第21話 エロ触手 VS リッチ(3)

 頭が冷える。


 役目を果たせなかったエロ触手は、「うわー、ごめんなさーい」みたいな顔になりながら、闇溜まりに吸い込まれるように消えてしまった。いくらかのクールタイムを待てば、スキル『エロ触手』を再び起動することは可能である。だが、あまりに相性の悪いやりとりを目にしてしまった今、触手で何をやってもこの状況を打開できるとは到底思えず、ボクは無言で立ち尽くすことしかできない。


 この状況下でボクに何ができるかを考えた時、思い付いたのは先の一手だけであり、白状すれば、もはや打つ手は何もなかった。


 そもそも戦闘に役立たないスキルなのに、本来の使用法である「エロいこと」まで封じられるなんてインチキじゃないか。不死属には肉がなく、神経がなく、一切の感覚がない。快楽も何も感じないようだ。後はもう、ボクが生身で戦うぐらいしかできることはないだろう。


 そして残念ながら、ボクがどれだけ勇気を奮い立たせたとしても、それが無駄な足掻きであることは明らかである。


 他の魔物であれば、可能性はあったのだろうか?


 スキル『エロ触手』はただでさえハズレだと云うのに、人生で初めての命を賭したバトルに、わざわざ天敵をぶつけて来るなんて……。神様はボクのことが大嫌いらしい。ほんの少しの希望に手を伸ばすことも許してくれないのだ。


 頭が冷えて、震えが来る。


 たったひとつ、上手くいくか全然わからない作戦でも、それが支えとなってボクの身体を力強く突き動かしていた。逆転の目を失い、今にも折れそうだ。倒れて、頭を抱えて、何も考えられなくなるぐらいに叫んで、かたく目を閉ざしてしまいたい。


 自分を放り捨ててしまいたい。


 それなのに、果物ナイフを両手で握りしめる。


 みっともないぐらい、ボクはガタガタ震え続けている。


「た、助け……」

 

 云いかけた時、ドンッと。


 背中から。


 リッチは正面、かなり遠くにいる。


 周囲を取り囲むスケルトンやアンデットも、まだまだ手の届く距離ではない。


 それなのに、後ろ?


 まったく予想していなかった方向からの衝撃に、ボクは呆気なく前のめりに倒れて行く。倒れ込みながら身体を捻り、なんとか後ろを確認してみれば――両手を突き出したままのポーズで、ヘラヘラと引き攣った笑い顔の女冒険者。


 どうして?


 ……と、疑問に思ったのは一瞬だけ。


 ボクは、正気を失った人間の顔など見慣れていた。


 ちょっと忘れかけていたけれど、元々、そっち側の人間なのだから。


 十五歳からずっと、大陸で一番の大歓楽街で生きて来た。醜く、汚く、生き難く、だからこそ、道を踏み外した人間には住み良い欲望の街。富や名誉、地位を求める、まっとうな欲望なんて可愛らしいもの。ひたすらくだらないものに自分だけの光を見出して、蛾のように惑う者ばかり。底なしのごみ箱に人生をどれだけ放り捨てられるかで、破滅の一等賞を競い合っているようだった。


 良い人なんていない。


 そんな人間はすぐに街を出るか、死ぬか、悪い人に心変わりするから。


 良い人に見えても、瞳の奥には狂気がうっすら見えているよ。


 裏切りなんて日常茶飯事。


 ボクを突き飛ばした女冒険者の顔も、あの街の住人にそっくりだった。


「ほら! ねえ、こっちだよ、こっち! お、襲うなら今だって……」


 魔物に囲まれた絶体絶命の状況で、唯一の人間同士、互いに助け合うべきと考えられるのは、おそらく良い人である。


 たぶん、ボクも、この女冒険者と似たような所があるのだ。


 手を取り合えるはずの人間を突き飛ばし、魔物の注目を引き寄せて、ほんの少しでも隙を作れれば――自分だけで良いから逃げ出したい、助かりたい、死にたくない、他人なんてどうでも良い、自分だけが、自分だけが、自分だけが……そんな生々しい感情だって、とても簡単に想像できてしまうのだから。


 ……ああ。


 ……まったく、厭になる。


 畜生め。


 ボクは、バカである。


「痛っ……!」


 地面に思いっきり肘を打ち付けるように倒れ込みながら、ボクはそのまま顔もぶつけてしまい、じんわり口の中に血と砂の味が広がっていく。苦々しい。悔しい。手足に怪我をしたわけではないけれど、思った以上に心にダメージが来たので、すぐに立ち上がれない自分がとても情けなかった。


 頭の中がグラグラと揺れている。


 夜……、


 裏切り……、


 独りぼっち……、


 ああ、寒い、暗い、痛い、痛い、死ぬ、死ぬのか、死ぬと思う、死んじゃう、死にたくない、でも死ぬ、たぶん死ぬ、絶対に死ぬ、死ぬ、死ぬ、死ぬ……。ダメだ。死にたくない。死ねない。ここで死ぬなんて、バカだ。ここで死んだら、女モンクに殴り殺される。だから、ボクは思い出す。必死に。光を。朝の柔らかな日差しを思い出す、昼の突き刺すような日差しを思い出す。仲間たちとの旅路を、今日の一日を、何でもない日常を、鮮やかに色濃く思い出す。ボクは独りじゃなかった。笑って、ふざけて、小突き合って、真面目な顔して、それでも冗談を云って、明日の予定を話し合い、いつかの未来を語り合い――。


 パーティーの仲間たちと共に過ごす日々で、ボクはいつの間にか人の醜さも、愚かさも、弱さも、あっさり見過ごすようになっていたらしい。こんな場面で他人の裏切りを想像もしない自分と、裏切ろうという発想に一切至らなかった自分。ああ、まったく……本当に、バカだなぁと思う。


 女冒険者の悲鳴が聞こえる。


 ボクを犠牲にしてでも、彼女は助かりたいと願った。


 魂から絞り出すような人のドス黒い感情を、狡猾で嫌らしいリッチが見過ごすものかよ。


 生きたいと必死になっている人間の方から狙いを定めて、さらに絶望の底に叩き落としてやろうという遊び心が透けて見える。リッチの配下であるスケルトンたちは、倒れているボクのことはまったく無視して、女冒険者を完全に取り囲んでいた。もはや、時間の問題だろう。ボクはなんとか立ち上がろうと踏ん張るけれど――。


 リッチが、目の前にやって来る。


「あ……」


 骸骨の指先には、濃密な魔力の灯が揺れていた。


 膝を着いて立ち上がろうとしている最中のボクは、まったくの無防備。


 間に合わない。避けられない。


 どうしようもない。


 女冒険者は、スケルトンたちで弄ぶつもりで――。


 ボクのことは、リッチ自らの手で地獄に落としてくれるようで――。


「や、やめて……」


 泣きそうな声を出すと、髑髏の奥底にある揺らめく赤の瞳が、ひたすら楽しそうに燃え上がった。


 そして、魔法が放たれる。


 それは、まっすぐに容赦なく、ボクの額から頭の中へ入り込んで来た。

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