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「先生も使ったほうがいいですよ、お清めスプレー」
後日。僕は先生に頼まれたお使いの書類とともに、桧渡さんから貰ったスプレーボトルを持って先生の部屋を訪れた。
玄関先の先生は、興味なさげな顔をする。
「お清めスプレーって、あの寺の祈祷を受けた塩が入ってるとかいう奴か」
「はい。これを部屋に撒いてから、手が降ってこなくなったんです」
あのあと写真は燃やされて灰になり、その灰も寺で丁寧に処理された。ただし写真を供養しただけでは霊の移動手段が断たれただけに過ぎないので、広がってしまった霊を消す必要があるという。
そこで桧渡さんは、寺で作ったお清めの塩入りのスプレーを僕に持たせてくれた。これで部屋を清めれば霊は立ち退いてくれるという。実際、手だけの霊は現れなくなった。
「元はと言えば先生の部屋の霊なんですから、今もここにいるんですよ。先生もこれで清めたほうがいいです」
「やだよ。私は霊と暮らしたくてこの事故物件を選んで住んでるんだぞ? まあ、私には見えないけど」
先生は呆れ顔で肩を竦めた。
「そんな塩が入ってるだけのスプレーで喜んでるようじゃ、君はそのうち大家さんからパワーストーンを買ってしまいそうだな」
インチキだと分かっていれば騙されませんよ、と言い返そうとしたが、僕は言葉を呑んだ。仮にこのスプレーを貰わずに帰ってきたら、僕は多分不安で堪らずなんでもいいから縋ろうとするだろう。焦りで判断力が鈍っているときだったら、大家さんからパワーストーンやら壺やら掛け軸やらを買ってしまうかもしれない。
「でも、掛巣寺のお祓いはインチキじゃないんですよね。霊感商法って時点で胡散くさくはありますけど、実際に有名になってるくらいですし、助けられた人は多いんでしょ?」
僕が言うと、先生は壁に凭れて首を傾げた。
「どうだか。あの坊主は十数年前、私の親父に頼まれて私に憑いた霊を祓った素振りをした。しかし私は今も書き物を続けている」
「そう、ですね」
「すなわちそれは、『初めからなにも憑いてない』か、『憑いていたが祓えていない』のどちらかだ」
そう言われてみれば、憑いていないのならお祓いを見せる必要はないし、憑いていたのなら今も書き続ける先生に霊が取り憑いたままといえる。
桧渡さんは、憑いているかいないか、見えもしないものに対して『祓う』所作を取ったわけだ。
先生は僅かに目を細めた。
「それが悪いとか詐欺だとか、野暮なことは言わないよ。親父が満足したから、それでいい。こういうのはね、お客さんが欲しがってる答えを出してあげる商売なんだよ。真実は二の次」
「そういうものですか?」
「霊能者に限らず、世の中の商売は全部そうだ。価値を決めるのはお客さん。お客さんにとって納得の行く結果を売る。それが仕事だ」
つまり、霊能者の仕事は不安な気持ちを抱えた相談者の話を親身な素振りで聞き、解決したような様子を見せて安心させる。
思い起こすと、大家さんも『安心』を売っていると話していた。心が落ち着いたことで悩みが解決すれば、霊を信じる者たちは、除霊が成功したのだと感じる。桧渡さんであれ大家さんであれ、霊感などなくても、この仕事は成立するのだ。
先生の視線が、僕の手のスプレーボトルに向いた。
「これは想像だが、掛巣寺にはかつて本当に霊能者がいたんだろう。そしてその者が提唱した祈祷が受け継がれて、形を真似するだけでもある程度の力を発揮する。手が落ちてこなくなったんなら、そのお清めの塩はちゃんと効いてる。よかったじゃないか」
もしかしたら、あの手も僕が不安に駆られるあまりに見えた幻覚で、塩のスプレーを撒いて安心したから見えなくなっただけかもしれない。しかし先生の言うとおり、効いたのかもしれない。凡人の僕には結果しか分からない。
先生は大きく伸びをした。
「心霊写真の供養は済んだし、君の部屋の心霊現象も落ち着いた。呪術書の修繕代の請求もなし。一件どころか複数件落着だな。『ハネキリ』を再現できなかったのは心残りだが、それを差し引いても充分な経験を得られたよ」
「次回作、期待してますね」
「任せな。小鳩くんの悲鳴を無駄にはしないさ」
先生は僕からお使いの書類だけ受け取ると、扉を閉めようとした。僕はその扉を、手で止める。
「あの。気になることがあるんですが、訊いてもいいですか?」
「なんだ?」
「先生が中学生の頃……心霊スポットの廃校に、探検に行ったというお話です」
桧渡さんと先生との会話から、表面だけ聞いた話だ。僕はこの件が、妙に引っかかっていた。
「先生はその日以来、唐突に書き物に打ち込みはじめたと聞きましたが……本当に、単に創作に目覚めただけなんですか?」
桧渡さんは、「異常行動でも心霊現象でもなく、才能が開花しただけ」だと言った。先生自身も創作にハマッただけだと話した。実際、そうして創作の世界に入っていく人はいるだろう。
でも、話に聞く先生のお父さんの焦りようは、相当なものだった。娘が書き物をはじめただけなら微笑ましく見守るだろうに、病院を渡り歩き、最後には寺に除霊を依頼するほど……それほど、父親の目から見て娘の状態が「異常」だったと窺える。
「大切なご友人の話でもありますし、言いにくいことでしたら、これ以上はずけずけ聞きません。でもやっぱり、僕は作家・月日星麗華先生が好きなので、そのルーツを知りたいと思ってしまいました」
問いかける僕を、先生は僅かな微笑を携えて眺めていた。無言の数秒ののち、彼女はふっと目を細めた。
「作家の君なら、どういう設定にする?」
「生身の先生たちを使って、安易な創作はできません」
僕は真顔で、そうとだけ答える。先生は口角を吊り上げ、肩に垂れた髪を耳にかけた。
「私ならこうする。『亡くなった幼馴染は、小説を描いていた。月日星麗華は、彼女の遺したものをノートの中にだけ留めておきたくなくて、その遺志を継いだ』」
「幼馴染の描いた物語を、webサイトにアップした?」
「どうかな」
先生はそう言って微笑み、扉は静かに閉ざされた。
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