6

 僕はおずおずと片手を上げた。


「あの……悪霊祓いの相談、僕もいいですか?」


 謝罪に来たのについでに相談というのも厚かましいかもしれないが、せずにはいられなかった。


「呪術書を破ってしまった日から、夜中に部屋の床に人の手が落ちてくるようになったんです。気がつくと消えてるけど……」


 普通なら、先生のお父さんのように医者に行くのが先だろう。椋田さんからも勧められた。しかし、もしもこれが怪奇現象だとしたら、この住職なら解決してくれるかもしれない。

 桧渡さんは柔和な表情を少し固くして、真剣に僕の話を聞いてくれた。


「人の手が?」


「はい。少なくともここ二日連続で、夜中にベチャッと。呪術書を破ったことに関係してると思うんですが、これ、先生の部屋で起こっていた怪奇現象らしくて。先生は見てないんですけど、前の住人がそう言ってるそうです」


「ふむ……呪術書はあくまで、『ハネキリ』のいろはを書いたものであり、書物自体に呪力はないはず。書物に傷をつけたことが、直接関わっているとは考えにくい」


 桧渡さんは難しい顔で顎を撫でた。


「やはり月日星さんの部屋で発生していた、という点が気になりますね」


「先生の部屋から僕の部屋に、怪奇現象が移動したということでしょうか。だとしたら、どうして?」


 呪術書が関係ないとしたら、別のところにきっかけがあったというわけだ。しかし心当たりがない。

 桧渡さんは、少し言いにくそうに、それでいてはっきりと訊ねた。


「失礼ながら、月日星さんの部屋から、なにか物を持ち出したりしましたか?」


「物を? 持ち出す?」


「霊、呪い、執念……そういったものは、物体や言霊を介して、伝播するものです」


 桧渡さんのまったりした声は、どことなく緊張を孕んで聞こえた。


「昔からあるでしょう。不幸の手紙や、呪いのビデオ。『悪いもの』は自身の支配範囲を広げるために、人や物を利用するのです」


 言われてみればたしかに、この手の話はホラーの鉄板だ。人形や建物、映像など様々な媒体に怪奇現象が宿り、それを人が他の人へと回していくうちに、被害の範囲が拡大するのである。先程の桧渡さんも、「人に話すと霊の行動範囲を広げてしまう」と言っていた。言葉も、霊の通り道になるらしい。

 僕は考えを巡らせてみたが、先生の部屋から物を持ち出してはない。


「たまに部屋に出入りはしますが、物を盗んではいません」


 先生も、一緒に考えている。


「酒は出したけどそれが媒介するとは思えないし。私からあげたものも特に思い当たらないな」


「先生から貰ったもの……あっ!」


 ここで僕は、自分の鞄に目を落とした。


「写真! 先生から写真を貰いました」


 修理したカメラが帰ってきた日。先生はカメラの調子をチェックするために、アパートの周りの写真を撮っていた。その中の一枚が気に入った僕に、彼女は他の写真も丸ごと僕に手渡している。

 あのあと僕は、貰った写真を鞄の中の滅多に開けないポケットに入れてしまい、そのまますっかり忘れていた。

 先生が首を傾げる。


「写真……って、カメラが壊れて真っ黒になって、なんも撮れなかった写真だろう。それだったら撮ったのは山の中だし、君に渡したのも部屋の外だ。しかも外で印刷してるから、部屋には一度も入れてない」


 たしかに、部屋から持ち出したものではない。では違うか、と考え直そうとしたが、そんな僕に桧渡さんは神妙な顔で訊ねてきた。


「その写真、今、お手元にありますか?」


「あります。鞄から出してなかった」


 僕は鞄を開け、写真店の封筒に入ったままの写真を取り出した。中身をぱらぱらと確認して、そして目に入ったものに悲鳴を上げた。


「うわあああ!」


 同時に写真を座卓にばらまいてしまい、先生も椋田さんも桧渡さんも、ぎょっと身構えた。先生にも、怪訝な顔をされる。


「うおっ、どうした小鳩くん」


 僕は座ったまま腰を抜かしていた。


「しゃ、写真……先生の部屋の写真に……」


 全員が、座卓の上の写真に視線を動かした。

 アパートの外廊下から見える夕焼け空と、周辺の町並み。そんな写真の中に、先生が撮った、部屋の中の写真がある。開いた扉の向こうに、キッチン越しのリビングが写った、少し傾いた写真だ。

 この写真の奥のほう。夕日が差し込むリビングに、奇妙なものが写っている。


 逆光を背負った、大柄な男のシルエットだ。右手に糸鋸を握り、自身の左手は手首に宛てている。否、その左手は、手首から先がない。


「先生の部屋……手首を切り落として自殺した男がいたって話でしたよね」


 直感した。これは先生の部屋のずっと前の住人――自らの腕を断って死んだ男だ。

 この男は死んでからずっと、夜中にあの部屋で自身の手を切り落とし続けていた。新しい住人たちは、夜中に目を覚ますとその光景に出くわしてしまう。僕も、まさに先生の部屋に泊まった夜、落ちてくる手を目撃している。

 桧渡さんが眉を寄せる。


「間違いないでしょう。この男は、こうして写真に写り込み、写真が男を部屋から連れ出した。写真とともに、あなたの部屋に入り込んだのですね」


 桧渡さんは柔らかい顔をすっかり引っ込めて、深刻な面持ちになっていた。椋田さんは青い顔で絶句し、僕はもう、恐怖で気を失いそうだった。全部気のせいだったらよかったのに。

 しかし先生だけは、頬を高潮させて瞳に星を輝かせていた。


「すっごーい! 本物だ! 本物の心霊写真だー!」


 恐怖に鈍感な先生にとっては、これも好奇心を擽る楽しいアイテムなのだ。


「自分で写真をチェックしたときには、山で撮ったものしかろくに見なかったから気がつかなかった。こんな素晴らしいものが身近にあっただなんて。霊が写真を使って行動範囲を広げている、その実例がここに!」


 先生が座卓から写真を拾おうとする。が、桧渡さんがそれより素早く写真を奪った。


「今すぐ本堂で供養しますよ」


「供養!? お祓い!? 見学させてくれ!」


 足早に部屋を出ていく桧渡さんと、それについていく先生。ふたりの後ろ姿が、襖の向こうに消える。

 残された僕と椋田さんは、しばし呆然としていた。数秒の沈黙ののち、椋田さんがぽつりと言う。


「あの人、どこまでもパワフルだな」


 自分の居室にあんな気味の悪い男の霊がいると分かっていながら、よくあんなにはしゃげるものだ。

 椋田さんが僕に向き直った。


「写真が原因で小鳩先生の部屋に霊が現れたんだとしたら、呪術書を破るより前からずっといたってことですよね」


「そうなりますね……熟睡してたから気がつかなかっただけで、前からいたんだ。怖すぎる」


 真横で男の霊が手首を落としているというのに、僕は呑気に寝ていたと。状況を想像するとぞわっとする。

 先生は一度も霊を見ていないそうだが、彼女も僕と同じく、ぐっすり眠っていたのだろう。いや、先生は夜通し原稿を書いていると話していた。そう考えるとやはり、先生ばかりが霊を見ていないのは不自然だ。


 先生の前にはどうして、霊が現れなかったんだろう。

 先生は『脅かしがいのある奴の前にしか出ないから』と考えていたが、本当にそうだろうか。入れ代わり立ち代わる前の住人たちも見ているなら、特殊なのは僕ではなくて先生のほうだ。振り返ってみれば、先生の前には吊橋の女も現れなかった。なにか理由がある気がする。


 先生の無敵ぶりも気になるが、僕はもうひとつ、衝撃を引きずっている件があった。

 先生たちが消えた襖の向こうを見つめ、椋田さんに訊ねる。


「先生が幼馴染を亡くされて、しかもその遺体を見たなんて、知ってました?」


 先生が席を外した機会に、先程の話を蒸し返す。先生はあんなにあっさりと話したけれど、本心では、そんなに軽く捉えていないはずだ。

 思春期の多感な時期に、幼馴染の遺体を発見した。それがどれだけ、先生の心に深い傷を負わせたか。

 椋田さんは、声のトーンを落として答えた。


「私も初めて聞きました。まあ……こんなきっかけでもないと話しませんよね」


 先生がホラーを描いているのは、もしかしてそれとなにか関係があるのだろうか。創作に打ち込みはじめた時期がちょうどその頃なのを鑑みると、きっと無関係ではないのだろう。

 生と死それぞれの世界を描くことで、彼女の中に押し込めた感情を昇華させているのだろうか。考えたところで、先生の口から聞かなければ憶測に過ぎない。

 椋田さんは、ひとつ呼吸を置いて言った。


「しかし……先生がweb上に載せていた作品を書籍化しようという企画が持ち上がった際、『自分の作品ではない』と言い出して、権利関係の確認があったのを覚えています」


「え、そうだったんですか」


「アップされた作品は、もう描いていない友人の作品だったと話していました。でもwebに載せる元になっているノートの文字は先生の筆跡だし、その友人とやらと相談している様子もないしで、ちょっと社内で話題になったんです」


 もしかして、その友人というのが、亡くなった幼馴染だったのだろうか。僕には想像しかできない。


「どんな幼馴染だったのかな……」


 蝉の声が部屋を満たしている。透き通った冷茶の緑が、やけに眩しく見えた。

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