5
「さて、もうひとつ気になる点がある。ウツワ様の入れ替えについてだ」
先生はペンを片手に提起した。
「ウツワ様は依代を入れ替える。新しいウツワ様に変わるとき、前任のウツワ様は、どこへ行くのか」
「そういえばそうですね。遺体ですし、普通に供養してたんじゃ?」
「『普通に』? 呪いのために女と子供を殺していた村の『普通』が、供養なわけないだろう」
先生があっさりと言う。それもそうだ。では、異常な村の風習という前提で、もう一度考える。かつての、神様はどうなるのか。
御神体とされた女性の剥製を、単に燃やしたり埋めたりはしないとしたら。そこに残る祈り――もとい呪いを、余すことなく使うとしたら。
ふと、僕の視線は、座卓の竹人形に動いた。先生も、同じ方に目をやる。
『剥製』。そして『呪いを風化させない』。
心臓が早鐘を打っている。自分の中にも漠然とあった、パズルのピースが重なってくる。
乾燥した人間の遺体、忘れられないように呪いを残す。部屋に置かれた“お土産”。
先生はゆっくり体を起こすと、座卓から竹人形を手に取った。そして竹の縁にできた割れ目に、ペン先を突き立てる。
先生がペンの頭に手を叩きつけると、割れ目が裂けた。人形の顔に一本の筋が通り、竹がきれいに割れる。
同時に中からゴロッと、五センチ程度の肉片が零れ出た。
「ひっ……!」
僕は声にならない悲鳴を上げ、座ったまま身動ぎした。畳に落ちたものは、干からびた指だ。黒くなった爪と乾いた切り口が、生々しい。
先生が冷めた目でそれを見下ろしている。
「前任のウツワ様は、ここだ」
使い古しのウツワ様、つまり女性の剥製は、小さく刻まれて竹の筒に封入される。そしてその竹は竹人形としてお土産物顔で他所者の手へと預けられる。
村で生まれた「強い感情の肥溜め」の断片は、村の外へと伝搬し、その影響範囲を広げ続ける。
「……あの竹人形の発祥も、ここだったんですね」
「広く伝搬させるために、ここで作って他所の観光地に出荷している可能性もあるな」
畳に横たわる枯れた指を、先生は冷たい目で見つめている。
僕はしばし俯き、言った。
「桧渡さんが、言ってました。呪物には、『呪殺』自体が目的ではなく、『呪いの拡散』を目的としているものがある、って」
呪いを人から人へ渡らせることで、呪力の通り道を作る。
「『呪いを風化させない』というのは、言い換えれば、『呪いを残し続ける』……村がなくなっても、ウツワ様を外へ広げて残そうとしてるんだ」
「呪術書を寺に預けていたのも、納得がいくな。文化財として外部に保管を任せておけば、万が一村人が全滅しても、データを後世に残しておける」
先生も頷く。こんな理由があったなら、呪術書なんか、濡らして破くだけではなくて、燃やしてしまえばよかった。
僕はふうと、ひとつ息を整えた。
「でも、村の人たちは信仰が残っているような演出で観光客を楽しませているだけで、洪水以降は新しいウツワ様を作ってない。それなら古いウツワ様を処理する機会はないわけで、竹人形も新たには作られてないはずじゃ?」
「そのはず、だけど」
先生は寝転り、深く息を抜いた。ペンがノートの上を滑る音がする。やがて先生はノートを掲げ、書いたページを僕に見せた。
『祠の格子の中に見えたウツワ様には、ピアスの痕があった』
ぞくっと、背すじがあわだった。ピアスの痕、ただそれだけの報告が、漠然とした恐怖となって僕を襲う。
ウツワ様は、観光客向けのレプリカのはず。それなら、それっぽい雰囲気の女性像で作るほうが自然だ。ただの人形なら、わざわざピアスの穴を作る理由が思い浮かばない。
実際にピアスを開けていた女性の本物の剥製なら、ともかく。
青ざめる僕を一瞥し、先生は余裕の笑みで、再びノートに文字を書いた。
『祠の斜め前からの角度は、ピアスの痕がいちばんよく見える位置だった』
それを見られたら、先生のように勘づく人もいる。村にとっては不都合な事実のはずなのに、村は「祠の正面に立ってはいけない」なんて意味不明なルールを優先していた。
ピアスの痕に気づかれても、構わないのだろう。写真を撮るのも、詳細を聞くのも、自由だ。
当時のままのウツワ様信仰は、そのまま残っていると仮定して。その証拠を記録しても構わないというのは、つまり。
僕らを村の外へ帰すつもりはない、と。
僕は室内を見回した。僕と先生以外に、人が隠れている様子はない。隠れられる場所がない。だが、宿のスタッフでもないのにあの男性がここに残っていたのを考えると、どこかで聞き耳を立てている可能性がある。
僕は先生の手からペンを借り、ノートに書き込んだ。
『帰りましょう』
村人の言動は演技だ、呪いはコンテンツだ……そう言われても、そうだと信じ切れる証拠がない。安全装置がないジェットコースターは、楽しめないのと同じだ。
先生は僕を見上げ、ニッと目を細めた。
「こんなに面白いのにか? 勿体ない。まあ自分ひとりで部屋にいるとろくなことにならない気がしたから、君の部屋に荷物ごと来たわけだが」
「そう思ってるなら、もう少し危機感ありそうな態度でいてくださいよ」
ウツワ様の候補になるとしたら、先生だ。それは絶対に嫌だ。なにがなんでも、自分が犠牲になったとしても、この人だけは助からなくてはいけない。
僕はわたわたと着替えと鞄を引き寄せ、先生の腕を掴んだ。先生は僕に引きずられるようにして、気だるげに体を起こした。
「急に立たせないでくれ。飲みすぎた上に風呂で温まったせいで、頭がガンガンするんだ」
「言ってる場合ですか! ほら、鞄持って」
「勿体ないなあ。こんなに愉快な村はなかなかないぞ? もう少しだけ、もう少ーしだけ、この先どうなるのか確認してからにしないか?」
「手遅れになります。先生にもしものことがあって原稿が間に合わなかったら、椋田さんブチ切れますよ!」
僕は先生を引っ張り、部屋の戸を開けた。そして開けるなり、真正面の廊下に立っていた男が目に飛び込んできた。
「うわあっ!」
思わず半歩後ずさる。立っていたのは、坊主頭の青年だった。先生が祠を見ていたときに、僕に話しかけてきた人だ。隠れて聞き耳を立てるどころか、部屋の真ん前で構えていたのだ。
彼は平らな顔でにっこり笑っていた。
「そんなに慌てて、どこ行くべ?」
「あ……その、夜の村を散歩しようかなと思って」
心臓がばくばく音を立てる。大丈夫だ、ウツワ様の真相や、逃げようと考えていることは、ノートの中でしか話していない。聞かれていないはずだ。
青年は、戸の前から退かない。
「散歩。なら、ええがな。さっきの、村の掟に背いた男女の話、覚えとるか?」
そして、彼は僕の耳元で囁いた。
「その男女はのう。女は男に谷底へ落とされて死に、男は村に連れ戻されて、翌日八つ裂きにされたむくろで見つかったべ」
汗が、額を伝う。青年の貼りつけたような笑顔が、目の前から動かない。
「どこに行っても村からは逃げ切れないと気づいた男は、吊り橋から飛び降りて、女と共に死のうとしたがじゃ。でも自分は死にきれず村に戻り、その後、掟を破った罪で結局死んだ。村から逃げようなんてしなければ、そんな目には遭わんかったに」
無意識に、呼吸が速くなった。
やっぱり、ここにいたらだめだ。
僕は先生の手を引き、青年の脇を通り抜けようとした。しかし青年はすぐさま行く手を阻む。
「どうしてそんなに怯えた顔をするだ? これはパフォーマンスだべ。演出ださ。真に受けないで、楽しんでおくれ」
変な汗が滲む。笑顔のまま表情が変わらないこの青年は、まるでお面が貼りついているみたいで、気味が悪い。
と、そのときだ。先生が突然、青年の腹に拳を叩き込んだ。
青年が後ろに吹っ飛ぶ。僕は口を半開きにして固まった。先生は不機嫌丸出しの顔で、自身の拳を叩いている。
「ごちゃごちゃうるせえ。私は今、酒で頭が痛くて機嫌が悪い」
どうしてこの人は、こうも躊躇なく他人に腹パンを食らわせられるのだろう。
青年が泡を吹いている。先生は痛む頭を抱えて唸った。
「ああー、痛え。頭ズキズキする。あの酒、きつい酔い方すんな」
殴られた人が心配ではあるが、構っている余裕はない。今のうちに車まで走って村から脱出しよう。
「行きましょう、先生」
僕は先生の手を引いて、宿の玄関に向かって廊下を駆け出した。
廊下では誰ともすれ違わない。酒を勧めてきた男や先程の青年みたいに、どこかで監視されているかと警戒したのだが、泡を吹く青年以外に、村人は出てこない。
廊下を真っ直ぐ進んで、宴会場の戸を横目に通り過ぎ、誰もいない玄関へと到達する。僕は震える手で荷物を抱き寄せ、反対の手で先生の手首を握りしめた。先生は頭が痛むらしく、眉を寄せて下を向いている。
音を立てないように、玄関を開ける。カラ、という微かな音にびくっとしつつ、僕は外へと踏み出した。
誰もいない。道も畑も、人の影はない。
「先生、大丈夫ですか。走れますか?」
声を潜めて訊くと、先生はため息を混じりに返した。
「心配ない。飲みすぎただけだ」
僕は周囲を見回して、車を停めた場所へと駆け足した。着慣れない浴衣を着て走ると、足元が縺れる。
星が僕らを見下ろしている。ナイフみたいな細い月は、どこまで逃げても追いかけてくるように見えた。
静かだ。虫の声と、僕たちの息遣いしか聞こえない。村の人は寝静まるのが早いのか、建物はどれも明かりが消えている。おかげで真っ暗だ。
先生は先程から喋らない。相当悪酔いしているのか、時々よろめいている。お酒に強い先生がこんな酔い方をするなんて、やはりなにかがおかしい。
数メートル先に、ぼやりと光が見えた。
「あそこは……駐車場ですね。もうすぐ出られる」
駐車場のある辺りにだけ、ランプがあるようだ。オレンジ色の光が、横並びに伸びている。村の出入り口だから、獣が入ってこないように明るくしているのかもしれない。
僕は砂利道を走る足を速めた。先生の車まで、あと少しだ。
と、車まであと十メートルのまで来たところで、僕は立ち止まった。
あの光は、獣避けではない。光がめらっと揺れる。その輝きに照らされて、僕の目に見えたのは。
「どこへ行くべ?」
燃えるランプを持って立つ、村の人たちだった。ランプに照らされたおばあさんの顔は、貼りつけたような笑顔だ。
立ち尽くす僕は、どれだけ絶望の顔をしていただろうか。
「まさか、帰ろうとなんてしてねえべな?」
村人たちは皆、にっこりと笑っている。
「こっちは飯をご馳走しとるのに、黙って帰ろうなんて、まさかな?」
「……通してください」
僕は掠れた声で訴えた。おばあさんの横で、村人の男が言う。
「これはパフォーマンスだじゃ。そんな怯えた顔せんと、楽しんでくれ」
「おめえさんは酒を飲んでねえ。酒を飲まないから楽しめてねえだや」
「なぜ酒を飲まない?」
彼らは口々に、好き勝手に喋りだした。
「祟りに遭うべ」
「これはパフォーマンスじゃ」
「タダ飯喰らいの無礼者」
「なぜ動ける?」
「酒を飲んでないからじゃ」
「ウツワ様の祟り」
炎が揺れる。いつの間にか僕は、かたかたと体を震わせていた。
異常だ。これがパフォーマンスなわけがない。
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