第19話 妹の変調

第19話 妹の変調


 手術費用はできたが、二度目の手術自体は成功しなかった。

 一九九七年、藍の母は苦労続きの生涯を閉じた。元々成功率の低い手術と申し渡されていたので、病院と医者には何も言えなかった。


 母の傍に居る必要の無くなった藍は、翌年の早春、居づらくなった東京を離れ、慧とともに大阪へ転居した。

 そして、姉妹の二人暮らしに必要な資金の為に、藍はホステスになった。薄化粧で、スポーティだった衣服の好みも大きく変わった。一口で言ってしまえば派手な女になったのである。時に藍は二四歳、慧は十三歳で中学一年生終了直前だった。


 四月がやって来て、慧は、友人の一人も居ない大阪の中学校へ、二年生で編入した。

 突然の環境変化は、慧にとって打撃だった。大阪に全く馴染めなかったのである。慧は学習意欲も、持ち前の快活さも失った。


 藍は焦った。藍は、父母が亡くなり、自分がホステスまで身を落とした今、自分にとって希望の星は、慧だけだという思いに凝り固まっていた。

 藍は大阪を一年で引き払い、慧の為に、苦い思い出の残る東京へ戻る決意をした。その甲斐あって慧は、無事東京の中学校を卒業したが、高校一年から二年に掛けて、また登校拒否に近い引篭り症状を見せた。

 治ったかに見えた慧のノイローゼは、完治していなかったのである。


 慧に新しい希望を与えたいと藍は強く願った。

 以前に慧が外交官になりたいと、夢を語っていたことを藍は思い出した。小さい頃に見たドラマで、その仕事に憧れていたのだろう。

 藍は、オーストラリアのメルボルンにある高校へ、慧を留学させることを思い付いた。


 高校で唯一の慧の友達が、その高校へ留学するという話があり、その友達の両親から、話を聞くことができたからである。

 そこは学習環境も良く、自由な校風の、とても良い学校だと教えられた。オーストラリアの国民性も、人に親切で気さくで明るいらしい。何より、ネイティブの英語を身に付けておくことは、慧の夢に大きなプラスになるだろうと考えてのことである。慧は、藍の提案に興味を示した。


 慧は、オーストラリアで見違えるように元気になった。

 そして二年間の留学生活を終える頃、慧は帰国子女向けの大学入試を受け、第一志望校の上智大学へ合格した。

 離れ離れの二年間は、藍にとって気が遠くなるほど長かった……その朗報に、藍の喜びは頂点に達した。年の離れた慧は、藍の妹であり娘でもあったのだ。


 その慧は、メルボルンの高校卒業目前でトラブルを起こし、卒業条件の、二週間のボランティア活動を行ってから、当初の予定より一月遅れて、二〇〇三年十一月初めに帰国した。

 藍は遠く離れた国で、慧の身に何が起きたのか知らなかったから、その一ヶ月の延長が永遠のように長く感じられた。


 しかし十九歳の慧は、見違えるようにたくましく成長していた。

 背も渡豪前より、五センチほども伸びていて、今や百六十センチの藍が見上げるほどになっていた。

 趣味のダンスで鍛えられた慧の肉体は、しなやかさと強靭さを供えていた。

 出迎えた成田空港で、二人が劇的な再会を済ませた後、二人並んでロビーを歩いていると、外国人から何かを尋ねられた。

 この時慧が笑顔で、流暢な英語を駆使して何やら説明している姿に、誇らしさから藍はうっとりと目を細めた。

 慧の為に頑張ってきた苦労は報われ、湧きいずる喜びを、藍は噛み締めていた。


 二〇〇四年四月、藍の三一年間余りの人生の中で、最良の日を迎えた。

 上智大学の入学式である。

 式場の後ろの方で、藍はこれまでの人生を振り返っていた。父のこと、母のこと、慧の泣き顔、笑い顔……

「母さん、慧は本日立派な大学生になりました。そしてもう何日かすると、慧は二十歳になるんだよ」

 熱い胸の内で、藍は天国の母に報告した。

 藍の手元には母の写真があった。名前を呼ばれ、式場の前方で慧が起立した時、その後姿を見詰める藍は、自分の中にありし日の母の存在を感じた。

 愛する慧が、無事上智大学を卒業し、難関の外交官試験に合格し、女性外交官として、生き生きと働く姿を見届けること。それがこの日から、松原藍の大きな夢になった。


 慧は入学以来、真面目な学生生活を送っていた。

 一年生終了時の成績は、非の打ち所の無いものだった。

 その慧に変調が見られだしたのは、二年生になった五月辺りからだろうか。最近とみに躁鬱の変化が激しい慧を、藍は本気で心配していた。


 五月十日の無断外泊に始まって、おしゃれして外出した日には、夜遅く酒の匂いをぷんぷんさせて帰宅することもあった。

 どこへ行って来たのと藍が問えば、大学の合コンだと慧は答えるが、藍は違うと睨んでいた。

 藍もそれなりに、男女の場数を踏んで来たから、恋する女の顔は直ぐわかる。

 年頃の娘が恋をすることは、自然なことだから責められない。恋をしない乙女の方が寧ろどうかしている。そんなことは藍は百も承知していたが、交際相手の名や素性を、慧が自分に隠すのは納得が行かなかった。

 相手によっては、反対などするつもりは無い、そう思っていたからだ。


 或る夜、入るわよと言って、慧の部屋のドアを開けると、ベッドの上で慧が泣いていた。

 どうしたの慧? と藍は思わず叫んだ。

 お願い一人にしてと、慧は藍を押し戻し、ドアをロックした。

 その日はそっとしておいたが、気が気でない藍は、その翌日慧を問い詰めた。


 慧は少しだけ藍の質問に答えた。

 その人は小説を書く人で、書けない時には、可哀想なほど落ち込んでしまうから、それが私に伝染してしまったのかなと、慧は涙の訳を説明した。


 小説を書く人と聞いて、藍は少なからず動揺したが、それを表には見せなかった。

 涙の理由が嘘であることも直ぐ見抜いた。

 それでも「そう、それは大変ね」と、慧の答えに対し、納得した振りをしてみせた。

 穏やかに話さないと、肝心な所を聞き出せない恐れがある。藍は慎重に話を進めた。


 長年のホステス経験で、藍は、人から話を聞き出すテクニックを身に着けていた。こんな時にその経験が生かせるなんて、人生の皮肉を藍は心の中で悲しく笑った。

 藍は慧の交際相手を決して非難しなかった。

 姉の寛大な態度に、慧は始めは驚いたが、いつしかすっかり警戒を解いていた。

 慧は、一人で苦しむことの限界に近づいていたのだ。

 胸の内の全てを、姉であり母である藍に打ち明けた。慧の心は、良き理解者を持ったことで解放された。


 取り戻した穏やかさは、慧に、愛と学の両立を可能にさせた。

 慧はこれまでにもまして、胸の内で深い感謝を藍に捧げた。

 このまま信也との愛が、悲恋に終わったとしても、今の自分なら、穏やかにそれを受け入れることができるだろう。慧はそう信じることができた。


 藍はその後も、慧の良き相談相手を演じ続けていたが、その心の中には嵐が吹き荒れていた。

 慧の人生を狂わそうとする、竜野信也と云う男が許せなかったのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る