第5章 町村博信と松原藍

第15話 ダブルトライアングル

第15話 ダブルトライアングル


 五月中旬。町村博信は相変わらず忙しかった。

 四月末に編集者会議で第一次選考した、クリスマス賞の候補作品十点は、編集委員達が読み易いように先ず簡易製本された。

 八月末には、五人の選考委員と五人の編集委員による合同会議で、第二次選考が行われ、最終候補作として五作品が決定される運びだ。

 その合同会議は、五月から始まって都合三回行われる。その準備は一次選考の時と比べれば、町村にとって大した負担ではなかったが、に、担当編集者としてがっちりと取組んでいたから忙しかったのである。


 問題は殺しに関するトリックの一つにあった。

 推理小説のトリックは、過去にあらゆる種類のものが考え尽くされている。

 貝原が思い付くアイデアは、内外の過去の作品で使い古されたものばかりだった。最近の作家達が本格推理小説を避けるような傾向は、トリックの盗作問題と決して無縁ではないだろう。


 そのアイデア探しに町村も奔走していた。

 貝原に対する自作の作品提供は止めたが、こうしたアイデア探しなどは、編集者の普通の仕事の一つだから嫌でも避けて通れない。

 とは言え、貝原が町村に頼る姿勢は、作家と編集者の関係を超えた、まさに腐れ縁とも云うべきものだった。




 ある深酒をした翌朝、町村は自宅の事務デスクの上に置かれた写真立てをぼんやりと眺めていた。

 チェックの半袖シャツから太い腕を覗かせた、ごつい顔の男が町村だ。今よりずっと若く見える。

 彼にぴたりと頬を寄せ、ぴちぴちの若さを見せ付けている、卵型の顔をした女は、ノーメークに近いのにかなりの美人だ。


 確かにそれは、昔そこに飾られていたものだった。

(昨夜これを……俺自身がここに置いたのか、あいのことは忘れた筈なのに……)

 苦々しい思いで、町村はそれを手に取ると、引き出しの奥の方へ放り込んだ。


 それは、松原藍と町村博信が恋人だった頃の写真で、九年も前のものだった。

 松原藍は太平洋書店一九九六年入社で、当時四年生大学卒の藍は二二歳、町村は三十歳である。

 二人が出会ったこの頃は、町村は太平洋書店入社八年目の中堅で、『交差点』編集者としては三年目だった。


 藍は、文芸誌とりわけ『交差点』編集者を希望していたが、初年度は希望は通らず、二十代向けの女性雑誌部門に配属されていた。

 藍は新人ながら非常に積極的なタイプで、将来の転属に備えて、空き時間には『交差点』課の部屋で、仕事を手伝いながら学んでいた。

 与えられた仕事は十分こなしていたから、担当上司は、彼女が時間外に他課の仕事をすることを黙認していた。課長同士の折り合いが良かったことも幸いしていたのだろう。


 上司の指示を受けて、町村は藍の面倒を見た。

 仕事の飲み込みも早く、向上心の高い努力家の藍に、町村は次第に惹かれるようになった。

 一方藍の方も、父を早くに亡くしたせいか、仕事のできる自信家の町村に好感を持った。

 そして夏が来る頃には、二人は相思相愛のカップルになっていた。写真は、夏の休暇で二人が旅行した軽井沢で撮ったスナップである。


 その年の秋口に、黒木アユ女史の新刊出版記念パーティが、太平洋書店主催で開かれた。町村は、藍を伴ってパーティに出席した。


 黒木アユと同期で友人の、貝原洋もパーティに参加していた。

 町村は貝原の姿を見つけると、担当編集者として挨拶の為に近付いた。

 貝原は女には手が早い男だ。釘を刺す意味で町村は、松原藍を自分の婚約者だと紹介した。正式ではなかったが、二人の間に結婚の約束があったのは事実である。


 藍が貝原洋の熱心な読者であったこと、貝原の好みのタイプだったことが悲劇の始まりだった。

 貝原は口説き上手で、藍にファザコンの傾向が有ることも見抜いていた。だから藍が、その気になった貝原に攻められて陥落されたとしても、それは自然の流れだったと云えないこともない。


 貝原のたっての要望が通り、その年の冬、小さな異動があった。

 臨時異動命令に従って、松原藍が『交差点』に移って来た。正式な辞令は翌年の四月であるが、既に藍の後任はフリーの編集員の中から補充されていた。


 社内には良からぬ噂が広がっていた。

 藍が貝原と出来ていて、貝原の力を借りて転属希望をごり押しした。あるいは、藍にご執心の貝原が、足場を他社に移すそれがいやなら、と編集長に、藍を自分の専属担当にするよう迫ったなどである。その二つとも、当たらずとは云え遠からずであった。

 藍にはお金の要る個人的事情もあったらしく、貝原がそれを貸したらしいという怪情報も出た。これも根も葉も無い話ではなかったようだ。


 町村がその事情を質すと、複雑な理由があるので今は訊かないで欲しいと、藍は返答自体を保留した。そして二人の婚約解消を申し出たのだ。

 町村は静かな怒りに燃えた。噂には信憑性がある、町村はそう判断せざるを得なかった。

 以来町村は、藍を忘れようと努めた。続けていた創作活動は、次第に実が入らなくなった。


 それから一年程過ぎた頃、貝原作品原作の映画に、異例の抜擢で主演が決まった若手美人女優相川加奈子と、貝原洋の交際が発覚した。

 それから間も無く、貝原と、相川と、MAなる女性が、都内のホテルのバーで大喧嘩したという記事が写真週刊誌に出た。

 MAは一般人ということで、目の部分を黒消しされていたが、太平洋書店の中では、MA=松原藍であることは当然のごとく知れ渡った。

 藍は会社を依願退職した。


 その後の彼女の行方については、町村も知らないが、風の便りでは、大阪でホステスをしているとか……

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