第2話 助けてくれたのは

 とうとう水の彼が私の部屋に居着いて、一週間以上が経ってしまった。

 特にしてくれることはない。浮いているので部屋も濡れず、たまに水を要求されるが食事をしている様子はない。

 宿題に飽きた私は、ふと彼に訊いてみた。


「そういえば、名前はなんというんですか?」

「ナマエ?」

「例えば、私なら愛穂です」

「マナホ……」


 私は広げたノートに愛穂と書いて見せる。

 彼はそれを覗き込んだが、不思議そうに首を傾げただけった。それからなんだか唸り出す。


「他の人からはなんて呼ばれるんですか?」

「御爺はおいとかおまえと呼ぶ。他の者は水の方って呼ぶことはあるが、名を呼ばれたことはないな」


 困らせる質問をしたつもりはなかったが、水の彼は腕を組んで深く考え込んでいる。

 あまりに唸っているので、私はひとつ提案を持ち掛けた。


「なら考えましょうか?」


 それはそれは私の単なる思い付きだった。でも折角なら水に関する名前がいいだろう。

 そう思って私は思いつくまま、幾つか挙げてみる。


「泉とか? 雫とか清水とか、小川、滝川、流水(ながれ)」


 いくつか挙げてみたが、私に思いつくのはこの程度だ、これ以上は辞書かスマホで検索すれば、もう少し格好良い名前があるかもしれない。

 水の彼は、私が出した名前の一つを繰り返していた。


「ナガレか、うん、いいな、ナガレ」


 どうやら流水が気に入ったようだ。

 私は机の上に広げていたノートに、さらりと漢字で流水と書いた。


「これはなんと書いてあるんだ?」

「え? だから流水だよ」


 私は漢字のすぐ上に、ひらがなで『ながれ』と書き加える。

 しかし彼はそれをしばらく真剣に見ていた後、首を傾げるだけだった。


「ひょっとして、字が書けないの?」


 驚きながら見上げると、彼はまだ私が書いた文字をじっと見つめている。


「字も書けないなんて困るじゃないですか!」

「え? 困る?」


 私は思わず大きな声を出す。

 彼はきょとんとしていたが、私は自分の中の混乱でいっぱいになっていた。

 この人字が書けなくても困らないの?

 多分その時は心配だけではなく、字も知らない学校も勉強も必要ない彼に、私は羨ましさを感じたのだろう。

 様々な思いがごちゃまぜになり、言葉となって飛び出していた。


「仕事や学校とかどうするんですか? 見た感じ勉強だってしてなさそうですし、そんなんじゃまともな仕事もできませんよ。仕事ができなければお金も稼げませんし、そうしなきゃどうやって」


 溢れるままに口に出してしまってから、ようやく我に返り口を噤む。


「それは誰かがマナホに言うの?」


 水の彼はただじっと私を覗き込んでいる。水色の瞳は、なんだか全てを見透かしているように思えて見ていられなかった。

 私はふいと目を逸らし、いつもの言葉を口にする。


「もう、早く山に帰って下さい」


 それはすっかり私の口癖のようになっていた。今となっては、本当に帰って欲しいのかもわからない。

 水の彼はただそこにふわりといて、優しく聞いてくれる。


「いつも思っていた、マナホには言いたいことがあるだろう。もう少し聞かせてくれ」

「なんでもありません」

「聞かせて貰えれば願いにだって出来るかもしれない」


 そう彼が口にした瞬間、私の中で堪えていたものが一気に溢れ出した。


「わかってないのに勝手なこと言わないで!」

「マナホ!」


 いつもは「お嬢さん」なんて呼んだりもするのに、今日は名前を呼ぶ。でも私は呼ばれる度にどうしたらいいのかわからなくなる。

 言いたいこと、願い、夢。

 そんなこと口に出したって無駄なだけなのに。興味ないのに。

 逃げ出したくなって私はスマホを掴んで立ち上がった。


「どこへ行く、マナホ」

「気安く呼ばないで!」

「待ってくれマナホ」


 ほらまた呼んだ。わたしはとにかく部屋の扉を音がするくらいバタンと開けて、勢いのまま階段を一気に降りた。


「ちょっと愛穂どこ行くの?」

「知らない」


 音をさせて階段を降りてきた私に、お母さんが玄関まで出てくる。

 いつもは止めないのに、その日に限ってお母さんは私の側まで来て眉を寄せた。


「やめなさい」

「宿題なら終わったから」

「そうじゃなくて、こんな時間にどこへ行くの」

「五月蝿いな、いつもはそんなこと言わない癖に!」


 私はそう叫ぶと、振り返らずに家を飛び出した。


「愛穂!」


 後ろから誰かの声が聞こえたけれど、無視して小走りに駆ける。


「マナホ、母上はとても心配していたから、家に戻ろう」


 いつもは部屋から出て来ない水の彼が、すぐ後ろを追ってきたのがわかる。こんな時ばかり部屋から出てきた彼にすこしむっとした。

 しかし追ってきてくれる彼に、どこか嬉しさも感じる。

 想いを素直に出すことなど出来なくて、足を止めることなく振り返った。


「なによ、部屋から出られるんだったら早く山にかえ……」


 その時の私は、勢いだけで行動していて、周りさえも見えていなかった。本当は思っていないくせに、心のどこかでそう思うから余計に苛々している。

 本当に、周りは見ていなかった。


「危ない!」


 鋭い叫び声が聞こえた時には、もう衝撃に襲われていた。

 何が起こったかわからない。

 悲鳴をあげる間もなかった。

 空が反転し、そして強く叩きつけられた。

 本当になにが起こったんだろう。何か赤いものが見える? ひょっとして、血が出てるのかな、そうぼんやりと思った。


「愛穂ッ!」


 必死に呼ぶ声が聞こえる。遠くから段々と近づいて来るけれど、どう返事をしたらいいのか全くわからない。


「マナホ、願え!」


 なにを? 必死に叫ぶ声が段々と泣きそうになっていく。それから沢山の声が聞こえる。


「水よ、どうか聞き届けたまえ!」


 なんとなくそう聞こえた気がする。

 それから私は、そのまま暗いところへと沈んでいった。


 白い天井が見える。ゆっくりと瞼を上下していると、泣きそうな顔のお母さんが見えた。

 それからしばらくして私は知った。どうやら事故にあったけど、奇跡的に助かったらしい。

 助かったのは奇跡だった。傷の割には出血が少なかったので、処置が間に合ったと説明された。

 出血が、少なかった? 私はその話を聞いて、暗くなる最後に聞こえた彼の声を思い出した。

 助けて、くれたのかもしれない。

 お母さんは毎日お見舞いに来てくれる。枕元で古い話やよくわからない話を沢山してくれた。あんなに興味なさそうだったのに、なんだか不思議な感じがした。

 どうしても気になったので、私の部屋にある水の入ったペットボトルを持ってきて欲しいと頼んだ。


「いいけれど、あの空のボトルはなんなの?」

「空っぽ? そんな事ない」


 思わず声が出た。ボトルはいつだって水が入っていたし、彼の要望で時々替えていた。飲んだことは一度もない。

 力を使ったから空になったの? 助けてくれたの? じゃあ彼は帰れたのかな。

 どうなっているのか全くわからなかった。ただ彼は姿を消し、事故にあった私は奇跡的に助かった。

 私はそれ以上考えられなくて、頭まで布団を被った。


 奇跡的に助かったといっても、治療とかリハビリにはかなりの日数がかかる。

 退院して本当に久しぶりに自分の部屋に帰ってきた時、部屋はあの日飛び出したままだった。だけど確かに、机に置いてあった天然水のボトルだけは空だ。

 そして彼はどこにもいない。

 捨てることも出来ないそのボトルを見て、彼は帰れたのだと自分に言い聞かせ続けた。


 あれからしばらく、通るたびにあの自動販売機で水を買うのが私の習慣になった。だけどいつだって水の彼は現れない。

 山へ帰れたのか、それもわからない。

 でも、飲み物を買う時は必ずその天然水を買ってしまう。

 水の産地まで旅行に行こうかと思ったこともある。会えるかもわからないし、会ってもなにを話したらいいのか。

 不思議な出会いだった。夢かもしれないと何度も思った。しかしその度に自分で否定する。

 水の彼は夢なんかじゃないと。

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