ホワイトライ


三兄弟のうち、わたしは最初に母から生まれました。どこかの廃寺でひっそりと私達は暮らして、母はわたし達が自分で歩けるようになるまで懸命に世話をしてくれました。毎日毎日、食べ物を取りに行く以外一時も傍から離れずに、わたし達を愛してくれたのです。


周りで起きていることが大体理解できるようになった頃、母から色んなことを教わりました。わたし達以外にも数多くの生き物がいること、最も強く恐ろしいのは人間という生き物であること。わたし達はその人間から「犬」と呼ばれていること。


母は、わたし達を身ごもっている時に人間から捨てられて、森の中をさまよい歩きこの廃寺に辿り着いたと言いました。


本当ならば、暖かい場所で、食べ物に不自由なく、愛される生活もあったかもしれない。こんな悪い環境の中を生きさせて申し訳ないと母に謝られましたが、雨風に当たっても腹が空いても、わたしは充分幸せであることを伝えました。


その幸せはある日終わってしまいます。


その日は大雨が降っていて、空で大きな音が鳴り響き、光が何度も落ちていました。雷というらしいです。雷に打たれた大木が倒れてきて廃寺をあっという間に倒してしまいました。幸いにもわたし達は外へと逃げたため助かりました。しかし、もうここにはいられません。新しい住処を探しに行かなくてはならないのです。


何日も大雨が降り、食べ物を取ることもできずに歩き続けました。わたし達は次第に弱っていきました。最後に生まれた弟が死んでしまい、亡骸に別れを告げて母とわたしと妹だけになって先へ進みます。


森を抜けて、泥土のない硬い道へ出ました。人間が作った道のようです。そこで車という早く走る人間の乗り物が行き交うのを見ました。


母は、わたし達が助かる最後の手段を選びました。飢えて死ぬのを避けるには、こうする他なかったのです。


一つの車がやって来たのを見計らって、母は道に飛び出ました。これまで聞いたことのないほど必死に吠えて、助けを求めました。


そうすると車がとまり、生き物が降りてきました。私が初めて見る人間は、想像していたものより怖そうではありません。


人間は雨に濡れながらわたし達の方へ向かってきます。母の足は震えていました。恐怖心が伝わって、わたしと妹も震えました。


「おお、よしよし。お前達三匹だけか? 随分痩せて可哀想に」


枯れた植物のようにしわしわな前足で、人間はわたし達の頭を撫でます。人間はみんなこういう手をしているのかと思いましたが、母が言うにはこれは歳をとった雄の人間らしいのです。力は弱く、若い人間より運動能力はありません。


その力も運動能力もない人間は、わたし達を順番に抱えて車に乗せました。終わって自分も車に乗った時、疲れているのか息切れを起こしていました。


車が動き出し、森から遠ざかっていきます。どこに連れて行こうとしているのかはわかりませんが、あの撫でられた時と抱えられた時に感じた優しさのおかげで、何だかこれから大丈夫そうな気がしました。


こうしてわたしは一つの幸せを終え、また新たな幸せが始まったのです。





✱✱✱✱✱




行方不明になった柴犬の飼い主とコンタクトが取れたのは、古いペット捜索チラシの連絡先と住所が今でも変わっていないおかげだった。私の住むアパートからそう遠くない、町外れにある小さな平屋にその人は住んでいた。


「驚きましたよ、シロとそっくりなわんちゃんがいるって電話で聞いた時は。実際会ってみると本当にそっくりねぇ、しかも名前まで同じだなんて」


この六十代くらいのご婦人は江花蜜乃さんといい、小柄で丸い体型をした人だった。ふっくらした頬は常に上がっており、ずっとにこにこしている。


「ワン!」


カフカはあくまで犬のふりをする。喋り出したらこのご婦人がショックで倒れてしまう恐れがあるからだ。ふざけてヘマをやらかさないか目を光らせて見張る必要がある。そして、今日はこいつの飼い主役を演じなければならない。


「残念ながら、本当のシロちゃんではないんです。たまたま見かけたペット捜索チラシに載っていたわんちゃんが、うちの子にそっくりでして。しかも偶然同じ町に住んでいる、これは何かの縁かなって。その、上手くは言えないんですが、つまり、何かお力になれればと」


色んな姿に変わることができるへんてこな生物がいて、その力を役立てるために活動し始めたばかりってことなのだが、どう説明しても頭がいかれていると思われるのは確実なので、こうやって誤魔化すしかなかった。


出かける際にせっかくの休日を潰してしまってすまないと、カフカに何度も謝罪された。手伝うと言った手前、それは仕方がないと許してやった。許せないのは感極まって私に飛びつき顔面を舐めまわしたことだ。ひどく生臭くて洗っただけじゃ臭いが取れなかった。


「わかっていますよ、この子がシロではないことは。どこからどう見ても本物なんですけどねぇ」


「シロちゃんのこと、諦めてるんですか?」


行方不明になった時点で五歳ほどだから、今生きていれば十歳。人間だと高齢だ。どこかで生きているかもしれないが、死んでしまっているかもしれない。五分五分なのに江花さんはシロがこの世にいないと確信している反応に疑問を覚える。


次に江花さんは驚くことを話した。


「実は、シロは行方不明なんかじゃなかったんです。本当は五年前病気で死んでしまったんですよ」




案内された奥の部屋には高齢の男性が介護用ベッドで眠っていた。鼻に酸素チューブをつけて、静かに寝息を立てている。玄関の段差にスロープと廊下に手すりが付いていたことから、介護を要する人がいるのは気づいていた。


「私の夫です。もうまともにご飯が食べられなくなって。今は自然にお任せしているんですよ。自分がもし駄目になりそうな時は延命をしなくていいって、昔から口癖のように言っていましたから」


江花さんは本人に聞こえないよう耳打ちで事情を説明してくれた。


江花さん夫婦には子どもがいない。夫の光成さんが五年前に脳梗塞を患い体の自由がきかなくなってから、蜜乃さんは介護サービスを使いながらずっと在宅介護をしてきたそうだ。


「主治医は何て?」


「肺炎で何度も入院したし、認知症も出てましてね。だいぶ弱ってきているから覚悟を決めておいとねと。・・・・・・この人が倒れた同時期に、シロは病気で死んでしまったんですよ。本当のことを言ったらひどくがっかりするだろうと思って、目が覚めたこの人にはシロが行方不明になったと嘘をついてしまいました」


光成さんは友人に頼んで愛犬の捜索チラシを作ってもらった。リハビリと言っては何時間も外を歩き回り、愛犬を探していたという。これが、あのチラシの真相だ。いくら探そうが永遠に見つからない。愛犬は、裏庭の桜の木の下で眠っている。


私とカフカは光成さんのいる部屋から出て、裏庭の桜の木へ赴いた。愛犬の墓は決して目立ってはおらず、握りこぶし大の石が置かれていた。黙祷することで犬が喜ぶかわからないが、墓に向かって合掌する。


「あの人が友達の家を訪ねた帰りに、家の近くの山の麓で拾った犬でね。全部で三匹いましたが、他の二匹はそれぞれ飼い主が見つかって引き取られたんです」


「シロちゃんが本当は死んでしまったこと、光成さんに伝えないんですか?」


「私はね、最期まであの人にシロは行方不明のままだと思ってもらいたいんです。きっとどこかで生きているって、希望を持ったまま旅立ってほしい。天国で再会するだろうけどね」


「優しい嘘ですね」


「子どもが自分より先に死んだらどんなに悲しいか、それを知っているのは私だけで充分でしょ?」


そう言って蜜乃さんはにこにこと笑った。ここまでくるのにどれだけ大変だったかは、仕事柄私にも痛いほどわかる。実は彼女のように悩みとか苦労とかを一切表に出さず、屈託なく笑う人は意外と多い。


子の余命を告げられた人、配偶者の意識は戻らないと告げられた人、二度と歩けないと告げられた人も、私達医療従事者の前では笑っていた。


本当に大丈夫かどうかなんて表情や言葉だけじゃわからない。人に心を開いて甘えるのは簡単なことじゃなくて、だからこそ我慢せずどんどん表に出してもらうきっかけを周りが作らなくちゃいけない。


「私に、何かできることはありますか?」


蜜乃さんは目を丸くしてから顎に手を添えて考える仕草をした。


「そうねぇ。少しだけ、この子を撫でてもいいですか?」


「ええ、もちろんどうぞ」


蜜乃さんはカフカと同じ目線になり、頭を撫でる。


「うわぁ、本当にシロにそっくり。まるで生き返ったみたい」


それはそうだ、写真を見てまるっきり本物をコピーしているのだから。


頭から体に向かって撫でていると、蜜乃さんははっとした顔になる。


「あら、この、首の傷まで一緒なんですね・・・・・・」


「首の傷、ですか?」


「ええ、拾われた時に怪我をしていて、何度も動物病院に行って治療したけど、結局いなずまみたいな傷跡が残ってしまったんですよ。偶然より、奇跡ですね、これは」


お面を背負っていたのと毛並みで隠れていたせいで、この傷までは気がつかなかった。今は跡だけだがかなりの深手を負っていたらしい。


こりゃあ、相当大事にされていたらしいぜ。


捜索チラシを見ただけでどうしてカフカはそう思ったのか疑問だったが、納得した。自分が同じ立場になってみればすぐにわかることだ。


生前の生き写しのカフカは毛並みがとても綺麗で艶がある。こまめなブラッシングと栄養価の高い餌を与えられていた証拠だ。そしてこの首の傷。放っておけば致命的になっていただろうし、治療をするのもかなりの時間とお金がかかったに違いない。


「・・・・・・シロちゃんは、幸せだったでしょうね」


「そうでしょうか、もっとしてあげられることがあったって、今でも時々悔いているんですよ。早く病気に気づけていたら、あの子は生きられたかもしれないのにって」


「見つけてもらえず傷の治療もされなかったら生きられなかったはずです。最期まで大切に育ててもらって、死んでしまった後もこうして想ってくれる。私がシロちゃんだったら、もう充分してもらったって思います」


「・・・・・・そう言ってもらえると救われます。ありがとう」


相変わらずにこにこしているが、蜜乃さんは少し涙ぐんでいた。指先で目頭を二、三回触れてからすっと背中を伸ばして、私達に向かってお辞儀をする。


「これは何かの縁に違いありません。お願いです、時間のないあの人にシロは生きているって安心させてあげてください。最期は一切の心配を拭って、旅立たせてあげたいんです」


戸惑ってすぐに返事ができなかった。最初にこれほど重い役割が来るとは予想だにしていなかった。


昔からそう、成功より失敗する未来ばかりを恐れて足が竦んでしまう。看護師になりたての頃はよく先輩に怒られていた。怖くても止まるな、とにかく動けって。


黙っている私の足にカフカが擦り寄ってきて、ワン!と力強く鳴いた。ふむ、これならどこからどう見ても犬でしかない。


「大丈夫か?」


「ワン!」


ほらさっさと覚悟を決めろよとでも言うように、シロは一瞬だけ牙を見せてきた。


そうだな、私は飼い主のふりを、カフカは犬のふりをしてやってきた。その責任は最後までやり遂げなければならない。




眠っている時間が日に日に多くなっている光成さんは、もういつ亡くなってもおかしくない状態と医師から言われている。


明後日か明日か、今日か半日後か、一時間後か。


このタイミングでカフカがあの捜索チラシを見つけたのは、単なる偶然だろうか。姿を変えるだけじゃなくて、死期が近づいている人間に引き寄せられる力を持っているのではと疑ってしまう。きっと奴のような存在を神様と呼んだり、悪魔と呼んだり、仏様・・・・・・は違うか。ともかく、縋りつくために色んな名称を付けるのだ。


そう考えると私以外の人間が、カフカのことを知ったらとんでもないことになるかもしれない。一つの宗教ができて人々がカフカを崇拝する光景が浮かんで、全身に鳥肌が立つ。


奴をめぐって争いごとが始まったら取り返しがつかない。人を幸せにするどころか不幸にさせるかも。


猫になった時、何の考えもなしに警察へ突き出さなくて良かった。カフカのことはやたらと人にばれないようにしないと。


懸命に犬のふりをするカフカが、光成さんと対面の中でミスをやらかさないか緊張しながら見守る。


舌を出しながら軽やかな足取りで畳を歩き、ベッドへ向かっていく。前足を器用にベッド上に置いて、光成さんの顔をのぞき込むような姿勢をとる。


ワン!と鳴いてからしっぽを振って光成さんの頬を舐め始めた。凄い、本物の犬そのものだ。いくら刺激を送っても光成さんの目は開かない。


「このまま目覚めないかもしれません。最後に目を開けたのは、昨日の昼間でした」


まだきちんとお別れを言えていないのに、蜜乃さんがそうぽつりと呟いた時だった。


光成さんは顔をしかめ、唸り声をあげてから薄らと目を開けた。自分を覗き込んでいるカフカを真っ直ぐ見つめて、ゆっくり手を伸ばした。


「おぉ、シロ。・・・・・・やっぱり生きていたのか。良かったな、良かったな。俺の、大事なシロ」


とても小さくて嗄れた声だったが、しっかりと言葉は聞き取れた。


木の枝のような両腕がカフカの体を抱きしめる。何度も何度も体を撫でていると、次第に目が閉じていく。やがて光成さんは、再び眠りに落ちてしまった。たった数分間の偽物の再会であった。


数分前と違ったのは、寂しそうだった光成さんの表情がどこか安心しきって穏やかになっていることだった。


「また、眠ってしまいましたね」


尚も光成さんの顔を舐めるシロに歩み寄り、蜜乃さんは優しく声をかける。


「もういいの、お父さん安心したから。大丈夫になったから」


シロは舐めるのをぴたりとやめて、寂しそうな顔で蜜乃さんを見上げた。この顔が演技じゃないことはわかる。


しばらくその部屋で私達は夫婦の思い出話を聞いた。眠っている光成さんにも聞こえるように、楽しい会話を数十分行った。


二人が連れ添った四十年。その月日は私にとって長いが、夫婦にとってその時間は短かったようで、瞬きする間に通り過ぎてしまったという。


嫌な時間ほど長く、楽しい時間ほど短く感じるのは大変共感できる。


「たぶん、何となくだけど、もう目は覚めないと思います。息遣いもいつもより弱っているようだから、今のうちにお医者さんへ連絡しておきます」


帰る私達を見送る際、蜜乃さんはそう言った。どこか、蟠りが消えたようにすっきりした顔をしている。


「大丈夫、ですか?」


「大丈夫です。ああ、自分でも不思議。あの人の最期は覚悟していたけど、こんなにも冷静でいられる。おかしい話、出張に見送る時みたいな心持ちなんです。私が死んで同じ場所に行ったらまた会えるかしらね。二人が待っているなら、死ぬのも怖くないわ」


いいんだ、俺が死んだらまたわん吉と会えるから。


ヒロが昔言っていたことと同じだ。今世の別れは最後ではないというポジティブな思考。あいつは、わん吉と再会できただろうか。


あいつは命が途切れる瞬間、何を想っていたのか。激痛の中、わん吉のことや奥さんや娘さんのことをほんの一瞬でも想っていたのだろうか。


自分の生涯を振り返る時間も、死後の世界を想像する時間もないままあっという間に死んでしまった。自分の死を認めたくなくて、せっかく再会したわん吉を拒絶していたら可哀想だ。


「また、来てくれますか?」


ちらりとカフカを見ると、舌を出してしっぽを振っている。YESということなのだろう。


「もちろんです、必ず来ます」


「次に来た時は、私はこの家でひとりぼっちでしょうから」


「いや・・・・・・そんな・・・・・・」


なんて言えば良いのか、これまでの経験を活かそうと頭の中にある引き出しを開けまくっていると、蜜乃さんはにこにこしながら首を横に振った。


「気を遣って言葉を選ばないでください。とても嬉しかったんです、シロとそっくりなわんちゃんに会えたのはもちろん、娘がいたらこんな感じなのかしらってどきどきしちゃって。何だか元気をもらいました。来てくださって本当にありがとう、青田さん」


深々と頭を下げられながら感謝されて、後ろめたい気持ちになった。


いや、私じゃなくてこいつが行こうと言ったんです。


人の手柄を横取りしたみたいで申し訳なくなる。僕の心境とは裏腹に、カフカは嬉しそうにずっとしっぽを振っている。本人が満足しているならそれでいいか。


「どうだった? 初めて仕事をした感想は」


帰り道、人のいないタイミングを見計らってカフカに尋ねてみる。


「正直な話、罪悪感はあった」


「罪悪感? なぜ?」


「じいさんを騙しちまったから。ばあさんが懸命に頼んできたから引き受けたけど、酷いことをしちまった」


ノリノリで犬のふりをしていた割には、いまいちやり甲斐はなかったようだ。変なところで真面目だな。


「点数で言うと?」


「二十五点」


「だいぶ低評価だな、定期テストの赤点じゃないか」


先ほどとは打って変わって耳としっぽが垂れている。周りから飼い主に叱られた可哀想な犬に見られてたら、私が悪者になってしまうじゃないか。動物愛護団体に通報される前に機嫌を取らねば。


「そうがっかりすることかな。私は百点満点だと思うよ。終着点を目前にした人とその家族が、あんなに穏やかな表情をしているのは初めて見た」


「犬の嗅覚はすごいぜ、相手の感情の匂いまで嗅ぎ分けられる。ばあさんは最初、雨で土が濡れたみたいな匂いがしたんだ。あれは悲しい匂いだ。さっき別れる時には甘い花の匂いがした。喜びの匂いだ」


「そうか、犬になったこともないし別になりたくもない私にとっては、永遠に味わえない未知の感覚なんだろうな」


それならなぜこいつは落ち込んでいるのか不思議で仕方がなかったが、原因は光成さんの匂いらしい。


「じいさんは、俺と対面する前も後もずっと悲しい匂いをしていたよ」


「どういうこと? だってお前をシロと思って喜んでいたじゃないか」


「表面上はな、でもあれは、俺が偽物だと気づいていた。そうじゃなきゃ、悲しい匂いなんかしなかったはずだ」


「つまり、光成さんは、シロがもう死んでいることを知っていた?」


私は光成さんの立場になって想像してみた。


自分が病気で倒れ、意識を取り戻した時、妻から突然愛犬の失踪を告げられる。


毎日外を探し回っても、友人に捜索チラシを作ってもらっても、一向に見つからないどころか愛犬の姿を目撃した者はいない。白くて大きな柴犬なのに、誰の目にも触れていないのはおかしい。


もしかしたら、本当は家を出ていってはいないんじゃないか。


外出するふりをして、門のところで妻に見送ってもらった後、敷地内に戻りこっそり妻の行動を陰から見た。どうも何か隠しているような気がしてならない。


妻は裏庭の桜の木の下にしゃがみ、手を合わせている。地面には握りこぶし大の石が置いてあり、妻はその石をそっと撫でた。愛犬の頭を撫でる時と同じ手つきだった。


そこで全てを察した。妻が自分のためを思って、愛犬が死んだことを隠し、希望を持たせようとしていると。ならばそれに応えよう、何も知らないふりをして、妻の優しさに付き合ってやろう。


今日もシロを探しに行くの?


ああ、リハビリにもなるだろ。


シロ、どこかで元気にしてるといいわね。


・・・・・・ああ。


気をつけて行ってらっしゃい。


・・・行ってくる。




夫婦は、互いを想って嘘をついていた。あくまでも、私の想像に過ぎないのだが。



___ホワイトライ。白い嘘。嘘も方便、罪のない嘘、優しい嘘。


やたらと『白』に因んだものが出てくる。


「お前を見た時、安心しきって穏やかな顔をしていたんだけどな」


「ばあさんの嘘に付き合ってやったの、もしかしたら内心楽しんでいたのかもな」


「結局、人の心はわからないもんだね」


「青田さんでもわからないのか?」


「人体のしくみなら教科書を見ればわかるけど、こればっかりはな。でも、本物のシロも同じことをしたかったはずだ。飼い主に飛びついて思いっきり甘えて、元気づけて。お前はシロができなかったことを代わりにしたんだ。自信持ったらいい」


柄になく励ましてしまった。自分で言っておいてむず痒い。カフカの耳としっぽが少しだけ上を向く。


「どうする? この活動を続けるか? 」


カフカは眉間に皺を寄せて唸った。悩んでいるつもりだが、威嚇しているようにしか見えないので怖い。


「とりあえず、次は五十点目指せるように頑張ってみるよ」


「賢明な判断だよ、そういう努力家タイプは嫌いじゃない」


褒めたつもりでガシガシと乱暴に頭を撫でたら手首に噛み付いてきた。二度と撫でてやるものか。


「そういえばさ、青田さんの下の名前はなんて言うんだっけ?」


「・・・・・・美しい空で、美空みそら


私も馬鹿だった、気前よく名前なんか教えなきゃ良かった。三十秒後に大変不快になる羽目になるんだから。


「へぇ! 意外な名前だな」


「意外ってなんだよ」


「あー・・・・・・でもこれ言うと青田さん怒るかもな。やめとこ!」


「なんだよ、気になるような言い回しするなよ」


「怒らない? 絶対怒らない?」


「うるさいな、怒らないから白状しろよ」


「名前を聞いた瞬間、なんとなくぴったりな呼び名が浮かんだんだ」


嫌な予感がして僕は早足でカフカから離れた。犬の脚力に適うわけはなく、すぐに追いつかれてしまう。


「おい! 何で急に走るんだよ! ソラ!」


私は聞こえないふりをして全力で走った。足元にはしつこいほどカフカがへばりついてくる。


幼なじみで親友であるヒロからしか呼ばれない愛称。喋る犬なんかに呼ばれたくなかった。いや、それよりもいけないのは、こいつとヒロが同一の存在であるという疑いを再燃したくなかった。


「ソラ! 待てよ!」


「その名で呼ぶなぁっ!」


再燃よ、汗に変わり、蒸気となり、爽やかな風と共に遠くへ飛んでゆけ。



✱✱✱✱✱



頭の病気で倒れても、それほど大事に至らず前のように歩けるのは、妻が早くに発見して救急車を呼んでくれたおかげだった。


倒れた時、傍にシロがいて何度も吠えていたのを覚えている。あの怯えきった顔。両耳が垂れ全身の毛が逆だっていて、きっと怖がらせてしまったのだろう。悪いことをした。


シロの顔を見たのはあれが最後だった。せっかく生き延びたのに、家に帰ってからあの子がいないなんて、信じたくなかった。


「あなたが倒れた日、救急車や近所の人が来た際に家が騒がしくなってしまって、驚いて飛び出して行ったの。捜したけど見つからなかった。ごめんなさい」


妻は申し訳なさそうに言った。最初はその言葉を信じて友人に捜索チラシを作ってもらったり、外を探し回ったりしたけど、ついに本当のことを知る日がきた。


夜。妻が玄関から出て行く音がして目が覚めた。こんな時間にどこに行ったのか。何だか怪しい。こっそり後をつけると裏庭の桜の木の下にしゃがみこんでいる影を見つける。一体何をしているのだろう。


「蜜・・・・・・」


呼びかけようとした時、すすり泣く声がした。誰にも聞こえないよう、声を押し殺しているらしい。そして、両手を何度も擦り合わせる音もした。


「シロ、お父さんのこと、見守ってね。大好きよ」


それで全てがわかった。


シロはもうこの世にはいない。自分が意識を失っている間に、死んでしまっていたのだ。もしかしたら自分の替わりに死んだのではないかと思うと、身が裂かれる苦しみだった。


時分を気落ちさせないように、シロは出て行ったなどという嘘。馬鹿だなぁ、確かに生きる気力を半分失ったが、まだ半分残っている。だから大丈夫だ。


「今日もシロを探しに行くの?」


どこか不安げな表情を浮かべる妻。この体がいつまで持つかはわからないが、妻を独りにさせないために気張らなければ。


「ああ、リハビリにもなるだろ」


「シロ、どこかで元気にしてるといいわね」


妻は嘘をつく時、鼻の穴をひくひくと震わせる癖があった。よく見ればすぐにわかったのに、妻のことを蔑ろにしていたせいで気づくのが遅くなった。


「・・・・・ああ」


「気をつけて行ってらっしゃい」


ひくひくと鼻が膨らんだり縮んだりする様はあまりにも愉快な光景で笑いそうになる。


「・・・・・・行ってくる」


笑いを堪えながら道に出て、誰もいないところで腹を抱えながら笑った。妻の優しさが嬉しいのとシロのいない寂しさが混沌として、何だかおかしくなってしまって。








笑って笑って、笑い疲れて涙が出た。





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