必然的にお前とは一緒にいられなくなる」


「いつかっていつよ? 相手もいないくせに」


「黙れ」


通勤用のリュックを投げつけると見事カフカの頭に命中した。反抗する元気もないのか、そのままだらだらと寝そべっている。そうしているならせめて家事をやってもらいたい。買い物は私がするから掃除、洗濯と不味くてもいいから料理をする姿勢を見せてほしかった。


まさにヒモを絵に書いたような奴である。


やかんで湯を沸かして、夕飯である二つのカップラーメンに注ぎ込む。私は今日仕事であったことを言おうか言わないか迷っていた。


「今更な疑問。お前って一人称俺だけど、性別あるの?」


「少なくとも化粧をしたいとかひらひらしたものを着たいとは思わないから、男なんだろうな」


「それは良かった、女だったら雑に扱えないもんな。しかし人じゃないとはいえ、雄と一つ屋根の下ってのは複雑だな」


「女性には紳士的なんだね。てか、男勝りな青田さんに下心があって近づく男が、果たして存在するのだろうか」


「じゃあ仕事を紹介するという紳士的かつ親切心は、やっぱり控えておこう」


ガバッと勢いよく上半身を起こし、お面がこっちを向いて食らいついた。


「どういう意味?」


「職場であった話なんだが、聞いた上でやるかやらないか決めてほしい。ちなみに私は強くおすすめしたくはない」


「そこまで言ってるんなら勿体ぶってないで早く教えてくれよ、紳士な青田さん」


さっきとは打って変わってしおらしくゴマをすり始めたが、お面の下では白目を剥いて舌を突き出しているかもしれない。


カップラーメンができるまでの三分間、私はその内容を説明してやった。



その少年が気がかりだったのは今に始まったわけではなかった。


今年の春頃だったか、私の勤務する外来の窓から見える、病院の正面玄関前のロータリーに設置されている椅子に、ぽつんと独りで座っているのが印象的だった。


まだ六、七歳くらいで黄色い帽子を被り、小柄な体に大きな負担がかかりそうな黒いランドセルを背負っていて、じっと動かずに遠くを見つめている。誰かを待っているんだろうなとは思った。


そうしている時間はまちまちで、私が把握しているだけでも最長二時間以上の時もあった。気づけば椅子に座っていて、気づけばいなくなっているというのを繰り返している少年。一体誰を待っているんだろうと気になり、安否確認の意味もあって窓からちらちらと見守ってみることにした。すると、病院の中からナース服を着た女性が出てくる。その女性を見ると少年は花が咲いたように笑って、駆け寄っていく。


なるほど、ここで勤務している母親を待っていたのか。


理由がわかってすっきりするはずが、おかしな点のせいでまたずるずると気になってしまう。


母親と数分会話をすると、必ず少年は独りで帰って行き、母親は院内に戻る。これじゃ迎えに来たと言うよりも面会に近い。一緒に帰る場面をたまたま目撃しなかっただけなのかもしれないが、もう一つおかしな点は、院内をどれだけ歩いていても、研修や会議があっても、その女の看護師の姿が見当たらないのだ。他部署の友人や先輩に女の看護師の特徴を話して聞いてみても、みんな首を横に振り知らないと口を揃えた。


「ホラーな展開じゃないか」


話の途中でカフカは恐怖のあまり体を縮まらせていた。肝っ玉の小さい奴だ。得体の知れない自分の存在を棚に上げてやがる。


「ところがどっこい、ホラー要素ではないんだ。そもそも私の聞き方がまずかった。実は女性は、看護師じゃなかったんだ」


ナース服にばかり目がいっていたせいで、その女性とすれ違っていたのも見落としていたのかもしれない。


何者なのかようやく判明したきっかけは、院内カフェで仲の良い後輩とばったり会った時だった。



長い髪はおろしていたし、見慣れない私服を着ていたものだからすぐには気づかなかった。


「あれ、こんな所にいるなんて珍しいね」


少し照れくさそうに微笑む彼女は紺野陽菜乃という。一つ年下で昔は同じ部署にいたが、今は外科病棟に勤務している。


「今日は休み?」


「いえ、一応これでも仕事中なんです。上司公認の」


現場におらずカフェでのんびりしているのが、上司公認の仕事中というのはどうも理解しがたい。数多いる御局様がこの所業を許すはずがないのだ。


首を傾げていると、後輩は向こうからやって来る女性に手を振った。


ロータリーで少年と待ち合わせをしていた、例の女性だった。さらに不可解なのは、彼女が今度は病衣を着ていることだった。


「今日も服を貸していただいてありがとうございました」


そう言って女性は綺麗に折りたたまれたナース服を後輩へ渡す。


ナース服から患者の着る病衣へ。事情を呑み込めないで狼狽している僕を見兼ねて、後輩は女性について話してくれた。


「先輩、えっと、こちらは外科病棟に入院している患者さんで」


紹介された女性は、こちらに向き直って頭を下げた。


「こんにちは、朱村美久です。紺野さんの先輩さんですか、いつもお世話になっています」


これほど近くでまじまじと顔を見たのは初めてだった。おろした長い髪は毛先が金髪、カールされたまつ毛がくるんと上を向いていて、やけに大きくてブラウンかかった瞳は、たぶんカラーコンタクトを付けているのだろう。いわゆる、ギャル風な人だった。唯一患者らしい点は、青白い肌に少し痩けた頬をしていることだった。


「患者が看護師のふりをして子どもに会いに行っていたってことか?」


「そうだ。後輩は自分の仕事着を患者に貸していたんだ。体格も近かったし受け持ちの患者でもあったらしいしね。盲点だった、まさか患者の方だとは思わなかった」


「でも、何でわざわざそんな面倒なことを? 子どもが見舞いに来てるんだろ?」


「私もそこは不思議がったよ。だが後輩から事情を聞いて、本人の立場になってみたらすぐ納得できたよ」


朱村さんは夫と子どもの三人で暮らしており、体調不良をきっかけに検査を受けたところ大腸に癌が見つかった。病気であること、入院していることをどうしても子どもに知られたくなかった彼女は、スタッフに協力を依頼してここで働いているふりをしていたのだ。


「だとしても働きっぱなしのふりは、いくら子どもでもおかしいと気づくよ。無理がある嘘はいつか必ずバレる時が来るぜ」


「いや、子どもは母親が働いているから帰ってこないと信じているそうなんだ。それは朱村さんが1度も約束を破ったり、嘘をついたりしたことがない人だから。それに、もうバレることはないよ」


「・・・・・・どういうこと?」


「一週間前に朱村さんは亡くなった」


すでに三分を超えていて、私はやや伸びたカップラーメンを食べ始める。カフカはしばらく放心した後、お面の下からのろのろと麺を啜った。


「困ったのは、子どもが死を理解できていないために、未だロータリーにやって来ては健気に母親を待っていること。酷い時は早朝から薄暗くなるまでずっとそこにいるんだよ。今が真冬じゃなくて良かった。事情がわかっているスタッフはかわりばんこで声をかけるんだが、まるで言うことを聞かない。最後には父親が慌てて迎えに来るってわけ」


「・・・・・・確かに困った案件だ」


「その子にとって前に進める方法は、もう一度母親に会ってきちんとお別れすることなんじゃないかと、僕は思うんだよね。非現実的だけど、その非現実的なことができるやつが近くにいたらどうだろう?」


「つまり?」


「お前が朱村さんとして会うという極めて難解な提案」


カフカはブッと麺を吐き出してむせ込んだ。大事なお面を汚された私はティッシュボックスを思い切り投げつける。


「お、女のふりかぁ・・・・・・。さすがにそれは、どうだろう」


「女性のふりは不可避だろう。少しでも自信がないならやめておくんだな。今回は依頼主もいないし、すすめたくないと言ったのは、お前の女性演技を想像するだけで気分が悪くなりそうだからだ」


「今から練習相手になってくれるか?」


「死んでも断る」


「だろうな。青田さんは反面教師だし」


「んだとこら、はっ倒すぞ」


「だがその子のことを思うと、母親を待つ生活に終止符を打ってやりたいな。いつまでも先に進めないじゃんか」


死を完全に理解するにはまだ幼い年ではある。病院の中に母親がいるのだと思い込んでいて、いくら待っても会えないんじゃあいつか諦めがつく日はくるかもしれないが、いつかはわからない。もう病院には来るなとも言えないし、だからってスタッフも子守りをするほど暇じゃない。


「ちゃんとお別れができていたら、こんなことにはならなかったんだろうな」


カフカはお面の汚れを拭き取りながらぽつりと呟いた。


紺野の話では、主治医から自宅への外泊許可が出た直後に急変し亡くなったらしい。その外泊中に子どもへ本当のことを話すと朱村さんは言っていたそうだ。きちんと向き合う前に終わってしまうなど考えもしなかっただろうな。


「誰だって自分の終わりを想像することはあるんじゃないか。ただ、終わりはまだまだ先のことだと安心しちゃうんだよたぶん。だからもたもたして大事なことを後回しにするんだ」


やけに核心のついた台詞を言う。まるで自身のことのようじゃないか。


カップ麺を啜るより、ほぼ丸呑みした奴はでかいゲップを一発披露して決意表明する。


「やってやろうじゃないか、青田さんがせっかく持ってきた話だもんな」


彼の両目は燃え輝いていた。この男らしさは頼もしいが、上手く女性役を立ち振る舞えるのか逆に心配になる。


やる気十分なのは構わないが、亡くなった母親役をやるには入念な準備が必要だった。


姿がまるっきり同じというだけではすぐにばれてしまう。口調や仕草も完全にコピーしなきゃいけない分、人を演技するのは犬の時よりも難易度が高い。


そもそも私は朱村さんのことをよく知らない。これは我々二人だけの力では解決できないケースなのだ。


だからこそ協力者が必要だった。それも、カフカの秘密を話しても信頼できる相手が。




「先輩からお食事に誘われるなんて、初めてのことでドキドキしちゃいますね」


助手席に座る紺野は恥ずかしそうにそう言った。


私も思い切ったことをしたもんだ。


勤務日の休憩時間中に彼女のいる病棟へ赴き、こっそり呼び出して強引に食事の約束を取りつけたのだ。


お互いの休みの日を合わせてランチに出かける。後輩と言えども私自身、人を助手席に乗せて運転するのは滅多にないことなので、緊張のあまり汗ばんだ手でハンドルを握っていた。


「突然で申し訳ないね。安全運転するから。実は話したいことがあって」


「とんでもないです。食事、久しぶりじゃないですか。同じ部署で働いていた時はみんなで飲み会してましたもんね。先輩と二人で行くのは、今までなかったけれど。女の子の皆、先輩のこと男の人より男らしいって影で盛り上がっていましたよ」


「へ、へぇー、そうなんだ」


「医者にセクハラされそうになった子や元患者からストーカーされている子を守ってくれて、先輩は憧れの存在なんですよ」


紺野はやたらお喋りしてもじもじと体を動かす。こう照れられてしまうとこっちも落ち着かない。


私は咳払いをして本題に入った。


「最近、元気がないようだから。ゆっくり話す時間があった方がいいなと思ったんだ。その、朱村さんが亡くなってから」


「・・・・・・まぁ、確かに落ち込んではいます。でも生死に関わる仕事ですから割り切らないと」


紺野は新人だった頃、人の死を目の当たりにする度にわんわん泣いて上司から注意を受けていた。感情移入するタイプで優し過ぎるゆえに、傷つきやすかった。だから人一倍頑張っていたのを知っている。私はプリセプターではなかったが、なるべく傍で見守ってアドバイスをしてあげていた。それがこんなに立派になって。


おっと、感極まっている場合ではない。


「まだあの子、朱村さんを待っているんだろう?」


「小徹君ですね、昨日も来てました。お母さんに会うために病院内で探し回るようになってしまって、心配なので病棟のナースステーションで過ごしてもらったんです。だんだん外も暑くなってきましたしね。学校じゃなくて病院に通ってるから、お迎えに来たお父さんに叱られちゃって可哀想でしたよ。それに、何だかふっくらしたみたいで」


「確かに、最初に見た頃より太ったような」


「泣いたり怒ったりしない静かな子だけど、裏では寂しくて過食に走っているのかもしれません」


母親探しがエスカレートしている。愛する者が突然いなくなって探しても見つからないストレス。心の限界が近づいているはずだ。


「朱村さんと小徹君をもう一度会わせられたらいいのに」


「それ、できるって言ったらどうする?」


異常なことを言っているのはわかっている。以前の私なら自分の頭が狂ったと大騒ぎするに違いない。でも摩訶不思議な存在と出会ってしまった。すっかりこの現実を受け入れているが、他人に話すのは思った以上に勇気がいる。


紺野は運転する私の横顔に視線を浴びせてきた。それは畏怖か嫌悪かわからないが明らかな動揺は伝わってくる。


「どういう意味です?」


至って普遍的な反応だった。


「会わせるっていっても朱村さん本人じゃないんだ、朱村さんにそっくりな人で」


「先輩、疲れてます?」


ああ、視線が痛い。疲労からくる狂言と誤解されている。だがこれも想定範囲内、これから本物に会えば嫌でも信じるさ。



私のお気に入りの小さなカフェは賑やかな表通りから離れた裏路地にひっそりと建っている。少し耳の遠いおじいさんが営業しているのだが、コーヒーはもちろん料理がこれまた美味い。隠れた名所には客足が少なく、秘密の話をするにはもってこいの場所である。


店内の片隅の席に、一人だけ客が座っていた。サングラスとマスクを付けて顔を隠している人物。その正体はカフカだ。


「いらっしゃい、二名様?」


ぼんやり顔で白ひげを生やしたおじいさんが声をかけてくる。


「いえ、あそこにいる人と待ち合わせです」


「どうぞごゆっくり」


ランチは始めから二人きりでするつもりではなかった。カフカと紺野を引き合せるために予め計画を立てていたのだ。


「この人が、さっき車の中で言っていた?」


「そう。何にでも変身できる未確認生物」


「普通の人じゃないですか」


「こないだメールした時に聞いた、紺野が会いたい人の話覚えてる?」


「はい、覚えてます。え、まさか今日のために聞いたんですか? 顔写真送ってって言ったのも?」


紺野から事前に聞いていた会いたい人、それは兄だった。彼女の両親はまだ幼い頃に他界し、年の離れた兄に面倒を見てもらっていたそうだ。その兄は紺野に隠れて多額の借金を負っていたらしく、紺野が社会人になった途端、謝罪と告白の手紙を残したまま蒸発したという。そのため紺野の身内は誰もいなくなってしまった。


彼女が今一番会いたいのは、自分を育ててくれて、独りで全部を背負って消えた最愛の兄だった。


「騙すような形になってごめん、どうしても私の話を信じてもらいたかったんだ」


「突拍子に変な話をするから、何かあるのかなとは思いましたけど・・・・・・冗談、ですよね?」


紺野は苦笑いをして半信半疑のままカフカの姿をじっと見つめる。


「カフカ、マスクとサングラスを取ってくれ」


言われた通り付属品を外して顔が顕になる。


紺野と顔立ちがよく似た、おっとりとした色白で優しそうな男性。カフカは今日になった瞬間に紺野から送られてきた兄の顔写真を見て、見事変身した。


隣で棒立ちする紺野を恐る恐る見た。彼女の両目は涙で溢れ、瞬きをすると頬に一筋の線を描いて流れた。


「お兄ちゃん・・・・・・?」


紺野は持っていた手提げ鞄を離して床へ落とし、カフカを抱きしめて泣いた。


「お兄ちゃん! ずっと会いたかった! 何で黙ってどこかに行っちゃうのよ! 馬鹿ぁっ!」


予め偽物であることを説明していたが、やはり感情が高ぶって本物の兄と思い込んでしまった。拳で胸元を叩かれるカフカは目を丸くして困り果てていたが、私は「そのままにしておいてあげてくれ」と手でジェスチャーをした。


ようやく落ち着きを取り戻した紺野は着席してティッシュで鼻をかんだ。うさぎのように真っ赤な目を見ると、私が泣かしたみたいで申し訳なさを感じる。


「これが車の中で話したことだよ。信じられないならまた明日以降、リクエストを受けた人に変身させることもできる」


「・・・・・・いえ、信じます。この人はどこからどう見ても兄ですが、やっぱり話し方や仕草は全然違います。冷静になれば別人だっていうのはすぐわかりましたから」


私もカフカも紺野の兄のことは一切知らない。だから外見は百パーセントにできても中身は真似することができるわけなかった。それなのにカフカはちょっと悔しそうにしている。


「時間をもらえたら完璧にあんたの兄さんになれるぞ」


「結構です、あともういいです。兄が私の元に帰ってくるはずはないんですから。・・・・・・もしかしたら、生きていない可能性もありますし」


ずきんと心臓が痛む。


「へっ、抱きついてきたくせに」


「二度と会えない大事な人が目の前にいたら抱きしめるに決まってますよ。例え中身が全然違う人でもね!」


二人は互いに睨み合った。見た目は惑うことなき兄妹なのだが、どうも馬が合わない。他から見れば僕は兄妹喧嘩に挟まれた男になっているのだろう。レジにいるおじいさんはにこにこしながらこっちを眺めている。


「・・・・・・それで、先輩はこの人に朱村さんのふりをさせて小徹に会わせるつもりですか」


「うん、そ」


「断固反対します」


重く鋭い言葉はまるで鉄槌をくらったようだった。協力の依頼をするはずが、きっぱりと否定されてしまう。これは予定にない反応だった。


「な、何で? どうして?」


「先輩がこれからやろうとしていることは、飴玉を欲しがっている子に無理矢理ガムを与えるようなものです。それも美味しくない不味いガム。それで満足するはずがないんです」


なぜ飴玉とガムなのかは別として、真剣に弁じる紺野の気持ちはよくわかる。正論すぎてぐうの音も出ない。


「はぁー、俺は不味いガムってことね」


「はっきり言えばそうですね、代替だし偽物ですから」


「じゃあ他にいい方法があるのか?」


「え?」


「だから、母親を待ち続けて挙句に学校も行かず探し回る子どもをどうにかする方法があるのかって。あんたらがどうにもできないから青田さんがこうして何とかしようと色々考えたんじゃないか。あんたを信用して俺のこと喋ったのに頭ごなしに否定しちゃってさ」


「わ、私だってどうしたらいいのかたくさん考えました! でも大事な人を失った傷は、時間だけが解決してくれるんです。小徹君はまだ幼くて死とか別れとかちゃんとわからないから、時間が過ぎてわかるようになるまで周りの大人が見守っていけばきっと・・・・・・!」


「母親の嘘に協力したからこうなったっていう責任があるのに、時間の流れに任せようなんて都合がいいな」


「そんな・・・・・・私は、ただ・・・・・・」


私は自分が小徹君の立場になって想像してみた。


大好きなお母さんがいつもの待ち合わせ場所にはこなくて、やっと家に帰ってきたと思ったら体が冷たくて眠ったままで。大人からは「死んだ」「もういない」など告げられて。


もしかしたらそれはお母さんにそっくりな人形だと思うかもしれない。骨壷に手を合わせる意味すらわからないかも。


病気だったとか立派に戦ったとか、そんなお母さん本人から聞いた話じゃないことは全部聞き流してしまいたくなるはずだ。約束の場所に行けば、お母さんに会えると信じているんだから。


なかなか待っても来ない時は建物の中を探し回りたくなるだろう。ただお母さんに会いたいだけなのに、迎えに来たお父さんには叱られて、居場所を尋ねたら「どこにもいないよ」「天国に行ったんだよ」「死んじゃったんだよ」って言われるばかり。


大事な人がいなくなるのは気が狂いそうな出来事なのに、誰も一緒に探してくれなくて意味がわからないことばかり言われ続ける。


それって、本当に時間が解決してくれるのだろうか。


私だって、まだ解決していない。前を向こうと努力しても、ヒロがいなくなってから胸にぽっかりと穴は開いたままで、肉芽形成するどころか化膿して膿が出ているみたいだ。


これでもまだマシな方。カフカがいなくて独りだったら、精神が崩壊して廃人になっていたかもしれないのだ。


「時間が確実に心を癒やすとは言えない。年老いて死ぬまでそのまま傷があるかもしれないだろ」


私が思ったことを先にカフカが口に出した。


「ちなみに子どもはそこまで単純じゃないぞ。手に入らないものを簡単には諦めない。欲しいものはいつまでたっても強請ってくる。さっきの話を覆すようで悪いけど、例えば欲しいぬいぐるみがあったとしてだ。どの店も売り切れなのに子どもは手に入れるまで探し回るんだよ。仕方がないから親はそのぬいぐるみそっくりなものを作るわけ。それをあげたら子どもはどうなると思う? すごく喜ぶんだよ。代替が必ずしも悪いものとは限らない」


いかにも自身の体験談のように話すカフカに驚きを隠せなかった。


「お前、子どもがいるのか?」


「確かに。あれ、何で俺こんな話したんだろ?」


「とどのつまり何が言いたいんですか?」


三つのクエスチョンマークが浮遊して霧散した頃、カフカは咳払いをして率直に言った。


「俺達はぬいぐるみの作り方を知らない。だから知っているあんたが教えてくれ」


朱村さんがどんな言葉遣いや性格をしているのか、癖はあるのか、小徹君とはいつも何の話をしているのか。カフカは会ったこともない1人の男の子を救うために懸命になっていた。


彼は子どもが好きなのだとこの時気づく。まるで親が子どもを擁護しようとしている目をしていた。


もしかしたら、彼は昔子どもと暮らしていたのかもしれない。


「・・・・・・浮かれて食事の誘いに乗ったのが馬鹿でした。カフカさんの正体は誰にも言いませんし、今日のことは忘れますので安心してください。失礼します」


それだけを言って紺野は席を立ち店から出て行った。


「美味しいガムの作り方でもいいんだ!」


「もういいよカフカ」


仲間を得るのは失敗したものの、悩みに悩んで打ち明けた秘密を他言しないだけありがたい。


ああ、でも恐らく嫌われてしまっただろうな。先輩とすら呼ばれなくなるかも。


「お兄さん達、彼女に振られちゃったね」


おじいさんはあーあと残念そうな顔をして勘違いも甚だしいことを言った。おじいさんおばあさんにはよく男に間違えられるので慣れている。


「あんまり客の会話を盗み聞きするのは良くないですよ」


といっても客は他にいないし静かだから嫌でも耳に届いてしまうか。


こうして私達の交渉は虚しく散ったわけだが、諦めるつもりはなかった。



いかに女性らしく、いかに母親らしくするか。数日間カフカはあらゆる女性に変身しては言葉遣い、仕草を猛特訓した。


「うおぉ・・・・・・妊婦さんってこんなに腹が重いのかよ」


「麗しい女性の姿で汚い声を出すんじゃない。胎児がいると思って腹を愛でるんだ」


婦人科病棟から妊婦体験ジャケットを借りて、身をもって母性が何なのかを学んでもらうこともした。それから近所の公園で子どもたちと混ざって遊び、子どもに対する適応力を向上させた。


とまぁ、だんだんカフカが女性のふりを上手くこなせるようになったのは良かったのだが、本物の女である私より女っ気があるのは些か悔しかった。



あとはもう目的の人物に変身して演じることができればこの努力は報われるのだが、生前の顔写真と必要な情報がどうしても入手できない。普段子どもをなんて呼んでいたのかさえ知らない。例え変身できたとして呼び名を間違えただけでも一発で不審がられるし、話のつじつまを合わせるための情報があっても顔が別人では母親と認識してもらえるのは難しい。


朱村美久がどんな人間なのか。SNSで名を検索しても本人らしきアカウントはみつからない。僕は頭を抱えた。病院中の知人をあたって彼女の情報を集める他手段が残されていなかった。


外来の窓からあの子が見えた。またロータリーで母親を待っている。落ち着きなくうろうろして、やがて正面玄関から院内に入っていく。きっと母親を探しに行ったのだ。やがてあの子を知るスタッフが保護して、父親が迎えに来るまで面倒を見ることになるのだろう。


昼休憩になった時、私は昼食をとらずに小徹君を探しに出た。その間、まずあの子に何て声をかけようかと頭を悩ませる。


でも、どんな言葉をあげたとしてもきっと満足しないんだろうな。


見ず知らずの私から、ありふれた慰めの台詞など欲しくないに決まっている。


こんな時、ヒロだったらどうするんだろう。万人に好かれる奴だ。あいつだったら上手く人の心に入って秒で傷を修復できたりして。そしたら医者いらずの万能薬だ。


奴と比べたことで自分の無力さに押しつぶされそうになりながら、重い足取りでたどり着いたのは紺野のいる病棟だった。


ナースステーションを覗くと、パイプ椅子に腰掛けて数名の看護師に囲まれている小徹君がいた。やはりここに保護されていたか。


ひとまず安心する。が、少し様子が変だ。小徹君が両手で頭を乱暴に掻きむしり、嗚咽している。困った看護師達が交互に声かけをして宥めたり背中をさすったりしても一向に良くならない。


「ママをどこにかくしたの? 早く会わせてよ!」


あの物静かな男の子の印象からかけ離れた、興奮状態に陥っていたのだ。


やがてナースステーションにある書類や物品をあちこちに放り投げて暴れ始めた。数人がかりで体を押さえつけている。小徹君のつんざく悲鳴が響き渡った。情けなくもこの惨劇を目の当たりにして私は狼狽してしまった。喉元が締め付けられて、胃酸が込み上げてくる。あの子の苦しみがこちらに伝染して立っていることすらままならなくなる。


「青田先輩」


ふいに背後から私を呼んだのは紺野だった。こうして面と向かって会ったのはあの日以来なので、気まずさがのしかかる。


「大丈夫ですか? ひどい汗」


「あっ、えっと、大丈夫。それより、こないだは悪かったね。嫌な思いをさせてしまって」


紺野は伏せ目がちで首を横に振った。


「私の方こそすいませんでした。つい意地を張ってしまいましたが、よく考えればあの人が言うことは正論です。いくら仕事とはいえ、一人の子どもを騙す協力をしました。その責任を放棄しようとしていたんですから最低ですよ」


「気にしないで。普段はふざけてばかりなのに、真面目な時は真面目なことを言うやつなんだ」


「不思議な人ですよね、人って呼んで良いものか悩みますが。・・・・・・朱村さんを演じるの、諦めていないんでしょう?」


「ああ、女性のふりをする特訓は続けているよ。最も、朱村さんの情報がないから足踏み状態ではあるけど」


「・・・・・・あの子があんな風に取り乱しているのは、初めてです」


紺野は胸元を強く握りしめた。彼女が今着ているのは、これまで朱村さんに貸していたナース服なのだ。


「傷がどんどん深くなっているのをただ見守ろうなんて、看護師として恥ずかしいです。例え失敗するかもしれないとしても、救える確率が一パーセントでもあればそれに尽力すべきなのに、リスクばかりを考えて逃げてしまった」


「自分を責めるなよ。患者と家族を想ってたくさん悩んで、そんなに悔しい顔ができるのは、すごく立派なことだよ」


震えた声に、潤んだ瞳。唇を噛んで泣くのを必死で堪えているようだった。



「誰かを失った悲しみは身に染みて知っているのに、私は時間が経てばきっと・・・・・・なんて浅はかな考えをしていました。兄の姿をしたあの人に会った時、涙が溢れてきて、止まらなかった。兄がいなくなった日から傷はちっとも癒えていなかったって、ようやく自覚したんです」


そうして紺野は真っ直ぐに私を見た後、深く頭を下げて熱願する。


「罪滅ぼしをさせてください。私が知る限り、朱村さんのことをお伝えします。だから、あの子を、どうかお願いします」


✱✱✱✱✱



みんなみんな嘘つきだ。ママをボクからかくしている。


ボクが悪い子だから? そんなことない、ずっといい子にしてた。いけないことはしちゃいけないって言われたから約束はずっと守ってきた。


悪い子なのはパパの方だ。ただママに会いたいだけなのに、ボクがママ、ママって言うと悲しい顔をしておこるんだ。


ママはお空に行ったんだよ、さがしてもいないんだよ。ちゃんと学校にかよわなきゃだめじゃないか、かんごしさんにメイワクをかけるな。


色々考えたんだ。ママとパパがケンカしたから、パパがそんなこと言うのかな。おしごとがいそがしいのかな。ボクをきらいになってしまったのかなって。でもやっぱりどれもちがうみたい。パパはママの写真を見て泣いていたし、かんごしさんはみんなおしごとがおわったら帰って行くし、ママはボクを大好きと言ってくれていた。


ママは優しくてかわいい。だからみんなひとりじめしたくてかくしちゃったんじゃないかって思うんだ。うん、そうだそれしかない。


びょういんの中であばれてみんなをこまらせてやった。ママを出してくれたらすぐやめるつもりだったんだ。でもけっきょく、むかえに来たパパにおこられて家に帰った。


あれからも毎日ボクは約束の場所でまってる。それでもやっぱりママは来なかった。


でもね、ここにいたらあのドアから来てくれそうな気がするんだ。にっこり笑ってボクの名前を呼んでだきしめてくれる。またそうしてもらいたいのになぁ。おじいちゃんになってもまつけど、ママがボクに気づかなかったらどうしよう。


早く来ないかなぁ。イスにすわってばかりでおしりがいたくなっちゃったよ。


ちょっぴり泣きそうになった時、ボクを呼ぶ声がきこえてきた。


「こーちゃん」


びょういんの中からママが出てきた。かっこいいおしごとの服をきて、両手を広げてむかってくる。


「ママ! ママだ!」


たまらなくなってボクは走った。そして、思いっきりママにとびついた。


ぎゅっとだきしめられた時、ボクの目からボロボロなみだが出てきた。


「ママ! ママ! ボク、ずっとまっていたんだよ! 会いたかったよぉ! ママが作ったごはん、食べたかったよぉ!」


話したいことはたくさんあったのに、ママを見た時から全部わすれて泣いちゃった。やっとやっと、また会えた。ほしいおもちゃがもらえた時より、きょうそうでかった時よりもずっとうれしかったんだ。


ひさしぶりだったからかな、ママは少しだっこが下手になっていた。つかれているのかな、笑っているかおがいつもとちょっとちがうよ。


ママはボクをそっとイスにすわらせて、しゃがんで同じめせんになった。


「寂しい思いをさせてごめんね、待っていてくれてありがとう」


あたまを優しくなでてくれる手はまちがいなくママの手だった。うれしくてボクはもう1回ママを抱きしめた。


「どうしてずっと会えなかったの? まっていたんだよ。おうちに帰ってきたのは、ママそっくりの人形だったんだね。そうだと思ってたんだ。つめたくて、こわかったもん」


「・・・・・・今日はね、こーちゃんに言わなくちゃいけないことがあるの」


ママは天国に行ったとか、死んじゃったとかいやになるくらい聞いた。ママの口からもそんなこわいことを言われるのはすごくいやだ。耳をふさぎたくなったけど、人のお話はちゃんと聞かなくちゃいけないんだっておそわった。


「ママは、これから遠い場所にいる、困っている人達を助けに行くの」


ママはかんごしさんで、びょうきやケガをしたヒトをたすけるおしごとをしていることは知っていた。


「とおいって、どれくらい?」


「車や電車じゃ行けないくらい。でもママは大丈夫、今から言うことは誰にも内緒だからね」


そうしてママはほかの人に聞こえないように、ボクの耳もとでささやいた。


「実は、ママは魔法使いなんだ」



あまりにもびっくりして、あぶないことにイスからころげ落ちそうになった。


「えっ、ほんとう? ママはまほうが使えるの?」


「そうだよ、ママが嘘をついたことがある?」


ボクはすぐに首を横にふる。


「痛いの痛いの飛んで行けーって、こーちゃんにやったことがあると思うんだけど、覚えてるかな?」


「おぼえてるよ! ころんでひざがいたかった時、やってくれたね。そしたらいたいのなおった。あれ、まほうだったんだね! ママすごい!」


そんけーのまなざしをママに送る。みんなにジマンしたくなるけど、2人のひみつって言われたからガマンしよう。


まほうつかいのママは、わるいビョウキにくるしめられて困っている人たちをたすけにいくんだって。とってもかっこいいし、あこがれる。でも、しばらくボクとは会えなくなるんだって。それは、いやだな。


「また、会えなくなっちゃうの?」


泣きそうになっていると、ママはあたまをよしよししてくれた。


「別の世界にいたとしても、心だけこーちゃんの傍にいつもいられる魔法を使う。ずっと一緒にいるんだよ。ほら、手を出して」


ママは青くて小さなお守り袋をボクにくれた。


「ママが作ったお守りだよ。その中にママの心が入ってるの。こーちゃんのことずっと見守っているんだよ。それなら寂しくないでしょう?」


「うん、ここにママがいるならだいじょうぶそうだよ。でも、ボクはママが行くせかいには行けないの?」


「いつかこーちゃんもママがいる世界に来られるようにる時が必ずくるよ。それまでは嫌いな野菜を食べられるようになって、苦手な勉強もできるようになって、強くて優しい人になってほしいんだけど、できるかな?」


「うん、わかった! やくそくする、だからママ見ていてね!」


「よし! とってもいい子!」


ママはボクをだっこして高い高いしてくれた。パパにはなんどもしてもらったけど、いつの間にかママも力もちになっていたんだね。


じかんがやってきて、ママはびょういんの中にもどらなくちゃいけなくなった。しばらくすがたを見られなくなっても、心はボクがもっているからそんなにさみしくないよ。


「ねぇ、ママ。はなまるをかいて」


「はなまる?」


「いい子って言われた日は、いつもカレンダーに赤いペンではなまるをかいてくれたよ。今はカレンダーがないから、ボクの手にかいて」


ランドセルの中にあるふでばこから赤いペンを出してママにわたす。


いつもより形がおかしいはなまるが、ボクの手のひらにかかれた。でも今までで1ばん大きいの。きえないうちにパパに見せてじまんしよう。


「・・・・・・さて、そろそろ行かなくちゃね」


「もう、行っちゃうんだね」


ママはちょっとかなしいかおをして、それからにっこりと笑った。


「こーちゃん。ママはこーちゃんとパパと過ごせた毎日が幸せで、はなまるの日だったよ。ママの子に生まれてきてくれてありがとう。大好きよ」


「ボクもっ、ボクもママが大好きだよ!」


ママにだきついて力いっぱいぎゅーっとした。ずっとこうしていたいんだけど、ママはまほうをつかってたくさんの人をたすけにいくんだ。おうえんしないとだめだよね。


ママはまたびょういんの中に入っていく。さいごまで、ボクに手をふって、笑っていた。だからボクも泣かないようにがんばって笑って見おくったんだ。


・・・・・・ママがいなくなってからも、しばらくぼんやり立っていた。おいかけたらまだ会えるかもしれなかったけど、なんとなく、ママはもうびょういんからはなれて別のせかいに行っちゃった気がした。


「小徹!」


ちゅうしゃじょうからパパがあわてて走ってきた。気づいたらもう夕方で、空がオレンジ色になっていた。


「またここにいたのか。何度も言ってるだろ、ママはもう・・・・・・」


「ママは別のせかいにいったんだよ」


そう言うと、パパは目を丸くしてびっくりしていた。


「まほうをつかって、たくさんの人をたすけにいったんだ。こころはボクのそばにいてくれるから、さみしくないよ」


「魔法? 一体なんの話?」


「あっ、ないしょのはなしだった。何でもないよパパ」


「そうか、よくわからないけど、元気な顔を見るのは久しぶりで嬉しいよ。お腹空いたろ? 家に帰ろうな」


かえろうとしたとき、ボクはびょういんにむかって大きく手をふった。もうここにくるのはおしまい。パパやかんごしさんたちにメイワクをかけるのもしない。


「手にはなまるが描いてある。そのお守りは・・・・・・」


「ママがかいてくれた。このおまもりの中には、ママのこころが入ってるんだよ」


パパの目がもっとまん丸になる。


「ママに、会ったの?」


「うん、あったよ」


「いつもの、明るくて元気なママだった?」


「うん、大好きなママだった。ボクとパパとすごせたまいにちがしあわせで、はなまるだっていってたよ。このはなし、しんじてくれる?」


「ああ、信じるよ。だって、他にお前が元気になる理由が他にないもの」


つないでいるパパの手がふるえてる。かおを見ると、口はへの字になっていて、ビー玉みたいななみだをながしていた。


「・・・・・・そうか・・・・・・ママがいたんだ。お前に、会いに来たんだね」


パパはしゃがみこんでせなかをまるめて、ぐすんぐすんと泣いた。


泣いているおともだちをなぐさめたことがあったから、おなじくパパのせなかをそっとさすってあげた。そしたらパパはぼくをだきしめてやっぱり泣いた。ほっぺとほっぺがくっついて、なみだでかおがぬれちゃったけど、あったかかった。



あしたからちゃんとがっこうにいって、きらいなやさいも食べて、べんきょうをしなくちゃ。つよくてやさしいおとなになるって、やくそくしたんだ。


ママのこころがずっとボクをみまもってくれているから、きっとできるはずだよ。


いつかママに会ったら、すごく大きなはなまるをかいてもらうんだ。


✱✱✱✱✱




「美味しい! こんな美味しいサンドイッチ、生まれて初めてです!」


「ん、どうもありがとう」


目の前で口周りをケチャップだらけにして美味しそうにサンドイッチを頬張る後輩と、その様子を和やかにレジで見守る店主。


朱村さん親子の件が解決して、今度は紺野からランチの誘いが来た。今私達は例の裏路地喫茶店で同じサンドイッチを食べている。


作戦を実行した日から小徹君はぱったりと病院へ来なくなった。来なくなったら来なくなったでどうしているのか心配したが、紺野は街中でランドセルを背負った小徹が同級生の子達と仲良く歩いているのを見かけたらしい。学校にまた通えるようになったのだ。


「朱村さんからもらったお守り、渡してよかったの?」


カフカが朱村さんを演じて小徹君に渡したお守りは、朱村さんが紺野へプレゼントした手作りの物だった。


「仕事頑張ってねってプレゼントされたものでしたけど、あれ、どう見ても男の子用なんですよ。本当は小徹君に渡したかったんじゃないのかなって、思ったんです。ただ、どう言って渡したらいいのかわからなかっただけで・・・・・・。だからあの子が持っているのが1番いいんです」


紺野は満足した様子でココアを飲んだ。


「それより先輩、カフカさんは今日来なかったんですね。せっかくお礼にごちそうしようと思ったのに」


「ああ、あいつは小徹君を抱き上げた拍子に腰を痛めて寝込んでいるよ。結構、重量のある子だから」


「そうだったんですね。なんか、申し訳ないけど、ふふっ」


紺野は口元に手を当てて控えめに笑う。すっかりわだかまりが消えた明るい顔をしている。


「ごめんなさい、笑っちゃって。いや、人間らしい一面もあるんだなって安心して」


人間らしい一面ね。


私は彼女に合わせて笑いながら、作戦実行後のカフカの言動を思い出していた。


「俺にも家族がいたのかな」


腰を湿布まみれにしてうつぶせ寝をするカフカは、僕に聞こえても聞こえなくてもどっちでも構わないような、蚊の鳴く声と似た呟きをもらした。


「シロの時も、紺野の兄貴の時も、朱村さんの時も、抱きしめられたら何かを思い出しそうになるんだ」


それは、いつかわかる日がくるんじゃないか。


大活躍を果たした直後の彼に、そんな無責任な言葉を投げるのは酷だと思い、私は黙り込んだ。


わかる日がくれば、カフカはこの場所からいなくなる。そもそもいる必要がない。自分が何者かわかるまでの、期限付きの活動だから。


最初は猫やら犬やらに姿を変えていたからペット感覚の愛着はわずかにあったのだが、今では知人以上友人未満の感情がある。目的が果たされた後に、もう二度と会えなくなるかもしれないとなると、どこか寂しい気もした。



「それで、あの人の腰の具合が良くなったらお願いがありまして」


紺野のおずおずとした声が、ぼーっとしていた私の意識を鮮明にさせた。


「とても言い難いんですけど、また兄の姿になってくれませんか?」


「それは、まぁ、承諾してくれるだろうけど。本当にいいの? あの時気分を悪くしていたようだったから」


「おかしな話、あれじゃあなんだか兄と喧嘩しっぱなしって感じでもやもやしていたんです。だから仲直りをしたくて。あとは、兄とちゃんとお別れできなかったから、真似事でもいいから伝えたいこと伝えてしっかりさよならをしたくて」


小徹君の霧が晴れたような明るい顔を見て、羨ましくなったというのが本音だと紺野は言った。


彼女は本当に強くなったなと実感する。いなくなった人間と再び会って、しかもしっかり別れを告げるなんて、そんな勇気僕にはないから。


「わかった、カフカに話しておくよ。そうと決まればさっさと腰を治してもらわないとな」



日を改めて、腰が復活したカフカは再び紺野の兄に化けた。ただ、姿だけ完璧で中身はカフカの性格のままだ。依頼主の紺野がその場に立っているだけで構わないと言ったから、特に演技の練習はしなかった。


仮の別れの儀式は、紺野が兄と二人で暮らしていたアパートの玄関先で行われた。兄が仕事に出かける時、毎朝見送りをしていたそうだ。


「なんだか、いざとなったら恥ずかしいですね」


それはカフカも同じらしく、紺野から借りた兄の服を着てそわそわしていた。


「じゃあ、私は外で待っているからゆっくりやってね」


玄関に二人を残して私は廊下へ出て、外の景色を眺めながら終わるのを待った。


聞き耳を立てていたわけではないが、紺野が兄の姿をしたカフカへ向けた言葉が微かに聞こえてくる。


両親が亡くなってから二人で支え合って生きようと誓ったこと。


化粧や生理用品など、女性特有の事柄が相談しにくくて困っていたこと。


作ってくれる料理は全部美味しかったけど、一番好きだったのは大きく握った梅干しおにぎりだったこと。


・・・・・・未だにいなくなったことが信じられないこと。


徐々に声が小さくなっていき、聞き取れなくなっていった。数分後別れの儀式が終わって、カフカが出てくる。


「ありがとう、カフカさん」


マンションの下で解散する際、紺野は晴れ晴れとした顔でカフカに礼を言った。


「わざわざ名前なんて呼ばなくても・・・・・・俺じゃなくて兄さんとして礼を言ったらいいだろ」


「いいえ、あなたにお礼が言いたかったんです」


両目は涙で潤んでいた。陽の光に反射してきらきらと輝く様は宝石のように綺麗だった。


「あなたは、遺された人からいなくなった人へメッセージを届けてくれるような存在ですね。きっと、あなたを必要とする人はたくさんいるはずです」


「大拒絶から大肯定してくれるなんて、まったくわからない世の中だな」


私は悪態つくカフカの脇腹を肘で強く殴った。反抗期の子どものような意地っ張りさだ。だがこの存在が数人の心を癒した事実は変わりない。


紺野は前に言った通り、カフカの正体は他言しないと約束してくれた。私達の活動も陰ながら応援してくれるとも。


「いつか本当の自分がわかる日がくるといいですね」


その言葉にカフカは照れくさそうに笑ったが、私は複雑な気持ちを秘めたまま作り笑いをして相槌を打った。


ちょうど兄がいなくなった日と同じ日を別れの儀式に選んだのは意図的になのか、はたまた偶然か。紺野はこれから両親の法要を営みに出発しなくてはいけないようだ。


マンションから遠ざかっていく私達を紺野はいつまでも見送っていた。いや、きっと見ていたのは兄の姿をした、カフカの背中だろう。


最後に振り返った時、小さく手を振る彼女の口元が「行ってらっしゃい」と動いていたような気がした。

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