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 椋田さんに一報入れると、当然ながら思い切り叱り飛ばされた。先生は吹っ切れて開き直っていたが、僕は胃がきりきりして堪らない。

 自宅に帰ってきてからも、自責の念に押し潰されていた。先生のように気持ちよく切り替えられる性分ならどれだけ良かっただろう。薄暗い性格の僕は、失敗をいつまでも引きずってなかなか浮上できない。


 食欲がないので、さっさと風呂に入って寝ようと思う。しかしこれまたひとり反省会で目が冴えて全く眠れない。

 貴重な文化財を破損してしまった。先生のアシスタントなのに、アシストするばかりか余計なことをした。椋田さんも怒りを通り越して呆れただろう。もう図々しくプロットを持ってなどいけない……。

 悪い方へ悪い方へと考えているうちに、時間はみるみる過ぎていき、気がついたら零時を回っていた。


 僕は結局、部屋の明かりを点けた。気分転換に本でも読んで朝を待とう。

 こんな夜はなにを読もうか。読みかけの本もいいが、読了済みの中から心穏やかになれる作品を選んでもいい。

 そう、考えていたときだった。


 トチャ、と、妙な音がした。水っぽくて質量のあるなにかが、床に落ちたような音だった。

 僕は音の方向を振り向いて、その原因を見るなり、ひゅっと息を止めた。


 床に、切断された手が落ちている。


「うわあああ!!」


 僕は腰を抜かして、その場に尻餅をついた。

 手のひらを上に向けた左手は、手首から切り落とされており、びくんびくんと指を痙攣させていた。周囲に血が飛び散って、床を赤く染める。


「わ、あ、ああ! なんだこれ……!」


 頭の中がぐちゃぐちゃになる。もしかして、呪術書を破ったからか? 破ったから呪われた?


「ご、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい!」


 座ったまま後退りすると、背中が壁にぶち当たった。


「ごめんなさい、許して!」


「うるせえ! 何時だと思ってんだ!」


 隣の部屋から怒号が響いてきた。別の意味でも、僕はびくっと飛び跳ねる。


「すみません!」


 大声で謝ってふと前を見ると、先程まで見えていた左手も血も、忽然と消えていた。


 心臓がまだどくどくと暴れている。僕はよろけながら、立ち上がった。お隣には、明日謝りに行こう。



「……て、ことがあったんです」


 後日、僕は椋田さんの車の中で語った。

 運転席の椋田さんと助手席の先生は、ちらっとお互いの顔を見る。


「呪術書の呪い……かあ。だとしたら、月日星先生もなんらか起こっているのでは? 元はと言えば、汚したのはあなたなんですし」


「うーん? 私は特になにも」


 あれから二日後。僕たちは今、呪術書を貸してくれた寺に謝罪に向かっている。

 汚した本人である先生と破いた本人である僕、それと椋田さんも同行してくれた。寺への謝罪の品の高級メロンが、後部座席、僕の隣に鎮座している。


 ここ二日、僕はまともに眠れていない。

 切断された手が落ちてきた夜、結局寝つけなかった。その翌晩も落ち着かなくて眠れずにいると、またもや同じ時間に同じ現象が起こった。


「なんで僕ばっかり……先生だって汚したのに」


「やっぱしオバケは、脅かしがいのある奴を好むのかもな」


 先生が残念がりつつ、小首を傾げた。


「しかしなあ、その手が落ちてくるっていうやつ……なんか聞き覚えがあるんだよな。どこで聞いたんだろう。いろんな人の怖い体験聞いてるから、どれだったか忘れた」


「……あれ? 言われてみれば僕も覚えがあるような気がしてきた」


 しかし先生同様、それがなんだったかは思い出せない。ハンドルを握る椋田さんが、穏やかな声で言う。


「小鳩先生、呪術書を破ってしまったのを気にしすぎて、お疲れなのでは? それでそんな嫌な幻覚が見えてしまってるとか」


 冷静に分析する彼に、先生がブーイングした。


「えーっ、オバケじゃなくて、小鳩くんの気のせいってことか? 面白くないぞ。話をつまらなくして、それでも編集者か?」


「これは現実の話なんですから面白おかしくすればいいってもんじゃないでしょ。小鳩先生、睡眠障害を診てくれるクリニックへ相談に行ったほうがいいですよ」


「そっか、そうします」


 呪いやら怪奇現象やらが本当にあるかどうかはともかくとしても、このまま眠れない日が続いたら困る。体が休まらなくて追い込まれれば、余計に悪い幻覚を見そうだ。

 隈のできた目元を擦る。先生は目をきらきらさせて、座席の向こうから顔を覗かせてきた。


「怪奇現象じゃなかったとしても、小説に落とし込んだら面白くなりそうだ。小鳩くん、今後さらなる展開があったら私に共有してくれ! 呪いだったらもう一回呪術書を破損して検証しよう!」


「月日星先生、反省してます? 今から我々は、その貴重な文献の破損を謝りに行くんですからね?」


 椋田さんが低い声を出した。


「全く……小鳩先生は気にしすぎだし、月日星先生は気にしなさすぎだし、足して二で割れないんですか、あなた方は……」


 それから彼は、思い出したように切り出す。


「そういえば月日星先生、小鳩先生をアシスタントとして体よく使ってるそうじゃないですか。彼を心霊検証に使おうと考えているそうですが、ご本人の同意の上、かつ常識の範囲内でお願いしますよ」


「どうしようかなあ。小鳩くんは怖がらせてなんぼだから」


 先生があっさり言う。僕の席からは椋田さんの顔は見えないが、険しい表情になっていくのが空気で分かる。


「小鳩先生、弱みでも握られました?」


「脅してないよ。こんなに怖がりでかつ私に従順な子が見つかったんだ、利用しない手はないだろう」


 僕の代わりに先生が答える。椋田さんは大きくため息をついた。


「あなたって人は……」


「まあまあいいじゃないか。私は小鳩くんを拘束しているわけじゃないんだ、小鳩くんは嫌ならいつでも私から逃げられる。その上で協力してくれてるんだから。ひと晩一緒に寝てるくらいには付き合いのいい奴だよ」


「小鳩先生が迷惑してないならいいですけど……えっ? ひと晩一緒に寝た?」


 一瞬流しかけてから、椋田さんは先生の言葉を反復した。


「そんな関係だったんですか? それ俺が聞いちゃってよかった?」


 先生の言い回しのせいで誤解を産んだ。僕は早めの訂正を試みる。


「違うんです、椋田さん。なにもないです」


「そうそう。小鳩くんは私の部屋に呼ばれて、なし崩しにお酒を飲まされただけさ」


 先生の横顔がこちらを向く。にやーっと笑ったその口元は、あからさまな意図が含まれているのが見て分かる。困惑する椋田さんに、僕は改めて訴えた。


「本当に! 本当にただ同じ室内にいただけです!」


「両方未婚なら問題ないじゃないですか。文学界のビッグカップル誕生ならおめでたいです。良い関係が続くよう応援しますよ」


 椋田さんはそうとだけ言って、僕の主張は聞き流された。 

 本当になにもないのに、気まずいではないか。頭を悩ませていると、ふっと、脳裏にその夜の光景がフラッシュバックした。


「あっ!」


 思い出した。どこか既視感があると思ったら、これは。


「手! 手が落ちてくるの、先生の部屋で見たんだ!」


 深夜、僕の部屋に落ちてくるあの左手。先生の部屋に泊まった夜、酒で潰れていた僕の顔の横に落ちてきた、あれだ。吊橋の女の件と同時だったし、寝惚け半分だったから、色々と混濁していて吹っ飛んでいた。


「僕の部屋に落ちてくる左手は、少し前に先生の部屋でも同じのを見たんです。しかも僕、触りました。たしかに手の感触があった!」


 僕が訴えると、先生も思い出して両手を突き合わせた。


「ああ、思い出した。そういや私の部屋は事故物件で、昔の住人が手首を切り落として死んだとかで、夜中に手が落ちてくるという怪奇現象が起こるらしい」


「それですよ!」


「でも、私は自分の部屋でそんなの見たことないぞ? 夜中まで起きて原稿してるのはしょっちゅうだけど、ただの一度も手が落ちてきたのなんか見てない」


 先生はこう言うが、僕はもはや確信していた。先生の部屋の怪奇現象は、僕の部屋でも起こるようになったのだ。

 先生は少し考えたのち、ぱあっと目を輝かせた。


「よし、小鳩くん。今日もひと晩、うちで過ごさないか? その怪奇現象を私にも見せてくれ。今夜は眠らせないよ」


「言ってる場合じゃないですよ。なにが起きてるんだ!?」


 怪奇現象が僕の部屋に移動したのか? これも呪術書を破いた罰なのか? 睡眠不足の頭がぐるぐるして、考えるのも嫌になった。

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