4

 夏の虫が鳴いている声がする。風呂上がりの僕は、宿の浴衣に袖を通し、首にタオルを引っ掛けて、宿の縁側を歩いていた。脱いだ着替えを腕に抱え、借りている客室に向かう。

 外はすっかり暗くなっており、空には薄く星が浮かんでいた。汗ばむような蒸し暑さが残っているが、夜風が吹くと涼しくて気持ちいい。

 それなりに広い浴場をひとりで使わせてもらって、旅先ならではの贅沢を味わった。おかげで胸の中に燻っていた不快感も、今では少しすっきりしている。

 しかしこの宿のすぐ隣にウツワ様の祠があると思うと、寝つけそうにない。


 そして、部屋にあったあの竹筒が、引っかかって仕方ない。あれはどう見ても、呪いの竹人形だ。先生が大家さんから買った、あれと同じだ。

 どうしてあれが、またここにある? 同じものだとしたら、中に目玉が入っているのか? 想像するだけで気味が悪くて、部屋に戻りたくない。

 いや、僕が知らないだけで、似ている工芸品はどこにでもあるものなのかもしれないが……。


 部屋に戻る前に、先生に連絡を入れて相談しようかと考える。しかしスマホは客室に置いてきてしまった。いずれにせよ、よく考えたら電波が入らなくてスマホは使えない。

 宿は電気こそ通っているが、充電器がない。スマホを充電できないのも、なんとなく僕を不安にさせる。


 夜の中庭は、静かで涼しかった。僕は部屋に戻る決心がつくまで、少しここで涼むことにした。板に座って、空を見上げる。山の中だから、星がきれいに見える。

 そこへ、野太い声が後ろから聞こえた。


「よう、お客さん」


「わあっ」


 振り向くと、ガタイのいい男性が徳利と盆に載せたお猪口を持って立っていた。夕食時にいた人のひとりだと思うが、たくさんいたので細かくは覚えていない。

 集まっていた村人たちとは、宿の風呂へ向かったタイミングで別れて、それきりだった。しかしこの人はまだ宿に残っていたのだ。


「びっくりした。この宿で働いてるんですか?」


「いや? 俺は農家をやりながら林を整備しとるけ」


「あれ。じゃあ家に帰らずにここにいらっしゃるのは?」


 不思議がる僕に、男性はにこりと目を細めた。


「観光客は珍しいけえ。サシ飲みして話しとう思ってな」


 そう言って彼は徳利を掲げた。


「おめえさん、夕餉の席で酒を飲まなかっただろう」


「すみません……運転するつもりだったので、残るといけないなと思って」


 飲んだふりだけして飲んでいなかったのがばれていた。僕が素直に謝ると、男性は僕の隣に腰を下ろした。


「連れのお姉ちゃんも、まさか飲んでなかったべか?」


「いや、あの人は飲んでましたよ。見てたでしょう?」


「そうだけえが……まあ、そうじゃの」


 歯切れの悪い返事をし、男性は話の舵を切った。


「おめえさん、夕餉の席からずっと、あんま楽しそうじゃねえべな。酒を飲まんからじゃ。飲んだら浮世の嫌なことなんか皆忘れちまうべ」


 とくとくとく、と、お猪口に酒が注がれる。


「この酒は残らん、悪酔いもせん。安心して飲め」


「ありがとうございます」


 僕はひとまずお酌を受け取るだけ受け取り、そのまま膝に手を置いた。

 しばし月を見上げ、僕は男性に問いかけた。


「あの……部屋に竹の人形があったんですけど、あれはなんですか?」


「あれはこの村の民芸品の竹人形だべ。土産じゃ、持っていってくれ」


 男性はにこっと明るく笑った。


「不気味じゃろ? 呪いの村のお土産じゃけん、多少気味が悪いくらいのほうが雰囲気あるけえ。もっと欲しかったら、明日職人のところへ連れて行ってやんべ」


「ははは……考えておきます」


 僕は愛想笑いを返す。この村のお土産と呪いの竹人形とが、偶然似ていただけ――偶然にしても気持ちが悪い。

 男性が僕を横目に見ている。


「あの連れのお姉ちゃんとは他人と言うとったけえが、本当にか? あんないい女とこんな辺鄙なところさ来よっておいて、本当になにもないべか」


「先生はそういうんじゃないんで」


 こういう絡まれ方は、いい気分がしない。男と女という雑な枠組みで判断されているような気持ちになる。僕と先生は、男女である以前に、人間と人間だ。

 僕にとって先生は、対等に交際できる相手でない。憧れのその先の、神様のような存在なのだ。正直に言えば、時々はドキッとするときもあるけれど、自分の立場は弁えている。余計な感情を持ってしまったら、今のような関係を続けられなくなる。

 再び小説を描くためには、先生とは今の距離を保ち続けなければならない。

 事情を知らない男性は、カーッと頭を抱えた。


「おめえさん、それでも男か! 情けない」


「そういうの今時古いですよ」


「ここは時間ば止まった田舎じゃけえ」


 僕は内心、面倒になってきていた。静かに夜風で涼みたかったのに、暑苦しい人に絡まれてうんざりである。

 男性は胡座を組み、虚空を見上げた。


「まあ、どっちでもええがじゃ。しっかり寝ても遅くまで起きてても」

 

 そして僕の顔を覗き込んでくる。


「で、酒は飲まんのか?」


「えっ……」


「なんで飲まねえ? 今夜をどう過ごしてもええがのう、酒を飲まんのはあかん」


 しかしそう言いながらも、この人だって飲んでいない。目を泳がせる僕に、男性は目を見開いてもう一度言った。


「なぜ、酒を飲まない?」


 男性の気迫に押され、僕はお猪口を口元に運んだ。翌日に残らないらしいし、ひと口だけなら大丈夫かもしれない。

 しかしお猪口を顔に寄せると、日本酒の強い匂いがダイレクトに鼻孔を襲い、飲み慣れない僕は勢いよく噎せた。

 肩を弾ませたせいで手元が揺らぎ、お猪口がひっくり返る。お酒は中庭の地面に零れてしまった。


「ごめんなさい。えっと、僕もう寝ます」


 僕はお猪口を盆に置いて、部屋に引き返した。やはり明日は車に乗るのだし、強要されたからといってお酒を飲むわけにはいかない。そもそも日本酒は飲み慣れないし、あの人とサシ飲みしたいとも思わない。


 駆け足で客室に戻って、戸をぴしゃっと閉める。先程の男性が部屋までついてきたら嫌だ。

 客室に逃げ込んでひと安心したところで、僕は目を疑った。畳に先生がごろ寝している。


「あれっ? すみません、部屋を間違えました」


「間違えてない。ここは小鳩くんの部屋だ。私が遊びに来ている」


 先生は寝転がりながら、ノートになにやら書き物をしていた。自分の荷物も、ちゃっかり持ってきている。

 僕と同じく風呂上がりの先生は、同じ浴衣を着て、少し湿った髪を首の後ろで纏めていた。温かいお湯から上がったばかりの頬は、少し火照っている。改めて、すっぴんでも美人だなあなどと僕は余計なことを思った。

 先生がこちらに目線だけ向けてくる。


「バイト先には連絡はついたか?」


「いえ。スマホは圏外だし、ここ、電話線が通ってないらしいです」


 宿の女将さん曰く、この村は電話が繋がらないらしい。明日のバイト先の店長に休みの連絡を入れるつもりだったのに、連絡手段がなかった。店に迷惑をかけてしまうし、めちゃくちゃ叱られるだろうという憂鬱で、気が重い。


「ははは。それは残念だったな。だが反省は叱られてからすればいい。今は面倒事は忘れて、ゆっくり休もう」


 先生は清々しいくらいに開き直って、畳に頬をつけた。少しはだけた浴衣から肌が覗く。この人は時々、心配になるくらい無防備だ。


「あの……先生。今夜、本当にこの宿に泊まるんですか?」


 僕は先生の横に敷かれた布団に腰を下ろした。枕の横に置いた鞄の傍に、畳んだ服を寄り添わせておく。


「なんかこの村、おかしくないですか? 呪い云々はあくまでエンタメとして利用してるだけ……と言いつつも、なんか……上手く言えないんですけど、なんか変です」


 呪いの悲劇を風化させないことが、残された人の役目。その考えは、分からなくもない。

 しかしそれを差し引いても、どこかピントがズレているのだ。観光客を囲って、やけに酒を飲ませようとして、距離の詰め方もおかしくて。


「しかも部屋に、竹人形がある。これ、偶然同じ民芸品を作ってるにしても気持ち悪いです」


 僕はちらと、座卓の竹人形を一瞥した。今すぐ帰りたい。こんな奇妙な場所にいたくない。今からでも帰れば、ついでにバイトもなんとかなる。

 しかし先生は、軽やかに笑いとばした。


「小鳩くんは臆病だもんな。この村の異様な空気を怖がるのも分かるよ。しかし私からすれば、こんな面白い場所はない。君には存分に怯えてもらおう」


「最低……」


 そうだった。先生は、僕が恐怖する様子を観察したいのだった。それが僕がこの人に雇われている所以だ。

 先生の笑みに、にまっと意地悪な色が差す。


「まあまあ、そんなに怖いなら、私がひと晩一緒にいてやる。さあ、私の胸に飛び込んでおいで」


「ちょっともう……そういう冗談やめてください。泊まるなら泊まるで腹を括るんで、先生も部屋に寝に戻ってください」


「なにを言う。寝ないよ。合宿の夜は夜更かししてなんぼだろう?」


 先生はペンを止めて僕を見上げた。


「君と語らうために、鞄も部屋から持ってきたんだ。しかと付き合ってもらうよ」


 僕の目が、先生のノートに落ちる。そこにびっしりと書き込まれた文字の羅列。『ハネキリ』のあれこれだ。


「今日聞いた『ハネキリ』の話を纏めているんだ。ホラーが苦手な君がどう感じたか、聞かせてもらいたい」


 つい先生の肌に目が行っていたが、彼女の言葉で僕は我に返った。

 旅行といえど、先生にとってはこれも仕事だ。そして僕は、先生に恐怖を教えるアシスタントだ。今日は単なる慰安旅行ではない。


「『ハネキリ』は村に根付いたウツワ様信仰が基礎にある呪いだった。ウツワ様は、人々の祈り、すなわち強い感情の肥溜めだ。そこから力を借りるというのが、『ハネキリ』の考え方」


 先生は今日聞いた話をノートに記録して、考察していた。

 僕の今夜の仕事は、『ハネキリ』について先生と語り明かし、その謎を深掘りすることなのだ。


「ウツワ様になる者の条件はふたつ。子供を産んでいない、かつ村の男六人以上とまぐわった者。これは見ようによっては、年頃の女を複数人で強姦する口実だったとも取れるな」


「う……考えるだけで気色悪い」


 僕は思わず口を覆った。閉鎖的な村社会の陋習だ。襲われた女性たちは、誰にも助けを求められず辱められた上に殺されて、剥製にされた。

 先生は淡々と、ノートを読み返している。


「ウツワ様の条件がこれである一方で、呪いの材料には子供を使う」


「そういえばそうですね。なにか意図がありそう」


 僕は布団の上で膝を抱えた。先生が『ハネキリ』を真似しようとしたとき、害虫駆除に使おうとしていたのを思い出す。


「『ハネキリ』は、一族を滅ぼす呪いでしたよね。もしかして、子孫を残せなくするという意味合いで、性と子供を絡めてるんでしょうか」


「そんな気がするな」


 呪術は意味が分からなくても恐ろしいが、理由を読み解いていくと、考案する人間の思考が透けて見えてきて、それはそれで不気味だ。僕はひと呼吸おいて、先生に訊いた。


「鳥の死骸を使うのは、なぜでしょうか?」


「多分、鶏を使った儀式が根っこにあるんだろうな。昔は水死体を発見するために鶏を使っていたという。そこから、鳥は地上と水中のふたつの世界の仲介者として見做す民間伝承があるんだ」


「水中……ですか」


 僕は鞄に手を伸ばし、中から畳んだ地図を取り出した。この村に向かう車内で見ていたものだ。かなり簡素化された地図だが、概ねの地名と大きな道路は記されている。

 地図の中では、この村がある山から川が流れていた。ダムがあったくらいだから、大きな水源があるのは間違いない。

 その川を、下流に向かってなぞっていくと、川からやや逸れた位置に、見覚えのある地名に目が止まった。


「鴉川……」


 先生のサイン会があった、鴉川市だ。先生が真顔でふうんと鼻を鳴らす。


「この地名から察するに、鴉川市は川を埋め立てて作った町だろうな」


 どくんと、心臓が大きく脈打った。

 地上と水中の仲介者。川。顔をくり抜かれた子供。

 繋がってしまった。


 村で顔をくり抜かれて死んだ子供は、川に捨てられた。そしてその亡骸が流れ着く先は、現在の鴉川市の座標。

 そして僕らは鴉川で謎の場所に迷い込み、麻袋を着た、顔と腕のない子供に出会った。


「う……あっ……うぐっ」


 僕は胃の中身を全部吐きそうになった。

 サイン会の日の夜に見たものは、僕の悪夢ではなかった。あれは、この村で悲惨な死に方をした子供のなれ果てだ。「ちょうだい」と強請っていたのは、きっと、生前見ていた僅かな水だ。

 顔をくり貫かれた子供たちは、怪異となって、成仏できずにいる。


 先生も、遺棄された子供が辿ったルートを想像したのだろう。地図を静かに見つめたのち、ノートになにか書き込んだ。


「いい表情だね、小鳩くん。君のそういう反応を見ると、制作意欲が増すよ」


 この悍ましさも、先生は感情移入しすぎずに受け止めている。僕もそうしなくてはと思うのに、恐怖やら嫌悪感やらが自分の内側で綯い交ぜになって、体じゅうに虫酸が走る。

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