2-7)行き場のない謝罪


 * * *


 用意された一室は、うす暗い。真っ暗ではないのだが、先程より暗さが増したように百田は感じた。とはいえ、それが部屋の問題か自身の問題か、今の百田には見極められない。鬼塚たちが見守る中で、ただ、その時を待つだけだ。

 視界が暗くて、音が遠い。多分血液の音だろう、そういう風のような低音が耳を覆う。自分で耳を塞いでいないのに、まるで世界と膜が出来るようだと感じてしまう。そんな自身に、百田は薄く笑った。

 ある意味、自分というものに似合っていると思う。目出度めでともり、と鬼塚達が言っていた原因を思い出しながら、百田はそんな思考を捨てられなかった。その持ち主の男に親切したことが今回の事件を呼んだ不運だと、二人は言っていた。しかし、なかなかどうして自分ゆえに、という意識が百田から消えない。

『置いてきぼりにした心が、呼ぶんだって』

 噂話がある。都市伝説というには些細だ。どこでなにが漏れたのか、百田と同じ症状だったという被害者の関係者からなのか、加害者が都合よく動くためのものなのか、発祥元はわからないらしい。

 後ろに心を囚われる。毎毎まいまい心はそこにある。自分が置き去りにしたものに、人は呼ばれる。後ろ髪をひかれる。後ろめたさが、声を呼ぶ。

 声を無視してはいけないよ。その声を裏切ることになるから。声を無視してはいけないよ。貴方の罪が膨れてしまう。膨れて膨れて、はじけて、罪の清算をしなければならない。そういう教訓じみた噂話。

 それは逆に、被害を助長するものだ。加害者に都合よく作られたものだ。そう、鬼塚と村山から聞いている。それでも百田は、その噂話の言葉を否定しきれなかった。

 だって、そうだ。後ろに心を囚われる。毎毎まいまい心はそこにある。あまりにその言葉は、百田に馴染む。自身の罪であり、自身の立ち位置だ。そう思ってしまえる程度のものが、百田にはあった。自分にふさわしい、とすら思ってしまう。

「アキラちゃん」

 優しい、穏やかな祖母の声。その音で、世界から膜が消える。目を開いていても、どこにも姿はない。けれども穏やかな、あの日の祖母が浮かぶ。

 ごめんな。言葉にしない謝罪を、百田は奥歯で潰した。

「ごめんねアキラちゃん」

 潰した謝罪を、祖母が拾い上げる。そんなことを言わせたくはなかった。祖母の言葉は、百田にとって否定したいものだった。謝らないでほしい。でも、今はもう言えない。

「可哀そうに、可哀そうに。アキラちゃん。寂しいでしょう」

 祖母がゆっくりと繰り返す。可哀想じゃないよ。俺は幸せだよ。そう言えなくなって、言うことが罪悪だとすら思って、どれだけ経っただろうか。昔から祖母は、繰り返していた。

 お母さんが居なくて可哀そう。寂しい思いをさせてごめんね。そんなことを言うけれど、百田にとってそんなのどうでもよかった。母親が居なくてつらい子どもはいるだろう。たまに、寂しいと思うことがなかったわけでもない。けれども百田には祖母がいた。父がいた。家で帰りを待つ祖母は優しく、遺影でしか顔を知らない母親などただの他人だとすら思っていた。

 百田にとって母は憧れではなく、ただ少し面倒な存在とすら言えた。そう考える自分が悪い子なんだと思いながらも、大好きな祖母に悲しそうな顔をさせたくなくて、どうすればいいかわからなかった。

「ごめんねアキラちゃん」

 記憶の祖母と、今の声が重なる。謝らないで。俺は幸せなんだよ。一緒に笑って楽しかったのに、時々悲しそうに言う祖母の顔が忘れられなかった。そうしてあの日、震える手で抱きしめた祖母の、骨ばった体も。

「こっちにおいで、寂しくないよ。■■■■もいるよ」

 聞こえないノイズで、言われた言葉を悟る。だから百田は眉をしかめ笑った。笑ってやるしかできなかった。

 中学で父が死んだ。事故だった。唐突な別れを受け入れることもできず泣き続ける祖母の隣で、ただ、葬儀が進むのを見た。骨壺を抱いて帰るおり、突然出てきた涙は自分にとって遠かった。遠い中で、抱きしめる祖母のすすり泣きを聞いていた。

「おいで。寂しくないよ。ごめんね、ずっとそばにいるから」

 祖母は以前よりもずっと謝るようになった。そういう中で、少しずつ、なにかがずれていくのを感じていた。卒業したら働かないと、働いてばあちゃんを安心させるんだ。そう思っていたのに、その日は来なかった。

「アキラちゃん」

 叔父が祖母の異変に気付き、朗は百田の家で暮らすことになった。祖母を安心させる意味もあって、そのまま百田の養子になった。祖母は認知症があった。さらにタイミング悪く脳梗塞も発症してしまい、入院。お前は無理をしなくていいんだよ、と百田の家の人によく言われたのを覚えている。

 けれども、無理と感じてしまう自分がダメだったのだ。あんなに優しく育ててもらったのに。自分しか、もう祖母には残っていなかったのに。

 だから呼ばれているのだ。百田にとってそれは実感だった。

「おいで、大丈夫」

 穏やかに笑っていた祖母。苦しそうに泣いていた祖母。どれも思い出で、なのに、と百田は固く目を閉じた。

 高校は百田の人間として、知り合いが誰もいない場所へ通うことになった。百田朗でモモタロー。無邪気なあだ名は以前の自分と違う現実を目の前に押し付けて、嫌なのに嫌と言えずに笑っていた。

 嫌だった。それは、本当だった。なのに

「ごめんねアキラちゃん」

(ごめんな、ばあちゃん)

 百田は内心で繰り返した。眉をしかめて笑みを浮かべる歪んだ顔は、歪みでありながら今の百田だ。

 村山は手順だと言った。問いかけに対して増えた、聞こえない音。おそらく本人にとって大切なものか、周囲とのかかわりか。どれかはわからないけれど、なんらかの、百田にとって意味のあるものだろうと。

 それを百田は、未練ととらえた。そしてだからこそ、笑うしかなかった。

 聞こえない音があったのだ。あそこに。――百田の家に、朗は、未練を持っている。

(ごめん、俺は)

 鬼塚と初めて会ったのは図書室で、下の名前だけ教えたのは多分当時の自分の、やわらかいなにかが理由だった。鬼塚はなにも問わず、自身の下の名前を教えた。それだけ。それだけでも、百田にとってはなにかひとつ、息が出来る場所だった。

 だから鬼塚はわかる。鬼塚だけがわかる、と、言えればよかったのに、

(ごめん)

 百田は静かに、内心だけで言葉を落とした。これが死者の言葉でないとしても、百田にとっては正しく死者の声だ。祖母の声だ。

 アキラちゃん。大事に大事に、大切に。愛されていたと知っている、愛してもらった自覚がある。ごめんねと、言わせることが申し訳なくて、どうしてもしんどくていやだと思ってしまったこともあった。でも、好きだった。

 大好きだった人の声がそこにあるのに、違うなんて思えない。自分のせいだ。自分はここに、相応しくなかったんだ。繰り返してしまう内心は、確かにある。だって届かなかった、何もできなかった人が呼んでいるのに、嘘なんて思えない。

 けれども、だからこそ。

(おれは、しあわせだよ)

 百田は届けられない言葉をはっきりと内側で繰り返し、口を開いた。

「アンタは誰でもない」

 はっきりと響いた宣告は、合図だ。可哀そうに。続いた言葉は百田の言葉に応えるものではない。会話の出来ないものだ。それっぽい音を繰り返すだけだ。記憶の祖母と重ね、祖母の言葉と思いながらも、百田は教わった言葉を繰り返し自身に言い聞かせる。

「アンタは誰でもないし、なにものでもない。アンタは俺の気のせいで、嘘だ。そしてアンタの見ている俺も、嘘だ」

 はっきりとした言葉に、あの耳を塞いだ時の風のような低音が鼓膜を塞ぐ。ぷつ、と、耳元、まるであの確認した発疹からはじけるような距離で、声がした。

「可哀そうに、こっちへおいで」

「俺は百田朗で、行く場所なんてないよ」

 ともすれば、自虐的な言葉だ。自身を抉るような言葉で、けれども百田はこの言葉を選んだ。

「来るんだよ、アキラちゃん」

 低音が世界に膜を作るのに、祖母の声はずっと近かった。ふつ、と、またはじけて聞こえた声に、百田は息を吐く。

「■■がそこにいる。実家に戻れば、■■■■と■■■■と■■■がいる。■■■■■■▣■■■としても順調で、だから俺は、行く場所を持たない。そもそも俺は、百田家の人間だ」

 正しく言えているかはわからないが、それでも百田は聞いていた通り聞こえなくなった言葉を並べた。認知できない言葉は、これまでよりもはっきりとした強い歪な形で音を遮った。

「アキラ」

 祖母ではない。すべきことは問いかけではなく、断定。

「アンタは誰でもない。ここに、居場所はない。聞こえてほしいものは存在しない。■■■■、■■■■、■■■。それに■■も、どれもこれも、無くても多分忘れない。■■■■のことだって、呼べなくてもいなくても、俺は絶対忘れない」

「アキラくん」

「……だから、ばあちゃんのことだって、忘れない。誰もいなくなったって、忘れない。俺はそっちの話を聞く気はない。欲しくない」

「アキラ君」

 繰り返される言葉。耳元ではじけるそれが、気泡のように呼び声を弾く。

「朗」

 後ろから響いた聞き馴染んだ声に、百田は顔を歪めた。心配させたか、長すぎたか。無理はするなと言われたが、終われるならここで終わりたい。世界が遠くて、近づいていたことに気づかなくて、大丈夫だと笑おうと百田は振り向いた。

「■■」

 どろり、と、黒が、まるでぐずぐずに腐った果実のように垂れている。


 ――そういえば、その呼び声は鮮明だった。

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