第7章 藍と慧

第18話 踏み入れた横道

第18話 踏み入れた横道


 九月一日。

 町村博信は、二次選考の結果を竜野信也の携帯へ連絡した。

 この時の反応の良さで、竜野の鬱症状の治癒を、町村は確認することができた。

 元気になった竜野は、選考の経過状況を詳しく訊きたがったが、町村はその投票結果だけを教えた。


(この先は貝原との対決が待っている、できることなら竜野の協力が必要だ)

 町村はその意味で、竜野の回復にほっとしていた。

 しかし竜野の協力が得られなくても、ゲームは後戻りできない所まで進行している。ここまで来れば、町村はゴールへ向かって突っ走るしかなかった。


 数日後、全国紙に五段の太平洋書店新刊広告が掲載された。

 貝原洋の三年振りの書き下ろし新作長編推理小説『トゥワイライトの悲劇』は、その右半分のスペースを占め、「早くも十万部突破!」の見出しを躍らせていた。


 編集者高橋良太はその新聞広告を指し示し、隣の席の町村に耳打ちした。

 高橋は中肉中背のひょうきんな男だ。


「貝原さんの新刊、部数伸びてるようですね。でも先輩、本当に大丈夫なんですか?」


「何が?」町村はとぼけた。


「またまたあ。読みましたよ、この本」

 高橋は笑いながら、肘で町村を小突いた。


「読んだのか? お前も暇な奴だな」

 町村は高橋の肩を軽く叩いて、ちょっとスターバックスでコーヒーブレークと行こうかと言った。


 高橋は、おもしろくなりそうですねと笑って、町村と一緒に交差点編集部を出て行った。



 九月上旬、竜野信也に、もう一つの朗報が飛び込んで来た。

 「日本ホラー小説大賞」でも、二次選考による最終候補作品ノミネートが決定したのである。


 妻広美の喜びようは、夫の信也から見てもおかしいほどだった。

 小説の成功を祝して、友人親戚も呼んで盛大にパーティをしようとまで広美は言ったが、それは受賞出来た時でいいよと、信也は断った。

 広美はそれを夫の照れからだと受け止めていたが、信也は心苦しかったのだ。


 二人の女を同時に愛すること、例えそれが道徳的に反していたとしても、自分にはそれができると信じていたが、今の信也は、裏切りの罪の深さに煩悶はんもんしていた。

 愛する広美が喜んでくれる分だけ、信也の苦痛は大きくなって行く。


 あの日から、竜野信也と松原慧は、一月に二回の密会を重ねていた。

 信也と慧の愛が深まるほどに、新たな幸福は、それを相殺そうさいするかのように、新たな不幸を引き連れてきた。信也に対しても、慧に対しても、公平かつ平等に……


 二人の会話が何かの拍子でふと途切れる時、その短い沈黙が怖くて、信也と慧は意味も無くはしゃいでしまう。

 もし二人の間に障害が無かったならば、沈黙はむしろ蜜のように甘い時間だったに違いない。

 話がある方向に近づくと、二人は意識的に話題を変えた。

 何かを忘れる為の抱擁は、生死を賭けた格闘のようだった。

 信也と慧の踏み出した道は茨の道に通じていた。


 二人の人を同時に愛することは、二人の人を同時に傷付け苦しめることと同義であること……信也はそれにもっと早く気付くべきだった。

 しかし信也は、その問題に向き合うことを避けていた。

 それに気付いた時、その解決方法はたった二つしかなかったからだ。

 一つは、一人を愛し一人を捨てること。

 二つ目は、二人共捨てること。

 裏を返せば、一人に捨てられるか、二人に捨てられるかと云うことだ。

 信也は刹那せつなに生きようとしていた。




 松原藍は、妹の慧と暮らしていた。

 藍は今が一番幸福だと感じている。

 藍は中学生以降、自分の為の人生を送って来たことが無い。

 父は十五の時に癌で病死した。母は父の看病疲れで身体を壊していた。その時妹の慧は、まだ四歳児だったのだ。

 それ以来藍は、家事とバイトをこなしながら、慧の面倒を見てきた。


 働いたことの無い母が、壊れかけた己の身体に鞭打つように仕事に出て、父の生命保険金一千万円の貯金を、少しずつ取り崩しながら、親子三人きゅうきゅうと生活してきた。

 そんな中で、藍が四年制大学を卒業できたのは、母の意地のお陰だった。

 漸く社会人となって、楽をさせてやろうかと思っていた矢先、その母の病気が悪化して入院することになった。


 当時、藍は初めて人を好きになり、結婚まで考えたことがあった。その相手が町村博信である。

 その秋になると、母の入院している病院から、緊急に手術が必要だと藍は通告された。

 それは高難度医療に属する手術で、健康保険の対象外になるがどうしますかと云う話だったが、手術しなければ確実に半年後に死ぬと言われれば、藍としては、その提案を受け入れざるを得なかった。


 藍は初めて好きになった人に、母のことですがる気持ちにはなれなかった。

 そして選択した方法が、藍を口説いていた貝原洋への借金の申し込みだった。

 貝原への愛が無かった訳ではないが、結局愛人契約のような形になって、貝原からは五百万もの大金を借りた。


 藍の母の手術は無事成功した。

 しかし、一年後の再発で、今度は一千万円かかると言われた。

 金で買われた愛情は長く続かない。その金を、貝原から借りることはできなかった。

 止むを得ず、藍はある仕事をすることでその金を工面した。

 そのせいで会社には居られなくなった。

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