第3話 天然水の願いごと

 あれから数年経ち、私は憧れていたデザインの勉強をしている。

 少し考えかたが変わったかもしれない。お母さんともよく話すようになった。

 大学生になった私は、課題と勉強、アルバイトと忙しい。掛け持ちは大変だけれど、充実した日々を過ごしている。

 心のどこかに彼のことを引っ掛けたまま。


「ごめんね、昨日まではあったんだけどね」

「そうですか、ありがとうございます」


 その日はどうしても欲しい画集を探していた。ここ数日ずっと探している、今一番気になるデザイナーさんの画集が出たばかりだ。

 家近くの書店、学校近くの書店、色々探したが見つからなく、ネットでも売り切れている。探し彷徨った私は、いつの間にか家からかなり離れた書店にまで来てしまっていた。

 ここになかったら諦めよう。そう思って入った小さな書店だった。


「あった!」


 小さな書店の一番奥、資料系の本が乱雑に置かれている棚の上に目当ての本をようやく見つけた。どうやら棚の高いところに置かれていたので、まだ残っていたようだ。

 踵を挙げて本に手を伸ばす。届きそうなのに、ほんの少し足りない。

 届かない本に悪戦苦闘していると、背の高い店員がやって来てその本に手を伸ばした。


「はい、こちらですよね」

「ありがとうございま、す」


 笑顔でお礼を告げた私は、その店員の顔を見上げて思わず固まってしまった。

 彼に似ている。そんな馬鹿な、そう思うくらいあの水の彼に似ていた。

 そんなことあるわけない、違う、人違いだ。心の中で何度も繰り返す。

 目の前の店員さん、水の彼に似ていたその人が呟いた。低く響く声も、驚くほど彼だった。


「ま、なほ?」


 私は目を見開いた。初めて訪れた書店の店員が、私の名前を知っている筈がない。そう、自分の名前を知っているのだとすれば、答えはひとつだ。

 思わず彼をまじまじ眺めてしまう。長い脚には黒いボトムスをすらりと履いていて、上はラフなシャツを着て緑色の書店のエプロンだ。スニーカーを履いた足元を見ながら、そういえば記憶の彼は、靴を履いていなかったと思い出す。

 混乱しながら見たネームプレートには、『流水』と表記されている。ナガレ、あの時二人で考えた名前だ。


「あの……」

「い、今なにやってんの?」

「えっと、バイト」


 なにか言わないと。そう思って訊ねた言葉はひどくありきたりな質問だった。

 しかし信じられない答えが返ってきたので、思わず間抜けな返事をしてしまう。


「え!」

「えっ、って、愛穂がなにやってるか聞いたんだろう」


 彼は困ったような表情を浮かべていて、記憶の中に残っている水の彼とも重なる。

 私は思わずさらに質問を重ねていた。


「大学生?」

「いや、ええと」

「フリーター?」

「いや、そうでもなく」

「そうか、社会人だよね、本屋さんか」


 勝手に質問して納得しようとしていると、彼が困ったように視線を動かした。

 私ったらさっきから失礼なことばかり言っている。しかし突然の状況に私だってうまく考えられないのだ。


「それも、違うんだ」

「え?」


 だったなんだろう? バイトをする水の彼とはどういうことだろうか。

 そこまで考えて再び見上げたところで、ようやく私は違和感の理由に気がついた。

 瞳の色が違う。水の彼は青い水色の瞳をしていた。しかし目の前の流水と名札を付けた彼の目は、少し茶にも見える黒い目をしている。

 ぼんやりとその瞳を見ていると、彼からの予想外の言葉が耳に入ってきた。


「高校に、行ってる」

「そっかぁ、高校生ね、え? 高校?」


 繰り返してから、つい彼をもう一度足元から頭まで見てしまった。男女の体格の差を引いても、どう見ても成人だし私より年上だ。

 疑問が顔に出ていたのだろう。彼は言いにくそうにしていたが、簡単に説明してくれた。

 どうやら、あの事故から私を助けた力は、彼らのルールのようなものに反したことだったらしい。それで罰として今は力を制限されて、人の中に暮らしているそうだ。

 夕方まではこうしてバイトをして、夜は高校に通っているらしい。


「愛穂に言われた通りだった。自分の名も書けない、愛穂の名も書けない。術も一切使えず、なにもできない無力で小さい者でしかなかった」

「どうして、連絡してくれなかったの?」


 頼ってくれたってよかったのに。

 あの時助けてくれたのはやはり彼だった。お礼だって言いたかったのに、気がついたら居なくて、心の中にはずっと残っていた。


「最初は本当に無力で、なにも出来なくてさ」


 その表情からして、想像出来ないくらい大変だったのだろう。確かにあの時の私では、急に元水の彼だと言われたってなにもできなかった。今だってなにが出来るかはかわからない。


「せめて一人前になってから、会いに、行こうと」

「会いたいと思ってくれてた?」

「当たり前だろ!」


 勢いよく言葉を返され、思わず目を見開いた。

 こちらを真剣に見る瞳は、とても暖かく綺麗だと感じられるから不思議だ。

 彼は確かにここにいる。そう思うと私は口を開いていた。


「そうだ、わたし願いごと考えたの」

「いや、しかし今の俺には……」


 私は自然に想いを言葉にしていた。これが、なによりの願いごと。

 彼からさっき受け取った本を裏返し、目当ての物だと確かめると、大事に両手で抱えた。

 流水は自分の両手を見て、戸惑ったような表情を浮かべている。

 だからこそ、私はその願いを彼に届けた。


「この人のね、個展が今度あるの、私と一緒に行ってくれませんか?」


 胸がドキドキと高鳴っていた、一生の勇気を出して誘う。

 彼は目を瞬かせて、首をかしげながらあっさり答えた。


「行けばいいのか? それだけ?」

「それだけだけどさ」


 それだけ? などと言われ私は肩を落とす。

 本当は待ち合わせして、個展に行って、その近くのカフェでランチをしたい。公園を散歩して、それで色々な話をする。

 そんな意味もありったけ含めての告白だったのだが、目を瞬かせてこちらを見ている様子は、やはり意味は通じていない。

 その表情を見ると、彼はこの数年間一体なにをしていたんだろうと気になる。

 これからの時間は、きっとたくさんあると思う。

 会いたかったと言ってくれた。ならばきっと私にもチャンスはある。

 私の表情には自然に笑顔が浮かんでいた。


「勉強も教えてあげるから!」

「これでも成績良いんだぞ」

「高校生だけどね」


 彼は悔しそうな声を出したが、その表情にも笑みが浮かんでいた。


「じゃあ約束ね!」


 小指を突き出すと、彼は不思議そうにその指を見ていた。だがすぐに同じように小指を出してくれる。

 私はその指にしっかりと小指を絡めた。絡んだ指の温かさにまた胸が高鳴ったが、そんなの気にしない振りをする。

 そしてとびきりの笑顔を浮かべながら、繋いだ小指を軽く振った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

天然水の願いごと 芳原シホ @yoshishiho

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ