5

 日本海側の某県、志木森市。掛巣寺はその山間にある。緑豊かな景色の中に、立派な本堂が佇む。蝉の声が充満して、日差しが眩しくて、寝不足の僕には目眩がするほどだった。

 僕の前には、メロンを抱えた椋田さんと、それについていく先生の後ろ姿がある。境内を進んでいくと、やがて法衣姿の男性がこちらに向かってくるのが見えた。


「こんにちは、どうも皆さんお揃いで」


 この寺の住職だ。六十代くらいと見られる、目尻の垂れた目元が優しげな印象の人である。彼を見るなり、椋田さんが素早く頭を下げた。


「桧渡さん! この度は大変申し訳ございませんでした!」


「僕が破きました。申し訳ございません!」


 僕も続いて腰から折れ、先生も深々とお辞儀した。


「申し訳ございませんでした」


「やってしまったものは仕方ありません。物はいずれ壊れるもの。それがたまたま此度のタイミングだっただけです」


 住職――桧渡哲栄さんは、おっとりとした柔らかな笑顔で僕らを許した。


「お顔を上げてください。東京からこんな辺鄙なところまでご足労いただいたんです。お茶でも飲んでいってください」


 桧渡さんはのんびりした口調でそう言って、僕らを手招きした。

 僕と先生、椋田さんは、互いに顔を見合わせた。貴重なものをだめにしたのに、全然叱られなかった。逆に怖いくらいである。

 桧渡さんがこちらを振り向く。


「さあ、どうぞ客間へ。私は、月日星さんにお会いできると聞いて、楽しみに待っていたんです」


「私に?」


 先生が顔を上げる。その後ろで僕は、「さすがは有名人だな」と口の中で呟いた。先生がベストセラー作家だったから、こうして大目に見てもらえたのではないか。

 桧渡さんは優しく目を細めている。


「ええ。こんな形とはいえ、お会いできたのはなにかのご縁でしょう」


 叱られる覚悟を固めていたぶん、僕らは拍子抜けした。ぽかんとしながら、桧渡さんの案内に従った。


 客間に通された僕たちは、座卓の前の座布団に無言で正座していた。窓から差し込む日差しが、畳を明るく照らす。周囲の蝉の声がシャンシャンと響いている。

 桧渡さんが冷たい緑茶を持ってきて、座卓に並べた。


「月日星麗華さん。あなたは覚えてないかもしれないけれど、私とあなたがお会いするのは、これが初めてじゃあないんです」


「へっ? そうなんですか?」


 桧渡さんの言うとおり先生は記憶にないらしく、素っ頓狂な声を出した。椋田さんも、目を丸くする。


「面識があったなんて初耳です」


「はは。椋田さんから『月日星』というお名前を聞いて、思い出したんです。こんな珍しいお名前の方はそういないから、間違いないだろうなあと」


 桧渡さんがお茶を啜る。


「十数年ほど前。当時中学生だったお嬢さんが、心霊スポットを探検してきてから様子がおかしいと、お父様からご連絡がありました。あのお嬢さんの名前がたしか、月日星麗華さん」


「ん? ……ああ!」


 先生はハッとして、背すじを伸ばした。


「あんときの坊主か! うちの親父が呼んだ!」


「思い出していただけて光栄です」


 先生は驚いた顔で手を叩き、桧渡さんはにっこりと笑う。僕と椋田さんは置いてけぼりで目をぱちくりさせていた。

 先生が僕らの顔を見る。


「私、ガキの頃に廃校を探検してな。それ以来の私の挙動が気になったらしくて、親父がお祓いのプロを探して呼んだんだ。そのプロ僧侶がこの人だ」


「先生、小さい頃からそんな感じだったんですね……」


 僕が言うと、先生はからからと笑った。


「親父が心配性すぎるだけで、なんともなかったんだけどね」


 そんな先生に、桧渡さんが優しい微笑みのまま鋭く返す。


「なんともなくないですよ。だってあなたは、あのとき……」


 途中まで言いかけて、彼は言葉を呑んだ。先生は涼しい目で桧渡さんを一瞥したのち、自嘲的に微笑む。


「まあ、なんともなくはないか。私は心霊スポットで、幼馴染の死体を見つけちゃったんだ」


「へ!?」


 僕は変な声を出し、椋田さんは目を丸くして絶句した。桧渡さんは先生へ配慮しながら、遠慮がちに続きを話した。


「それまでのあなたは机に向かうのが大嫌いだったのに、廃校から帰ってからはスイッチが入ったように夢中でノートになにか書きはじめた。お父様に言わせれば、『なにかに取り憑かれたようだった』と」


「うーん。その頃から急に創作にハマッただけなんだけど、親父は心配性だからな」


「ですが、書いていた文章がなにせおどろおどろしいもので……。ご友人を亡くされたショックで、精神的に限界なのではと、お父様は心配なされました」


「はは。心霊スポットを探検してみて、眠っていた創作意欲が目を覚ましただけたよ」


 先生はそう言うが、お父さんが心配する気持ちはよく分かった。幼馴染の亡くなった姿を見て、平気でいられるわけがない。

 そんなショックを受けている娘が、急に書き物に打ち込みはじめたのだ。しかも内容が不気味なホラーであれば、不安になっても不思議はない。先生がやんちゃな少女だったというのなら、なおさらその変貌ぶりに驚くだろう。

 桧渡さんは、懐かしそうに語った。


「お父様は、あなたを脳神経系やメンタルなど様々な医師に診せましたが、どこもお手上げで。病気じゃないなら霊の仕業かと考えて、私に出張お祓いを希望なさったんです」


「ほう! 私があんたの世話になるのはこれが二回目だったわけか」


 先生がぽんと手を叩く。桧渡さんはこくりと頷いた。


「この寺はかねてから、悪霊祓いが得意な寺としてそれなりに名前が知られていましてね。お父様もそれでここを見つけられたのでしょう」


 なるほど、そういう寺だから、例の呪術書の保管も任されていたわけだ。それほど高名な寺を頼ったというのだから、先生のお父さんは娘の変わりように本気で焦ったのだろう。


「あのときのお嬢さんが、こんな立派な作家先生になられるとは。幼いあなたが文章を書いていらっしゃったのは、異常行動でも心霊現象でもなく、才能が開花しただけだったのですね」


 桧渡さんは一層朗らかに微笑んでみせた。


「本来ならば呪術書をお貸しするのはお断りさせていただきますが、久々にあなたのお名前を聞いて、ご縁を感じたもので。あの物書き少女が、ベストセラー作家さんになられたなんて」


「それであっさり貸してもらえたのか……」


 椋田さんが唸っている。出版社や先生のネームバリューではなく、意外なところに理由があった。椋田さんは、ちらっと横目で先生を見た。


「月日星先生が現在小説家になってるってことは、お父さんがあれこれ手を焼いても書き物をやめなかったということですよね。お父さん、困り果てたんじゃないですか?」


「うん、けど私の書いた文を読んだら『面白いじゃん』って思ったみたいで、応援してくれるようになったんだよ」


「いいお父さんを持ちましたね」


 最初こそ異常に見えた先生の行動だったが、お父さんもそのうち見慣れてしまったのだろうか。悲しい出来事を弾みにして、若き日の先生は創作に打ち込んだ。

 お父さんは娘が夢中になって描く物語を、認めてくれたのだ。おかげで現在の月日星麗華は、鬼才として名を馳せている。

 先生は子供みたいに無邪気に目を輝かせた。


「にしても、悪霊祓いが得意な寺かあ……! てことは、全国からとびっきりの呪物やら憑き物やらが集まってくるんだな? 面白い話をたくさん聞けそうじゃないか」


「生憎、守秘義務がございましてね。この手の話は、人に話すとその話題が媒介して霊の行動範囲を広げてしまうと言われます。私どもは、相談の中身も出来事も、胸のうちに秘めるのです」


 桧渡さんはやんわりと、それでいてしっかりと、取材NGを突きつけた。先生は残念そうに身を引っ込める。

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