近似色は遠く



オレは、嫉妬深い人間だった。皆が生まれた時から持っているものがオレにはない。


隣の芝生は青いとはよく言ったもので、目に入るものを何でも妬んでは人が持っているものを手に入れたがってしまう。手に入れて羨ましい対象と同じ立場になったところでまた他のものを欲しがる。底なしの貪欲。自分でもきもいと思う。だって仕方がないじゃないか、本当に欲しいものはどうやったって手に入ることはないんだから代替で欲求を満たすしか手立てがないんだ。


気づけば自分よりも劣っている相手を見つけては安心している。そんな自分を好きになれるわけもなくて、もちろん人からも好かれるはずがなかった。


独りでも幸せになれる方法を、腹がいっぱいになってゲップが出るほどの満足感を、どうしたら手に入るのかを考えてみた。でもどうやったって満たされなかった。


人はオレのような弄れた人間ができあがる原因を愛情不足のせいだと言うが、両親にはそれなりに可愛がられて育ったわけで。だからこれは元々の性格なんだろう。三歳頃までに人格と性格が形成されて、死ぬまで変わらないという意味をもつことわざがあったな。じゃあもうこの最悪な思考は死なないと変わらないわけだ。


それなら生きているうちはとことん嫌な奴になって不幸になって、死んでから幸せになろうかなんて阿呆みたいなことを考えた。幼稚な発想なのは仕方ない、オレはまだ高校生1年生。秘密の悩みを抱えていて、その悩みがばれないように周りを威嚇している。


でもたった一人だけ、心の拠り所が現れた。


独りでいたオレに声をかけてきて、頼んでもいないのに何かと世話を焼いて。怒鳴りつけても突き放しても傍にやって来る。そうしているうちにいつの間にか随分仲良くなった。オレの悪いところをちゃんと指摘して叱ってくれる。良いところはしっかり褒めてくれる。そんな優しい子。


あの子がこの世界にいることがオレの生きる理由になっている。これは恋というやつなんだろう。


しかし、こんな気持ちは誰にも言えない、言えるはずがない。きっと大勢がオレを批判してあざ笑うに決まっているから。認めてもらえるはずがないから。だから誰にも打ち明けられないんだ。


・・・・・・誰かの幸せを考えるのは、これが最初で最後になると思う。


あの子が他の誰かを好きになっても、オレから離れてしまっても構わない。むしろそうしてくれた方が諦めがついて楽になれるかもしれない。


あの子が幸せでいられるためならどんなに辛いことでも耐えられる自信がある。命を投げ打つことも惜しくないんだ。


✱✱✱✱✱



ある日の買い物帰り、ずっと背後から人の気配がする。


たまたま行く方角が同じだけなのかもしれないが、こう、びしびしと鋭い視線が背中に感じるのは明らかに私への関心があるからなのだろう。


ストーカー、通り魔、スリなどの犯罪を想像した。いやいやこんなオトコ女に限って・・・・・・。自分で思って傷ついた。


街中なのでいざとなったら周りの人間に助けを求めることはできる。ちょうど帰宅ラッシュで人だかりが多い。こんな中何かしらの犯行に及べば注目を浴びるだろう。もしや、人気のない通路に行くのを待っているのか。


まだ何もされていないからどうしようもなかった。いや、されてからでは遅い。振り返って確かめようにも目が合った瞬間に刺されたらと思うと怖くてできない。


できれば私の思い過ごし、自意識過剰であれば良かった。


その人物は私に足幅を合わせて一定の距離を置いて付いてきているようだった。しかし、次の瞬間足音が急激に早まりすぐ後ろまで接近するのを感じた。


我慢ならなくなってついに振り返った。と同時に、声をかけられる。


「あのっ、うちのカフェにいた人ですよね?」


そこには私の背丈の半分ちょっとくらいしかない、小柄な女の子がいた。


焦げ茶色のベリーショートにキリッとした目。一見少年にも見えるが女の子だとすぐわかったのは、紺色の制服スカートを履いていたからだ。この制服を着た高校生は街中でよく見かけていた。


「カフェ? えっと、どこの?」


カフェ巡り好きの私には思い当たる節がありすぎる。思い当たらないのは、女子高生に声をかけられる理由だ。


「GiGiカフェ。おじいちゃんのネーミングセンスゼロの不人気裏路地カフェです」


「ああ!」


ぱっと頭をよぎったのは、レジでぼんやり立っているおじいさん店主の顔。カフカと紺野で行ったあの店だ。なるほど、この子はあそこのお孫さんだったのか。


「いつも利用しています。私はあそこ好きですよ」


「それはどうも。店の話はいいんですけど、ちょっと話したいことがあるんです。大っぴらに言えることではないんですが」


女子高生は俯いて暗い顔をした。まるでいけないことをして怒られている小さな子どもみたいだった。


嫌な予感がする。


そういえば、どうして面識のないこの子は私が客だとわかったのだろう。おじいさん店主しかいなかったはずの店内で、いつ、どこから僕を見ていたのか。見ていたのは僕達ではないのか、何かを聞かれていたのではないか。


心臓がばくばくする。女子高生は顔を上げて自らの罪を謝罪した。


「ごめんなさい、あの日お客さん達が話していること、全部聞こえていました」



女の子の名前は橙山みちる。高校1年生で例の裏路地カフェ店主の孫娘。


学校が休みだった彼女は店内で祖父の作ったマフィンを頬張っていた。すると一人の男性客がやって来て、彼女は卑しい様を見せまいと咄嗟にカウンター裏に隠れた。その男性客が紺野の兄に化けたカフカだった。


カフカが席に着いてから、抜き足差し足でどうにか厨房に行き裏口から家に帰ろうと試みたが、今度は女の客が二人来た。普段誰も来ないのに今日に限って3人も来たことに驚いたという。


先に来た男性客を見た途端、女性客の一人が泣き喚いて更に驚く。どうやら死に別れた兄が目の前に現れたとの内容が耳に入ってくる。一体どういうわけだろう。


好奇心真っ盛りの女子高生は、マフィンを咀嚼しながら隠れてその場で聞き耳を立てるのであった。


「おじいちゃんは耳が遠いから何も知りません。本当に、すいませんでした」


近くにあったコンビニ内のイートインスペースで橙山みちるはソフトクリーム片手に改めて謝罪した。この子のことは全く知らないけど、ソフトクリームを食べ終わってから今度はプリンを食べ始めたので相当の甘党であることはわかった。


「このことを誰かには?」


「言ってません! こんなすごい話、他の人に言ったって信じませんよ」


「それで君は、何で私に声をかけたの?」


プリンを食べる手がぴたりと止まる。


「色んな人に変装できるあの人に、ワタシの友達を助けてほしくて」


「助けてほしい?」


変装というより変身なのだが。面倒なのであえて言わないでおく。


「同じ高校に通う子なんですが、その子の恋をどうしても成就させたくて」


話によると、同級生の女の子が一つ上の男の子に恋をしたのだが、勇気が出ず一向にアプローチできていないそうだ。友人としてこのもどかしい恋を後押しするために色々策を練ってはみたが、どうにも上手くいかないらしい。


「いつもは十個食べられるおじいちゃんのマフィンが、最近は五個しか食べられなくなってしまうくらい悩ましい種だったんです。その種をかち割ってくれた斧があなた方なんですよ。これは絶対上手くいくって作戦がピーンと思いつきました。ですからぜひご協力を願いたいんです」


キラキラと輝く青春真っ盛りな女の子の瞳は私達にとって眩しすぎた。直視し続けたら眼球が焼け落ちそうだ。


「君が思いついた作戦はなんとなく想像できるよ。その勇気が出ない友人の代わりになって好きな男の子へアプローチしてほしいってことだろう?」


「すごい!まさにそれです! 話が早くて助かります。シナリオはワタシが考えるのであとは台詞を暗記してくださればそれで・・・・・・」


「果たして友人は他力本願で実った恋を満喫できるだろうか」


橙山みちるはムッと顔を顰めた。


「そこはせめて協力と言ってほしいな。ワタシだったら夢を叶えるのに手段なんて選んでいられませんよ。というか青田さんて恋したことあります?」


愛し愛されたこともない女には文句を言われる筋合いはないとでも言いたげな態度をとられる。


大人気ない私はムキになって過去の恋愛事を暴露した。


「・・・・・・人を好きになったことはないけど、幼なじみの男の子の恋を応援したことはある。今の君みたいに」


「へえ! ぜひ参考に聞かせてくださいよ」


身を乗り出す橙山みちるの目が更に輝きを増して、もはやレーザービームと化した。私は刺激を避けるためにそっぽを向いて喋った。


「幼なじみが好きになったのは高校の同級生の子でね、可愛い人だった。高嶺の花で大体の男は自信がないから諦めていたみたいだったけど、幼なじみは粘っていた。ボディビルダーになりたければ過酷な筋トレをする、ノーベル賞を受賞したければ死ぬほど勉強する、好きな子に好かれたかったら好かれる努力をする。自分のためのことは自分が一番頑張らなくちゃだめだって。すごく当たり前なことをずらずら言われただけなのに、心の底に響いて納得してしまったんだ」


「はぁ、熱血でかっこいい幼なじみですね。あの子に爪の垢を煎じて飲ませてやりたいです」


「何度も振られてはいたけどね。俺がゴキブリホイホイであの子がゴキブリだったらすぐ近寄ってくれるのにって、嘆いてたこともあったよ」


「好きな人をゴキブリに例えるのはやばいですよ。結局その人の恋は叶ったんですか?」


「結婚して子どももいるよ。だから」


今、とても幸せな生活を送っている。そう続きを話そうとしたけど、当の本人がもういないことに気づいて黙り込んでしまった。虚構も事実も言えないままやけ酒を飲むみたいに一気にコーヒーを口腔内に注いだ。


「はぁ、素敵だなぁ。ワタシもそんな恋をしたいけど、今は友達の応援しなきゃね」


橙山みちるは切なそうに溜息をもらして名残惜しみながら最後のプリン一口を食べた。


「申し訳ないけど、私達の活動の意義は悲しみのケアなんだ。いなくなってしまった人と遺された人の仮の再会の時間を作っている。君も隠れ見たことだからすでにご存知だろうけどね」


「ははぁ、つまり高校生のくだらない恋愛事情などには付き合えないってことですか」


「冷たいと思われるかも知れないけど、せっかく生きているんだから偽物の力なんか借りず本物同士腹を割って話した方がいい。いなくなってからじゃできないことなんだから」


橙山みちるはそれ以上協力を求めることはしなかった。私の気持ちが伝わってくれたのだろう。


買い物袋を持って立ち上がり、別れの言葉を残そうとした時、彼女は衝撃的なことを口走った。


「悲しみのケアなら、余命わずかな高校生のワタシの頼みをきくってのは有効になるんじゃないですか?」


✱✱✱✱✱



「俺、好きな子ができた」


高校三年の春、授業中に携帯をいじっていると隣のクラスにいるヒロからメッセージが届いた。あいつが恋をするなど明日異常気象が起きるぞ。


「え、誰だれ?」


「恥ずかしくて名前が打てないよぅ」


「きも」


「だって斜め前にいるんだぜ!? 後ろ姿を眺めるだけで心臓が爆発しそうだ」


「休校祈願する。ぜひ爆発して学校を壊してくれ。じゃあせーので好きな子の名前送信しろ」


「OK」


「せーの」


その時突然影ができた。恐る恐る顔をあげると、そこには眉間に深く皺を刻んだ先生が立っていた。机の下で携帯をいじっているのがばれて、速攻とりあげられてしまう。結局好きな子の名前を送信できず、ヒロからのメッセージも見られなかった。


休み時間に隣のクラスへ赴いてヒロを呼び出した。廊下の隅で周りに聞こえないくらいの低い声でさっきの続きを話す。



「ごめんごめん、携帯とりあげられてメッセージ送信できなかった」


「そんなことだろうと思った」


「それで、ヒロの好きな子って誰?」


「・・・・・・藍染ゆき」


頬を赤く染めたヒロの口からその名が出た途端、真っ先に『敗北』の文字が浮かんだ。いくら私が美人になろうとも、勉強や運動をできるようになっても、彼女に適うものがない。人生で初めて無駄な努力があることを知ったのが、彼女という崇高な存在だったのだ。


「いつから好きなんだ?」


「今年度クラスが一緒になっただろ? 席も近くて結構話すようになって、それからかな」


私は入学式当日、美しい彼女に目を奪われた。頭の先から足の先まで容姿が整っていて、目が合って微笑みかけられたものなら反動でしばらく動けなくなるし、鳥のさえずるような綺麗な声を聞けば力が抜けて立っていられなくなる。同じ女でもこうも違いがあるのだなと気づかされた。一年の時クラスが一緒だったけど、席は遠いし挨拶程度で会話はしたことがない。指一本触れただけでバチが当たりそうだった。


「それで、ソラは好きなやついないのか?」


照れ笑いを浮かべながら尋ねてくるヒロは、幼少期の無邪気さが微かに残っていた。けどはるか遠くに感じた。


「・・・・・・ゼブラ先生」


咄嗟に嘘をついた。六十代の古株国語科教師である。今の毛が残念でシマウマ模様だからこのあだ名が付いた。


「ぎゃはははは! おいおい! 年齢はともかく、既婚者で孫もいるゼブラ先生はまずいだろ!」


「あのキレた時にできる目尻の皺がたまらないんだ」


ヒロは涙を流して腹を抱えながら笑った。


「でもまぁ、お前が誰を好きになろうが俺は応援するよ。ゼブラ先生と結ばれるのを想像するのはちょっと苦しいけど」


するな、するな。想像するな。


「ゼブラ先生はともかく、私と恋愛したい人なんていないだろうよ。一生独身で寿命を迎えそうだ」


これは嘘じゃなく自暴自棄になってもらした本音。


「その若さで諦めるなよ。いいか、ボディビルダーになりたければ・・・・・・」


例の名言はこの流れで生まれた。奴は藍染ゆきに何度もアタックしては砕け散り、何が悪いのかを自己解析し良い男になるための改善を重ねる。結果、誰の力も借りることなく夢が達成された。月日が経ち結婚した二人の家にお邪魔してから、初めて彼女とまともな会話ができるようになる。高校生の頃よりも綺麗で心から幸せそうな顔をしていて、ヒロの奴やるなぁと感心したんだ。


一人の女をここまで幸せにできる奴が幼なじみで親友で良かったって、思ったのに。


幸せの幕が下りた時、感情の全てが死んだようなあの失意したゆきちゃんの顔は見たくなかった。全然美しくなんてなかった。枯れてしまった花みたいだった。致し方ないにしても、愛する人にこの上ない悲しみと絶望を与えたのは、ヒロが遺した最大の罪だと思う。


こんな未来がわかっていても、私は奴の恋を応援していたのだろうか。



「青田さん、どうした」


無言で帰宅し、玄関で脱力して転がっているとカフカがやって来て私を見下ろした。黒く光る嘴の先端が近い。朝目が覚めた時、最初に私を見ずうっかりベランダの柵にとまっていたカラスを見てしまったことから、今日一日カラスの姿で過ごしていたのだ。


「・・・・・・ちょっと嫌な記憶を呼び起こして、自分の無力さにうんざりしてた」


「記憶があるだけ羨ましいよ。俺は顧みて無力を自覚することができないんだから」


「カラスになっちゃうおマヌケさんなのは自覚しろよ。一日カァカァ鳴いて終わりじゃんか」


カフカは嘴で僕の額を高速でつついた。捕まえて羽を毟ってやろうとしたが羽ばたいてエアコンの上まで逃げていった。夕飯はミミズでも食わせてやろう。


「荒れてんなぁ、よっぽど嫌な目にあったのか?」


「また仕事を紹介することになりそうだ」


エアコンの上のカラスは手のひらを返して・・・・・・いや、翼を返して嬉しそうにステップを踏んでダンスする。


「また青田さんの世話になっちまったなぁ。んで、今度はどんな内容だ? 仲直りとか? 感謝を伝えたいとか?」


「高校生の恋の成就を手伝う。それも、生きている者同士の」


歓喜のステップが止む。目がキラリと光ったが、橙山みちるのような青春に満ち溢れた輝きとは全く別物で、まるで獲物を睨みつける捕食者そのものだった。


「話にならない。悲しみのケアと全然関係ないぞそれ。大体色恋沙汰なんざ人の手を借りるもんじゃないよ」


予想通りの反応。案の定すっかりへそを曲げてしまった。


「青田さんの興味がなさそうな話題だけあって、持ち込んでくるのは意外だな」


「私もお前と同意見だったさ。しかし断りにくい事情があってだな」


裏路地カフェで、店主の孫娘に私達のやりとりを聞かれてしまったこと。その孫娘は実は難病を抱えていて余命幾ばくなく、最後の願いとして友人の恋が叶うのを見届けたいことをカフカに全部話した。尚も彼は唸り声をあげて安易に承諾はしなかった。


「何の病気なんだ?」


「詳しくは聞けなかったけど、心臓の病気って言ってた。先天性のものだっていうけどそれ以上はわからない。初対面でしかも若い子にぐいぐい訊ける軽い内容じゃないからね」


「最後の最後まで友人の幸せを第一に望むねぇ・・・・・・。よほど大事な人なんだな」


「高校で初めてできた友達なんだってよ。出会ってたったの数ヶ月。橙山みちるは何よりも友情を優先にしている。もうすぐ死んでしまうとして、私だったら自分のことを真っ先に考えてしまうだろうな」


私だけじゃない、きっと大多数が自分を優先する。残りの時間を自分のために使いたいはずだ。


身の回りの整理をして、会っておきたい人に会っておいて、やりたいことも可能な限りって、ああ仕事を辞めなくちゃいけないから引き継ぎもやらないと。


やることがいっぱいで他の人の幸せを考える余裕は持てないのが目に見える。それなのに橙山みちるは一点の曇りもない晴れ晴れとした表情で言った。


「友人の幸せ。それ以外、この世に未練は残りません。ワタシの命にかえてでも叶えさせてあげたいんです」


さすがの私も最後には断りきれず依頼を自宅まで持ってくる始末である。カフカがうんと言ってくれなければどうにもできない事案なのだが。


「自分のためのことは自分が1番頑張らなくちゃだめだってのはわかっているんだ」


この言葉でカフカは小さな頭をクイと曲げて僕を見下ろした。


「あの子は残りの時間を友人のために使う覚悟がある。友人の幸せイコール自分の幸せだから頑張っているんだ。私達が協力したからって上手くいくとは限らないけど、できる頼みを断ってしまったら、命の終わりを感じている中で余計な悲しみを与えることになる。それって残酷なことだよ」


仕事上、人に尽くす場面は日常茶飯事なのだが、こうしたプライベートでも人のことを懸命に考えるのは今までになかったように思う。犬と老夫婦の話、兄と妹の話、母と子の話。カフカに出会わなければそれらの物語とは永遠に無縁だった。全部僕の思い出の一部で、成長の糧になっている。橙山みちるの物語も、きっとその一部になるのだろう。


「自分のためのことは自分が1番頑張らなくちゃだめって、青田さんが作った名言なの?」


「いや、昔友人が言っていたことだけど」


「・・・・・・ふうん、いい友人がいるんだな。わかったよ、とりあえずやる方向で考えてやるよ」


やけに含みのある言い方をするものの、名言が役に立ってついにカフカは承諾した。


恋愛成就作戦は至ってシンプルなものだ。カフカは女の子に化けて男の子へアピールし、次に男の子に化けて女の子にアピールする。最後には本物の2人がお互い好きあってめでたく恋人同士になるという。


作戦の説明を終えると、カフカは壁を執拗につつき始めた。本人には言えないが、色んな動物になることで私としては知識が増えていく。この行動をスマートフォンで調べるとカラスの威嚇行動と結果が出た。つまり苛立っているのだ。


「そこまでお膳立てして実らせた恋が短期間で終わったら絶対に許さない」


カフカはゴミ置き場を荒らすカラスみたいにカァカァと喧しく鳴いている下で、私は先程連絡先を交換した橙山みちるに電話をかけた。



数日後、緊張した面持ちで橙山みちるは私のアパートへやって来た。女子高生を家に招くのは抵抗があったが、今回はカフカを生きている人間に変身させるため、本物と鉢合わせしてまずいことにならないよう外での密会を避ける必要があった。裏路地カフェを使用しても良かったのだが、耳が遠いとはいえ祖父の前で友人の恋愛事を話すのは気が引けると言われてしまったのでどうにも仕方がない。


カフカはアイマスクで目隠しをしている。今日が始まってからまだ何者も目撃していないから、昨日から僕の姿に変身したっきりだった。


「あなたがカフカさん?」


橙山みちるは姿勢を低くしながら恐る恐る尋ねた。


長座椅子であぐらをかいているカフカはこちらに向かってひらひらと手を振った。


「今日初めて見た者に姿が変わるわけなんだけど、実際に目の前で起きたら嫌でも信じるだろうね。それじゃ、君の友人の写真を見せてやって」


「わ、わかりました。お願いします」


橙山みちるは自身のスマートフォンの画面を開いて、一枚の写真をカフカに提示する。カフカはゆっくりとアイマスクを取ってそれを見た。


カフカが何かに変わる場面に立ち会うのは初めてではないが、毎回驚倒させられる。


煙が出て別人になるマジックショーみたいな演出やアニメみたいに曲が流れて部分的にじわじわと変身するのではない。瞬きする間に姿が別なものになっているので、境というのがまず目視できない。そう、まるで最初からこの姿でここに居たような自然さがある。


「緑夏・・・・・・!」


橙山みちるはカフカを見てその名を呼んだ。


福富緑夏。恋を実らせたいという彼女の友人の姿がそこにあった。この反応からするに、変身は成功したようだ。


橙山みちるは呆然とした顔でカフカの頬を何回か摘む。そしてまじまじと見つめながら顔のあちこちにべたべた触れ始めた。


「いつまで触ってんだ」


真っ直ぐ伸びた黒い長髪に色白の肌。丸く大きな瞳に赤い唇。まるで日本人形みたいだった。その可愛らしい姿から似つかわしくない乱暴な言葉遣いが放たれる。


「あっ、ごめんなさい! あんまり緑夏にそっくりだったからつい」


橙山みちるは顔を真っ赤にさせてカフカから遠ざかり謝罪する。続いて私もカフカを眺めた。


「しかし、これだけ可愛い子ならモテるはずだよ。僕達が手を貸さずとも君の願いは叶うんじゃないかな?」


「俺そんなに可愛くなってる?」


手鏡を持って得意げにポーズを決めるカフカを無視し、私達は話を続ける。


「確かに緑夏は可愛いし性格もいいので人気がありますけど、本命の男子を前にすると恥ずかしがって黙ってしまうんです。見た目だけじゃ解決できないんですよ」


「見た目・・・・・・ねぇ」


華奢な少女と化したカフカは指先で鼻をほじったり片方だけ膝を立てて座ったりとあまりに下品な行動が目立っている。なるほど、外見だけ整ったところで中身が最低では全部台無しになるということが手本になっている。しかし、写真の福富緑夏がワンピースを着ていたのはまずかった。


「ちょっとカフカさん! 今は緑夏なんだから行動に気をつけてください! パンツが見えちゃうじゃないですか!」


私が口にできなかったことを橙山みちるが即座に代弁してくれて助かった。目の置き場に困って天井のシミを凝視していたところだ。


友人の羞恥を晒されて憤慨した橙山みちるはカフカの下腹部にクッションを押し当て、落胆の溜息をもらした。


「これじゃあ一発で振られてしまいますね。中身もちゃんと変身してくれないと」


ここから先は数時間をかけて橙山みちるによる熱血指導が入った。



声を発する時の唇の形、眉や眼球の動かし方に瞬きの速度、笑った時に歯を何本まで見せるか等、細かいというレベルではない。本人に似せるどころか本人そのものにさせようとしている様は、まさに脅威であった。


「緑夏はそんな下品な欠伸をしません! ほらほら正座が崩れて姿勢が悪い! くしゃみをする時は両手で鼻と口を優しく押さえて!」


二人の女子高生がわちゃわちゃしている光景を部屋の隅で大人しく見守る。若いっていいな。それにしても橙山みちるは元気いっぱいだ。とても病気を抱えているようには見えない。残りの時間が少ないからこそ、体が動くうちに必死でやらなきゃいけないって思いもあるだろう。事情を知らない人が見たらこれは青春の一ページで、きっと平和で和やかな場面。邪魔をしないようにしなくては。


私はその場から離れて溜まっていた洗濯物を洗い、さぼっていたトイレ掃除を始めた。休日にしかできない家事をせっせと行っていると、カフカがいつの間にか背後に立って微笑んでいた。


「何してるのかなぁ青田さん?」


「いや、レッスンの邪魔をしないように家事を。終わったの?」


「五分休憩だ。あのスパルタ、終わるどころかまだ序盤だと言ってやがる」


「女性役を演じるのは序の口だろ。つべこべ言わず真面目にやれよ」


引き続き掃除をしようとすると、カフカはすうっと息を吸い込んで鬱憤を吐いた。


「俺がっ! 苦しい目にあってるってのに呑気に家事か! あんだけ完璧を目指すんだったらクローンでも造った方が効率いいぜ!」


キーキー喚いて一生懸命怒りを顕にしているようだが、申し訳ないことに全く威圧感がない。私より遥かに背丈が小さく声は鈴を震わした感じ。言っちゃ悪いが子犬に吠えられているみたいだ。


あれだけビシバシやられているのも可哀想かなと思ったのだが、そういえば昨夜、私が大事にとっておいた人気洋菓子店のモンブランケーキをこいつに食べられたんだった。それだけじゃない、お気に入りだった服を勝手に着られて破れたし、卵を電子レンジで温めて爆発させて故障したし。他にも数々のとんでもないことをやられた。


「橙山さーん、カフカが休みなくレッスンしたいってさ。明日は日曜日だから真夜中までやりたいそうだよー」


哀れみは一切消し去って、私はここぞとばかりに日頃のささやかな復讐を選んだ。


聞きつけた橙山みちるがやって来て、目を輝かせながら満面の笑みでカフカの両肩をしっかりと掴んだ。


「なんだカフカさぁん、そうならそうと言ってくれればいいのに」


小柄なカフカはそのままずるずると連行されてしまう。甲高い声で何か喚いていたが、私は気にせず掃除を再開した。



翌日も彼女は朝早くにやってきて、目隠しをして待っていたカフカに今度はお相手の男子(隠し撮りしたらしい)の写真を見せた。


カフカはあっという間に男子高校生、鈴木君に変身する。端正な顔立ちですらっと身長が高い好青年となり本人も満更でもなさそうだ。


「さっ、今日もよろしくお願いしますねカフカさん」


部活の朝練同様にやる気十分。また昨日のようなスパルタ指導が入るだろうが、私は仕事に行かなくてはならないため立ち会うことはできない。


顔色が悪いカフカといきいきした橙山みちるに見送られ、仕事に向かう。しごかれた末に発狂しないかが心配だ。





十八時半。比較的早く仕事を切り上げることができたので、寄り道せずに真っ直ぐ帰った。自分の部屋で修羅場が起きていないか不安でたまらなかった。玄関に橙山みちるの靴はなく部屋は暗くて静かだった。誰もいないのだろうか。


「うおっ!」


電気をつけると部屋の角でカフカが腕を組んで仁王立ちしていた。


「びっくりした・・・・・・不審者かと思った。何かあったのか? まさか喧嘩したんじゃないだろうな」


険しい顔で考え事をしているようだったが、整った顔はやはり男の僕から見てもかっこいい。中身がカフカなのが腹立つ。


「今日はそんなに酷かったのか?」


「いや、十分くらいで終わった」


「十分? 短いな、福富緑夏の時とずいぶん差があるじゃないか」


「男の方は別にアピールしなくたっていいもんな、すでに惚れられてるわけだし。ただ可愛いねとか、好きだよとか言ってりゃいいんだってよ」


「なるほどな。じゃあ何で悩ましい顔をして立っていたんだ?」


「・・・・・・二人に変身してみて、みちるちゃんの態度が全然違うことに気づいた。あれは明らかに恋してる目なんだよ」


あえて私が口にしなかったことを、やはりカフカ自身も感じ取っていたようだ。


「お前も気づいたか。そりゃああそこまで反応が違ければわかるよな」


「そうなんだよそうなんだよ! 福富緑夏の時はニコニコしているのに、こいつの時はツンツンしてるんだ」


「好き嫌いがはっきり出やすいタイプらしいな。あれだけ素直なら相手に気持ちが気づかれるのも時間の問題だろう」


「まぁ、大切な友達と好きな相手が被っちまったんだ。自分は身を引いて応援しようなんて健気だよなぁ」


・・・・・・ん?


「何だお前、橙山みちるが鈴木君に恋してるって思ってるのか?」


「えっ、だって好きな人の前ではわざとツンツンした態度をするものだってネットに書いてあったぞ」


こいつは何もわかっていない。


カフカの致命的な鈍感さに呆れて私は大きな溜息をついた。


「周りの情報や間違った常識に左右されるな。あの子のことをもっとよく見てればお前もきっとわかるはずだよ」


✱✱✱✱✱


交互に変身して演技と台詞の練習を重ね、ついに作戦実行に移る時が来た。福富緑夏の演技の合格が出るまでは長い道のりで、心なしかカフカはやつれたきがする。橙山みちるは本物と鉢合わせしないよう予め二人の行動パターンをリサーチしていたことを暴露した。


「ここ一ヶ月の二人の決まった行動はおおよそ把握できました。その結果、平日の夕方にファストフード店で作戦実行するのが安全という答えに行き着きました」


カロリーが高いものや油っこいものが苦手な福富緑夏はまずファストフード店には行かない。そして相手の男子は放課後陸上部をやった後、寄り道せず真っ直ぐ帰宅する傾向にあるそうだ。


やっていることはストーカーまがいである。若いからこその気力、体力なのか。それとも渾身の力を振り絞ったのか。いずれにせよ恐るべき執念だ。


「まず、ワタシが上手く緑夏をファストフード店に来るよう促しますので、相手の男子の鈴木君に変身したカフカさんは偶然を装って緑夏に近づいて食事を誘ってください。万が一に備えてワタシと青田さんは本物の鈴木君が店に来ないか見張り役をします。そして、上手くいったら今度は鈴木君をどうにか呼び出して緑夏になったカフカさんに会わせます。今日の逆をやるんですよOK?」



駅前にあるファストフード店の出入口で私達は作戦の最終確認を行う。


「これ、上手くいくのか?」


鈴木君になったカフカが不安げに耳打ちしてきた。同じく不安しかない私はうんと頷くことができないまま黙った。


「ではおふたりとも、健闘を祈ります」


敬礼を合図に作戦は開始された。まず、橙山みちるは福富緑夏に大事な用事があると言って駅前ファストフード店に来るようメッセージを送信した。


「あの子、ワタシのためならどんなに遠くにいても飛んでくる優しい子なんですよ」


自信満々に友人の長所を語るも、予定外のことが起きた。


一向に福富緑夏から返事がこない。これにはさすがの橙山みちるも少し焦りを見せた。


「ま、まぁ、返事をする間もなくこっちに向かっているということで、とりあえず配置について待っていますか!」


私とカフカは互いに肩を竦めて彼女の指示に従う。


カフカは店の奥の席に、私とサングラスとマスクをつけた橙山みちるは出入口付近の席で待機する。


一時間ほどそうしていたが、いつまで経っても福富緑夏からの返事はなく、姿を現すこともなかった。そのうち橙山みちるはしょんぼりして項垂れた。


「既読もつかない・・・・・・。何でだろう、こんなこと初めて」


それなら最初から約束を取りつければ良かったか。いやそれじゃあ危機感がないし急じゃないとあの子絶対ファストフード店なんかに来ないよね。などとぶつぶつ独り言を話している。


まさか、事故にでも遭ったんじゃ!


挙句の果てに最悪な想像をして、興奮しながら立ち上がった。


「どうしよう! 緑夏がいなくなったら、どうしたらいい? そうだ電話、電話して・・・・・・」


怪しい格好をして取り乱す橙山みちるは一際目立ち、周囲から注目の的となっている。店を追い出されでもしたらこれまでの努力が水の泡になってしまう。


「橙山さん、落ち着いて」


「だって、緑夏から返事がないんですよ。まだ十九時だし寝てるわけないし、せっかくのチャンスなのに!」


チャンス、それは友人だけじゃなくて、きっと君自身のものでもあるんだろう。私はもうこの子がどういう想いでいるのかを知ってしまっている。だからこそ傍らで冷静に支える役割を請け負った。


「まだ時間はある。電話をしてしまえば、呼び出した要件をそこで伝えろと言われてしまう。本人にここへ来てもらわなければ何も始まらない。二十時まで待って、それでも来なければあとは君の好きなようにしていい。また考えて日を改めよう」


荒かった呼吸が次第に落ち着いていく。橙山みちるは頭をくしゃくしゃと掻いてから静かに腰をおろした。


「・・・・・・ちょっと頭に血が上った。焦っちゃ駄目だね、ありがとう青田さん」


焦りを抑えるためにふぅーと長く息を吐いて、先程注文したコーラを飲んだ。


「本当に緑夏さんを大事にしているんだね」


「ええ、ワタシの命より大事ですもん」


「私が、幼なじみの恋を応援した話になるんだけど」


「ああ、ボディービルダーになるには筋肉を鍛えろってやつですね」


「要点がちょっとずれているけど、まぁその話」


何で今その話をするのかと言いたげに首を傾げられる。友人の安否を死ぬほど心配する気を紛らわせるためにしたことだった。


「幼なじみとその好きな子が結ばれた時、すごくほっとしたんだ。私なんかといるよりも幼なじみは絶対に幸せになるってね。でも、何でかな。すごく寂しかった。今日までその理由がわからなかったんだけど、あの寂しさの正体は、嫉妬だったみたい」


暗い窓の外を眺めていた橙山みちるの顔が、即座にこちらを向いた。


「それは、青田さんが幼なじみを愛していたってことですか? それを取られたのが、嫌だった?」


「う・・・・・・ん、愛してるのかって聞かれると返事に困るな。恋愛感情は皆無だし奴と手を繋いだりキスをしたり想像すると怖気が走る。ただ、誰かのものになって私よりも大事な人がいて、離れていってしまうのが嫌だった。独占欲ってものだね。私は奴の幸せを応援していながら、矛盾にも幼なじみを独り占めしたかったんだ」


独り占めして私だけのものになれば、今頃奴の死で悲しみに打ちひしがれるのは私一人で済んだ未来もあったのだろうか。


「はは、愛以外のなにものでもないですよ、それ」


「これは君を見ていて気づいたことなんだよ」


サングラスとマスクをつけているため表情が読めないが、明らかに動揺している。やっぱり自分のことが他人にばれるのを恐れているのだ。



「数え切れないほどの人を見てきたから、感情を読み取るのが得意になってしまったんだ。君が友人の恋を応援しているのは嘘。でも、余命がわずかというのは本当らしかった。そろそろ真実を話してくれるかな? もちろん無理にとは言わないし、話してくれなかったからって協力を放棄することはしないよ。君の心が楽になる方を選んでくれてかまわない」


しばらく沈黙が流れる。遠くの席ではカフカが今か今かと貧乏ゆすりをして座っている。


「青田さんはすげえ人ですね、親にさえ気づかれないのに」


突然、彼女の声は低音に、口調が男性っぽくなった。


「そうですよ、オレは緑夏を恋愛対象として見ています。中身、男なんです」


「そうか、君は男の子か」


先天性の心臓病だと言ったのは、心が体の性と違って生まれたからそう例えたのか。


本当の自分をさらけ出した橙山みちるからは、これまでの演技臭さは一切消えていてむしろ清々しかった。


「しかし、何で緑夏の方に恋してるとわかったんです? オレは生物学上女ですよ。野郎の方を好きだと思うのが自然じゃないですか。こうは考えなかったんですか? たまたま友人と同じ相手を好きになって、それを諦めて譲ってあげようとしたって」


「鈍感なカフカはそう思ってたみたいだけど私の目はごまかせないよ。カフカが福富緑夏に化けた時は照れていたのに、鈴木君に化けた時は死んだ魚の目をしていた。この歴然とした反応の差で、君は友人の方に恋をしているんじゃないかと思った。そしてさっきの過剰に心配する様子を見て確信したんだ」


「結構序盤から気づかれていたんだ」


彼はふふっと悪戯っぽく笑う。


「余命わずかって意味は、まさか妙な気を起こすつもりじゃないだろうね?」


「あー、それはあの子の恋を実らせたら男の心を一生閉じ込めておこうとしてたんです。本当の自分を殺す、それは死と同じでしょ?」


彼の余命とは、肉体的な死を表したのではなく自己喪失までのカウントダウンのことだった。


自分の性に違和感を覚えたのは6歳頃で、髪を伸ばすのもピンク色やレースのついた服を身につけるのも嫌だったと彼はゆっくり話し出した。


女の子といると緊張したが、男の子といると楽しくて仕方ない。ずっと男の子とばかりいると口調も格好も真似したくなる。


幼い頃は問題なかったことが問題になっていく。成長するに連れて奇異の目で見られるようになる。


男に媚びを売る女、そう悪口を言われたこともあった。


女の子は女の子らしくしなさい、そう注意されたこともあった。


「友達だと思っていた男の子からは告白されて、女の子達からは睨まれて・・・・・・わけがわからなかった。オレの居場所はどんどん狭くなっていきました」


彼は女の子でいる努力を始める。あまり好きではない甘い物をたくさん食べて、可愛いものを持ち歩いて、大嫌いなスカートを履いて。周りの目に「普通」「当たり前」「常識」が映るよう休憩のない演技をし続けてきた。それは酷く疲れることで、いつしか彼は人を遠ざけてしまうようになり独りでいるのが楽になった。


そんな彼に歩み寄ってきたのが福富緑夏だった。彼女のおかげで無意味だった日常に花が咲いた。と同時に自分はやっぱり男性の心を持っているのだと思い知った。いくら変わろうとしても完全な女性になることは不可能だと。


「じいちゃんみたいに無精髭が生えても加齢臭があっても、男に生まれたかった。人間以外だったら、コアホウドリになりかったな」


「コアホウドリ?」


「同性同士のカップルが自然界にいるんです。ある地域ではゴミ問題のせいでコアホウドリのオスが減ってメス同士が番になって子育てするんですって。前にテレビで観たんですけど綺麗で堂々としていて羨ましかった。・・・・・・これからは一生、誰かを好きになることはないと思います。こんな男だか女だかわからない奴に好かれたら相手が可哀想でしょ。いっそ、記憶喪失になりたいです。恥ずかしい自分を全部忘れてやり直したいから」


「忘れなくていい」


無意識に声に力が入る。囁かな怒りがこもった私の声に橙山みちるは驚いていた。


「自分の幸せより大事な人の幸せを考えられるなんてかっこいいじゃないか。なかなかできることじゃない、だからその気持ちはどうかなくさないで。あの子への想いをわざわざ殺す必要はないよ」


「オレのこと、気持ち悪いと思わないんですか?」


「誰かが誰かのことを愛している、その事実に対して他人があれこれ口を出したり笑いものにしたりする方がよっぽど気持ち悪いよ」


「生きていて、いいんですか?」


「君のまま生きていい。それは君がずっと求めていた当たり前のことなんだよ」


「・・・・・・そうかぁ」


橙山みちるは脱力して椅子にもたれながら天上を仰いだ。体が小刻みに震え、泣くのを堪えるような声で呟いた。


「カミングアウトした最初の相手が青田さんで良かった」



二人の客が入ってきた。その見覚えのある女の子は店に入った途端誰かを探すように辺りを見回した。


そして、隣にいる男の子もまた見覚えがあった。


私は当事者ではないけど、体中に無数の針が刺さったかのようなショックに襲われる。橙山みちるの秘密を知った後、間もなくこの光景を目の当たりにしたくはなかった。


恋を叶えるはずだった福富緑夏と、相手の鈴木君が並んで歩いている。しかも、手を繋ぎながら。


まずい、予想外の展開だ。


鈴木君の姿をしたカフカに目をやると、運良く奴は待つのに飽きてテーブルに突っ伏して寝ていた。同じ人間が二人いるのを誰かに見られる前に退散しなくてはいけない。


「橙山さんは先に店から出て。私はカフカにサングラスとマスクを渡して外に連れ出すから」


呆然としている橙山みちるに指示を出して、私はカフカの元へと急ぐ。


二人の死角になるように立ってカフカを叩き起す。寝起きのカフカは何が起きているのかわかっていない様子だったため、説明するのは後にして無理矢理サングラスとマスクを装着させて席を立たせる。


二人は店内をキョロキョロしている。きっと自分を呼び出した橙山みちるを探しているのだ。


「みちる、いないなぁ。鈴木君と付き合うことになったってサプライズ報告したかったのに」


すれ違いざまに聞こえた福富緑夏の言葉。何も知らない健気な女子高生の一言が、とてつもなく残酷に聞こえる。


しかしこれは運命でありタイミングが合わなかっただけ。誰が良いとか悪いとかではない。だから、虚しさの行き場はどこにもないのだ。


店の外に出ると橙山みちるはいなかった。どこへ行ってしまったのかと辺りを探すと、少し遠くで着信音が鳴っている。


それは歩道橋の上からだった。暗くてよく見えないが一つの影が揺れている。寝ぼけ頭のカフカを引きずるようにして背負いながら歩道橋の階段を駆け上がった。


「橙山さん」


ゆらゆらと歩いていた橙山みちるは私の呼びかけで立ち止まった。彼の携帯はずっと着信音が鳴っている。


「それ、福富さんからでしょ? ・・・・・・今は話せる気分じゃないよな」



二人を見てたあの顔は安堵や嬉しさなんてものからかけ離れた、悲しい顔をしていた。人を愛するのは素晴らしいことなのに、なぜ苦しまなくてはならないのだろう。


橙山みちるは手すりに寄りかかって下を行き交う車をしばらく眺めていた。随分長く鳴っていた着信音が止まった時、彼は深く息を吸い込んで、笑い出した。


「あいつらいつの間にそういう仲になったんだろ。緑夏も早く言ってくれたら良かったのに、せっかくの作戦がパァじゃん。でもね、青田さん、オレ、人の幸せのために、ここまで一生懸命になれるのは初めてでしたよ」


目を何度も擦って涙を拭き取る彼は、笑って不意に出たものとして誤魔化しているつもりなのだろうか。笑っては擦り、笑っては擦りを繰り返している。


「近似色って、知っていますか?」


「色相環で隣り合った色のこと?」


「そうです、オレ達二人の名前には橙と緑があるでしょ? これ、近似色なんです。隣になきゃだめな色だからって、勝手に淡い夢見ていたんです。でも彼女がいる世界とはあまりに遠すぎるから、彼女が幸せになるためには、オレが想いを我慢しなきゃいけない。だから、恋を応援したんです」


言葉をひとつひとつ選びながらやっと声を絞り出している彼に、私はウェストポーチからポケットティッシュを出して渡した。


「意外ときっちりしてるんですね」


「救急セットを持ち歩いているくらいなんでね、包帯もいる?」


「緑夏にこの顔見られないようにぐるぐる巻きにしますか」


チーンと強く鼻をかむと、彼は息苦しそうに唸りをあげた。


「苦しい?」


「ええ、恋が終わるのって息ができなくなるのと一緒なんですね。こんなの、もう味わいたくないなぁ」


「人の幸せのために一生懸命になれる君が、もう誰も愛さないなんてもったいない」


「過大評価しないでください。あーあ、第二の人生、これからどうしようかなぁ」


「とりあえず、明日から甘いもの食べるのはやめたら?」


「そうですね。ごめんなさい、青田さん。やっぱりだめだな、ちょっとだけ泣いてもいいですか?」


「泣け泣け。そんなのいちいち人に許可を取る必要ないんだ」


橙山みちるはのっそりと歩いて近づき、私のすぐ前で止まった。額を私のみぞおち辺りに押し当てて、それから肩を上下させて嗚咽した。次第に声は大きくなり、彼は夜の歩道橋の上で泣いた。


彼を両腕で包み込み、力いっぱい抱きしめて祈る。どうか自分を殺さずに、ありのまま生きていける未来がこの子に訪れますように。



胸の中で振動する彼の悲鳴に似た叫びは、私自身が発していると錯覚してしまうほど激しくて、痛くてたまらなかった。


✱✱✱✱✱




孫娘が、他の子と違うことは幼い頃から気づいていた。


可愛い洋服やおままごとのセットを買ってあげても喜ばなくて、従兄弟からのお下がりばっかり好んでいたな。


男の子と遊ぶ時は元気なんだが、女の子と話すと恥ずかしがって逃げていた。


じいちゃんは耳が遠いから、小さな声は上手く聞き取れない。だけど口の動きを見れば大概わかるもんなんだ。高校生になってからやっと本音をもらしたな。


「じいちゃん、オレ、心が男なんだよ」


お前はきっと誰かにそのことを打ち明けたくてずっと我慢していたんだろ。だから耳が遠くて少しぼけているじいちゃん相手に、やっと言えたんだろ。


打ち明けた時のお前は何か言葉を欲しがっているようには見えなかった。正直、じいちゃんもどう答えていいか迷った。でもな、体の形や心の色がどんな風でもお前はじいちゃんの可愛い孫なんだよ。


言葉の代わりに小さな頭を撫でたっけな。とぼけたふりしてぼけたふりしてやるから、我慢せずに何でも言え。何があってもじいちゃんはお前の味方だから。




ある夜にみちるが訪ねてきた。玄関灯が赤く腫れた両目を照らした。こんな顔じゃ家に帰れないから泊めてほしいと頼まれる。


一階の店で茶とマフィンを出してやる。じいちゃんの作るマフィンは甘くないから好きだと言って笑った。それから、一連の出来事を全部教えてくれた。もちろん、聞き取れないような小さな声でだ。


どうやらみちるは好きだった子に遠くへ行かれてしまったらしい。ばあちゃんを亡くしたじいちゃんにもその痛みはよく知っている。



怖がらずにお母さんやお父さんに話してみろ。どうして自分を男に産んでくれなかったのか、女の心を持たせてくれなかったのかってお母さんを恨むこと言うな。お前が生まれた時、お母さんは死にものぐるいだったんだ。命をかけていたんだ。そして皆が喜んでいた。じいちゃんも飛び上がるほど嬉しかった。


もし、お前の生き方に口を出す奴がいたらそいつとは絶縁すべきだ。ありのままの自分を愛してくれる人だけを大切にすればいいんだから。



「でも、オレのこと認めてくれた人がいるんだ。人の幸せのために一生懸命になれるのに、もう誰も愛さないなんてもったいって言われた。それに応えるためにもう少し、生まれ変わったつもりで頑張ってみようと思う」



みちるは泣きべそをかきながら言った。そうか、じいちゃん以外にも拠り所になる人ができて安心したよ。


言いたいことは山ほどあるが、ただ静かに聞こえない知らないふりをしているじいちゃんが囁かな糧になるなら、いつまでもその役割を任されよう。


お前の目に映るのはぼんやりしたもうろくじいちゃんだ。でもお前のことはちゃんとわかっている。なりたい自分になれた瞬間を見届けるまで長生きするから安心しろな。




山ほどある言葉の代わりに、項垂れる小さな頭を撫でた。








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