2-8)■の呼び声


 悍ましいそれは、どろりと垂れる黒。まるで空間に穴をあけたかのような、なにもかも飲み込む、黒だ。

 ど、ど、ど。喉奥で心臓の音がして、百田は震えた。ひゅ、と飲み込むはずの酸素は、喉に出来た心臓分スペースが足りずに喘ぐ心地になる。

「ァキラ」

 声は反響するように混ざり合っていた。混ざり合ってぐちゃぐちゃで、不協和音はそのくせ元の音を主張する。

「ォシェテァゲル」

 こめかみに響く、頭蓋に響く、顎がごりと歪む音がする。ひゅ、ひゅ。ひゅう。浅い呼吸。勝手に見開いた瞼は瞬きをさせない。乾きに、湿り気が内側から昇る。

「ナンデォレバカリ」

 太く反響する音が、にちゃ、と、裂けた黒から降り注ぐ。まるで口のようだ。それでいて、黒は黒でしかない。ずるりとした粘性は、

「シリタイデシヨォ」

 は、は、は。百田の浅い呼吸は笑い声のようでもあった。いや、笑い声だ。百田は震える唇を、ともすれば食いしばりそうになるその口角を、無理やり持ち上げた。胸元に手を置き、ざり、と、異物を撫でる。

 三度のリズムは繰り返すものだ。百田の癖、というより、それはおそらく手順じみている。所謂、ジンクスを呼ぶようなものなのかもしれない。

 とん、とん、とん。足を鳴らす。三度はまじないだ。二度あることは三度ある、三度目の正直。そういう「よく使われる区切り」を使うことで、自分をそこに至らせる。

 いち、に、さん。震える唇が音にならない声を作った。三度のリズムが、三度目の繰り返しを見せる。

「いらねーよ。俺は、贄じゃない」

 とん。鳴らしたのは指先。最後の一度は、十全の一度。

 ぐずり。飲み込む黒の下で、百田は胸ポケットの堅さを握りつぶす。

「贄じゃないから、アンタはなにものにもなれないんだ」

「■!」

 最後に失われた音に、百田は少しだけどうしようもなさそうに息を吐いた。

 それは多分、あまりに穏やかな微苦笑だった。


 * * *


「おー、ホントになくなってる」

 からからと笑う百田の表情は明るい。自分の耳を確認して何度もなぞる百田に、村山は眉を下げた。

「大変な思いをさせてすみません。とりあえずメディカルチェックと、あとは改めて調書をって感じになると思います」

「オッケーオッケーオールオッケー。といっても俺めっちゃ元気だし、んな気にしなくて大丈夫だから」

 軽い調子の百田に、うーんと村山は困ったように笑った。あえて見せているだろうその表情に百田は目を細めると、すぐ鬼塚に視線をやる。

「頼りにしてるぜ桂士」

「……」

 はく、と鬼塚の唇が開く。けれども言葉を作ることなくそれは閉じられた。鬼塚にしては珍しくやや大げさに、その大きな手が自身の額を押さえる。

「……調書は俺の上司がとる。なにかあったら言ってくれ」

「オッケー、お前の良さは宣伝しておく」

「それはいらない」

「いらなくても勝手にやっておく」

 相変わらず明るい百田に、鬼塚は息を吐いた。額を押さえていた手で、揉むようにこめかみを押さえる。

「……心臓に悪かった」

 小さな声は、細い。元々の物静かさとは違ったその音に、百田は目を丸くするとゆっくりと目元をやわらげた。

「大丈夫だよ、桂士がいたからさ」

「……何もできていないだろう」

「そんなことないっつーの。これは慰めでもなんでもなくホントの話。んで、俺は別に俺がどうでもいいからこれを受けたわけでも平気な顔しているわけでもねーよ」

 その顔が存外本当に穏やかで、鬼塚はゆるりと手を額から離した。まるでどうしようもないような諦めなのに柔らかい百田の笑みは、先ほど手を伸ばすときに見たものとずいぶん似ている。

 その表情の意味を拾い上げようとじっと見返す鬼塚に、百田は「はは」と空気と一緒に笑い声を吐き出した。

「存外俺は俺のこと好きなのかもしれねーな、って話なだけ」

 なにかを問うように、鬼塚は口を開いた。けれどもそれが音を作る前に、部屋の扉が開く。

「お待たせしました。百田さん、こちらどうぞ」

「あ、はーい。……どーせそっちに報告行くと思うけど個人的にも連絡するからその時は構えよ。あ、村山さんもありがとーございました! また今度桂士と一緒に遊んでくださーい」

 明るい声だけ残して百田が出ていく。はぁい、とのんびり声を返した村山は、さて、と百田の明るさに準じるように声を出した。

「とりあえずお疲れ様です。やきもきさせましたね」

「……いえ。朗と、村山さんのおかげです」

 硬い表情で鬼塚が言葉を返す。村山は少しだけ困ったように眉を下げると、ずりずりと椅子を鬼塚の方に寄せた。

「私のはまあ、私がっていうのもちょっと違うとは思いますが、でも私の仕事なのでその言葉は大事に受け取っておきますね。有難うございます」

「……すごいと、思います」

 穏やかな村山の声に、鬼塚は静かに言葉を落とした。いやあ、などと言って村山はにたにたと笑ったが、その軽薄な表情の中で瞳の穏やかさだけが浮いて見え、そのくせ馴染んでいる奇妙な感覚を持たせた。

「百田さん、凄かったですね。冷静で。本人にしてもらう、ってケースでは随分と難しいことも多いんですが、綺麗な成功ですよ。……失敗するときの為に刑事さんたちがいるんで、よかったなって思っています」

 鬼塚の拳は堅い。よかったですよ、と村山はもう一度繰り返した。そうしてから、少しだけ長く息を吐く。

「私じゃあんまりだと思うんで、天道さんと少し話すといいですよ。私でもよければ聞きますけど、多分、天道さんが丁度いい」

 ゆるり、と鬼塚が顔を上げた。さきほどのにやけた笑い方よりも穏やかな笑みは、冬の夕暮れのようだった。冷たい空気の中で、温かい日差しが確かにそこにある。

 つい、手を伸ばしたくなるような、穏やかで静かな、それでいてどこかさみしげな日溜まり。

「確保して終わりじゃない。それだけでなく、見守るだけしかできないことも多い。もちろん、なにかあれば対処するし可能性は探るしひとりでないからこその成果は届けるつもりですが、現場での特捜室は、そして特視研わたしたちは、どうしても足りなさを実感しやすいものです」

 先日の、天道から聞いた話が浮かぶ。確保して終わりの世界ではない。対処でしかない。俺たちの仕事は調査だ。繰り返されたのは、出来ると思うな、という大きな釘のようでもあった。

 それでも現場で見ると、力なさが歯がゆい。友人だったからではない。むしろ、もしかすると友人でない方がこの苦しさはあるのかもしれない、とすら思う。

 百田なら大丈夫だ、という自分をなだめるために無理やり引きずり出した信頼を、他人に向けられると鬼塚は思えなかった。

「出来ないことばかりを知る、と、天道さんも言っていました」

 天道は何度も、出来ない、出来ると思うなと繰り返していた。その実感の端を思い、鬼塚は眉間の皺を深めた。食いしばった奥歯が、ぎり、と頭蓋に響く。

 それでも拳を固く握り続けるだけで、鬼塚は言葉を発しなかった。

「……それでも、特捜室のみなさんがいることは大切です」

 村山の声が、鬼塚の内側に重なった。それならなんで自分はこの部署に来たのだろうか、という疑問を覆うようなその言葉は柔らかく撫でるような穏やかさで、覆うには足りない。

 鬼塚の目が、村山をじっと捉える。平時の鋭さよりもどこか力ないその瞳に、村山はゆっくりと笑んだ。

 意識して作られただろう笑みは、その癖優しく馴染んでいる。

 そうして交差した視線は、ふと村山が息を吐いて手元に視線をずらしたことでするりとずれた。

「凄いな、と思いますよ。正直私は、そういうところがやっぱり違うんだなあと思います。私たちはあくまで警察官でなく、その覚悟を持たない。――何かあった時に人を助けるために動くこと。そのなにかがあった時が、想定外でなにもかもどうしようもないかもしれないのに、どれだけ危険であろうと守るために存在すること。その覚悟は、多分、私にはきちんと理解しきれないんだなと思います」

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