3

「へえ、さすがムクちゃん。抜け目がないなー」


 かるがも荘を訪ねてきた僕を、先生が玄関口で出迎える。お酒を飲みながら仕事をしていたのか、ほんのり赤い顔をして、長い髪は邪魔にならないようにひとつに括っていた。

 僕は椋田さんから預かってきた封筒を抱えて、腑抜けた声を出した。


「まさかプロットを読んでもらえるなんて……」


 もしかして先生は、僕に椋田さんと話す機会を与えるために、出版社へのお使いを言い渡したのだろうか。などと想像したりもしたが、見た感じ先生はほろ酔い状態だし、多分単純に出かけるのが億劫だっただけだ。


 あのあと僕は、椋田さんの名刺を貰い、連絡先を交換した。企画を思いついたら、電話でもメールでもチャットでも、連絡をくれればとのことだ。

 まだ企画が通ったわけでもないのに、ただ作家として見てもらえただけで浮かれてしまう。舞い上がってしまわないように、僕は自分で自分を戒めた。


「僕が先生のお世話になってるから、角が立たないように気を遣ってくれただけかも」


「ムクちゃん、面白くない奴のプロット読むほど暇人じゃないよ。義理や同情で不良債権を拾うほどお人好しでもないし」


 先生の言葉で、僕はまた浮き立った。椋田さんは本当に、心から、僕に期待してくれているのだ。自分なんてもう必要とされていないと思っていたから、こんな縁が信じられない。

 面白くなければ没だ。つまらないプロットを何度も書いて、椋田さんに愛想尽かされたらと思うと。そんな不安と、このチャンスをものにしたい欲深さが拮抗する。

 僕は勢い余ってその場に座り込んだ。


「うわー! どうしよう。プロット、なにを提出しよう。実は描きたいアイディアがたくさんあるんです!」


「うんうん、分かった分かった、偉い偉い。で、小鳩くん。お使いは?」


 先生にさらっと流されて、僕はハッと我に返った。そうだった、僕は椋田さんから受け取った荷物を、先生に届けにきたのだった。手に持っていた封筒を、先生に差し出す。


「これです。椋田さんから『落として角を潰さないように』って言われて、慎重に持ってきました」


 角二サイズの茶封筒である。ツキトジ出版のロゴと住所と連絡先が印刷された、いかにもビジネスライクな封筒だ。中身は見ていないが、触った感じ、どうも書籍のようだ。文庫本くらい大きさで、厚みは三センチ程度だろうか。

 先生はにまーっと口角を吊り上げ、封筒を受け取る。


「これを取り寄せるのはいくらムクちゃんでも厳しいかなと思ったんだけど……やるねえ」


「それ、なんですか?」


 運んできたものの、僕はこれがなんなのか知らない。先生は惜しみなく封を開け、中身をこちらに掲げた。

 ぼろぼろに茶ばんだ、古い本だ。麻紐で製本されており、どう見てもこの時代のものではない。

 博物館でしか見ないような歴史の産物を素手で持って、先生はあっさり言った。


「これは呪術書だ」


「じゅ!?」


 耳を疑った僕は変な声を出した。先生は平然と頷く。


「とある山奥の集落で長く受け継がれてきた秘伝の呪いがあってな。その呪いのハウツー本ってわけだ」


「本物なんですか? なんでそんなものがここに!?」


「件の集落がダムの底に沈んだのちにこれが出てきて、引き取った寺があったんだよ。で、その寺にムクちゃんが大手出版社という立場を活かして交渉してくれて、借りてきてくれた」


「借りられちゃうものなんですか!?」


 まずそんな恐ろしいものを手に入れてきたという時点で衝撃なのだが、それを角二の封筒で雑に梱包して手渡してきた椋田さんが分からなくなってきた。


「椋田さんのこと、まともな人だと思ってたのに……」


「ムクちゃんは別にまともじゃないよ。私をはじめ色んな作家から色んな要求されて、会社でも扱き使われて、感覚麻痺してるから」


 先生はそう言って、呪術書をぱらぱらめくった。


「うんうん、やっぱ本物は違うな。私たち作家が想像で描く『呪い』がいかに現代の創作臭いか反省させられる」


 先生のホラーに一層リアリティが出る……というのは一読者として嬉しいが、複雑である。先生は僕ににこりと微笑んだ。


「お使いありがとう、小鳩くん。帰っていいよ」


「ちょっと待って!」


 先生が閉じかけた扉を、僕はノブを掴んで止めた。


「まさか、呪いを実践する気じゃないですよね?」


「するけど、それがどうした?」


 先生は恐怖に対して鈍感だ。だから自分がなにをしようとしているのか、その恐ろしさが分からないのだ。


「だめですよ! 本当に呪いが発生したらどうするんですか!」


「ははは。単なるまじないだろう? そんなに真に受けなくても」


「でも、なんかその呪いの書、マジっぽいですし。お寺で保管されてたくらいなんですよ?」


「だとしても大丈夫、大丈夫。いくら検証用アシスタントといえど、小鳩くんを呪ったりしないよ」


 先生はへらへら笑って部屋に引っ込んでいく。たとえ根拠のないまじないだとしても、遊び半分でやるものではない。なんとしてでも彼女を止めなくては。僕は閉まりかけの扉を開けて、先生の部屋に上がり込む。

 先生は特に追い返そうともせず、僕を迎え入れた。室内のテーブルには焼酎の空き缶があり、先生が昼から飲んでいたのが窺える。


 先生はその隣に、トンと、借り物の呪術書を置いた。


「『ハネキリ』。それがこの呪いの名前だ」


 呪術書の横には、図書館のラベルの貼られた『古文書の読み方・中性〜近代日本』なる本がある。

 先生はこの図書館の本と呪術書をそれぞれ開いた。


「『ハネキリ』と呼ばれる箱を作って、呪いたい相手の家の前に埋めておく。するとその家は滅亡する、という呪いだよ」


「そういうの、どこで知るんですか」


「ネットのホラー掲示板」


 先生はにこっと笑って、楽しそうに続けた。


「新作のネタを探していて、呪殺系都市伝説の投稿で、この『ハネキリ』を見つけた。作り方まで書いてあってね。どうも簡単に真似できそうだったから、実践を試みたんだ。しかし、やはり本物の呪術書がないと不明瞭なポイントも多い」


「すでに実践しようとしてたんですね……」


「何事も経験が大事なんだ。やれることをやらずに語るなんてみっともないだろう?」


 この呪いをモデルに小説を描くだけなのに、わざわざそこまでするのは……もはや仕事のためより、好奇心のためなのではないかと思えてきた。


『ハネキリ』が生まれた舞台は、中部地方の山間部。戦後間もなくまであったとされる、シバチクと呼ばれる地域だそうだ。

 なにがきっかけかは今となっては不明だが、歴史を遡れば少なくとも奈良時代には、この呪術は生まれていた。集落は、ダムの決壊で集落が丸ごと沈んで、今はもう存在しない。


「『ハネキリ』は人体の一部や鳥の死骸を詰めた木箱だ」


 先生は呪術書の中の、ミミズがのたくったような文字とにらめっこしている。


「水に晒した生の木の箱に、鉄の刃で切り取った人体の欠片と、鳥の死骸を入れる。蓋をして三日三晩土に埋め、四日目の夜に掘り起こして、箱の中に塩を山盛りにしてまた三日三晩埋める」


 聞くからにおどろおどろしい。僕は無言で、眉を顰めて聞いていた。


「それを取り出して逆さにし、最初に人の一部を切るのに使った刃で、真上から串刺しにしたら完成だ」


 どの工程も意味不明で気味が悪い。僕は途中から耳を塞ぎたくなっていた。先生がふいに立ち上がり、キッチンから木製の弁当箱を持ってきた。


「とりあえず、ホームセンターで曲げわっぱを買った。これが土台となる生の木の箱だ」


「たしかに生の木の箱ではありますね」


「神社なんかの神事で使う道具も曲げわっぱらしいし、合ってる合ってる」


 先生は軽やかに言って、呪術書をめくる。


「この曲げわっぱに、鉄の刃物で切り取った人体の一部と、鳥の死骸を入れる。人体の一部ならなんでもいいなら、ハサミで爪の先か髪の毛でも切っていれて、鳥の死骸は鶏唐揚げでいいだろ。塩はキッチンにあるし、ご家庭にあるものでできるお手頃な呪いだ」


「えっ、それでいいんですか?」


 条件は満たしているが、果たしてこれで呪いが成立するのだろうか。

 困惑する僕の横で、先生は呪術書に目を落とした。


「そのはずだったんだが……ネットに書かれた断片的な情報は、間違いとまでは言わずとも言葉足らずではあるな。必要な手順がまだまだある」


 先生が呪術書の一文を指差す。


「ネットでは書かれていなかったが、本来は人体の一部と鳥の死骸を入れたあと、箱の中を血で満たすそうだ。それも、九つまでの幼い子供の顔面から抜いた血だ。で、三日三晩経って中身と箱に血が浸透したら、塩を盛ると」


「怖……!」


「しかもこの幼子とやらも、肩から腕を切り落として、さらに体を袋に詰めて飢えさせた子供だと。目の前に水を置いて、飲みたいと渇望させ、強請る声が出せなくなった頃に血を取るそうだ」


「なんて残酷なんだ……」


 僕はあまりの恐怖に吐き気を覚えた。犠牲になった子供の怨念こそが、この呪いを呪いたらしめているのではないか。


「さすがによそのガキから血は奪えないな……ご家庭にあるものだけじゃ成り立たなかったな」


 先生は呪術書を閉じ、ため息をついた。


「『ハネキリ』を送られた家は滅亡するっていうから、実際に作ってみて害虫の巣にでも使えば、害虫駆除になると思ったんだが」


「呪いをそんな使い方する人いるんだ」


「仕方ない。実際に作るのは諦めて、素直に資料を読み込むか」


 先生が『ハネキリ』の作製を諦めてくれた。僕はひとまず、ほっと胸を撫で下ろす。

 先生は呪術書の表紙をじっくり観察した。


「この呪術書は歴史的価値のある民俗学の資料として貴重なものだ。面白くないわけがない」


「そうですね、昔の書物がこんなにきれいな状態で残ってるというだけでもすごいんですから」


 椋田さんからも、落としたりしないよう注意を受けた。それだけ重要な文化財なのは僕でも分かる。


「奇跡的ですよね。村はダムの決壊で沈んだんでしょ?」


「呪術書が無事だったということは、これを持って逃げ切った人がいたんだな。つまり住民全滅ではなかったわけだが……助からなかった人が殆どだろうなあ」


 先生はふむと、顎を撫でた。


「呪いには呪い返しがつきものだ。村の住民同士で呪い合い、呪い返しも起こって、ついに村そのものが壊滅した……という文脈なのか? だとしたら見事な一括削除だ」


 と、先生が呪術書をテーブルに置いた、その拍子だった。

 置いてあった焼酎の缶に、書物の角が当たった。僕も先生も、息を呑んだ。

 中身が少なくなっていた缶は、簡単に傾いた。まずい、と思った時点ではもう遅い。缶は半回転ののち、呪術書の黄ばんだ表紙の上に倒れた。

 あ、と思った一秒後には、「歴史的価値のある貴重な呪術書」は焼酎で汚されていた。

 カロンと軽やかな音を立て、缶が床に転がっていく。僕と先生は、その様を呆然と眺めるしかできなかった。


 やがて、先生が真っ青な顔で叫んだ。


「うわー! やらかした!」


「と、とにかく拭きましょう! 他のページに浸透する前に!」


 僕も咄嗟に動き出し、呪術書を引ったくった。濡れた表紙はすでに酒が染み込み、文字が滲んで溶け出している。

 置かれていたティッシュを数枚抜き取って、濡れた表紙に充てる。


「そーっとトントンして水分を吸い取れば……」


 と慎重にやったつもりだったが、もともと古かった紙は脆く、簡単にくしゃっと破れた。僕も先生と同じくらいの声量で叫ぶ。


「わー! しまった!」


「なにをやってるんだ小鳩くん! 私が言えた口じゃないが」


 濡れただけなら乾かせばまだマシだったかもしれないのに、事態を悪化させてしまった。


「どうしましょう先生。貴重な資料が……!」


「仕方ない。こうなったらもう、私たちに残された道はひとつ」


 先生は頭を抱えて、真剣な面持ちで言った。


「これ以上触らずに、持ち主の寺に素直に謝罪しよう」

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