1-8)傾斜

 先ほど見た傾斜を思い出し、村山は身震いした。大きな怪我をするほどではないだろうが、それはそれ、これはこれである。高所がダメだというわけではないが、実際問題身の危険を感じた今は別だ。

 ふと、鬼塚が唐突にしゃがむ。

「どうしました?」

「……気のせいかもしれませんが、誰か、下りたことがあるかもしれません」

 じ、と傾斜を睨むようにする鬼塚の傍に、慎重に村山もしゃがんだ。とはいえ目を凝らしても、鬼塚の見ているものはわからない。

「日数的に痕跡が残っているとは思えませんが……降りてみます」

「えっ大丈夫ですか?」

「怪我はしません。横からなら十分戻れる程度の坂でもあります。見ての通りそこまで高さはないですし、何かあれば声も届くでしょう」

 立ち上がった鬼塚が、とんとんと地面をつま先で蹴る。土の硬さを確かめているのだろう。おお、と小さく感嘆した村山を、鬼塚が見やった。

「祠近くの行動として、タブーにあたるでしょうか?」

「えっどうでしょう。私が見ている所謂怪異ってものは、結構そのもので色々でして。ここにそういう噂があればタブーになるかもですが、正直この祠、情報がなさ過ぎますからね……」

 ふむ、と村山は祠と傾斜を比べ見る。いたずらに領域に入ることは良くないと言われているが、実のところ明確な禁足地のようなものを村山は知らない。というのも、たとえば山と里を分けた考え方は存在するが、それをすべての山で行うものではない。もっというと、現代において山と里で分けて禁忌をみるのも現実的ではない。

 これはあくまで村山の業務の範囲の話だ。怪異検案書、という言葉を作っているが、怪異――その、理解しがたき者たちは我々と次元の層が違うナニカであるなどとも言われており、伝わる信仰とどこからどこまで混ぜていいのかも不明だ。故に特視研究所では、さまざまな手掛かりとして文献を用いるが、最終判断は別のものとしている。もっというと、故に、特視研究所が成り立っている。

「絶対安全とは言いませんが、通常そんな即呪い、みたいなものは私の方じゃわからないですね。そういうものはなんというか災害で、その災害があるなら多分、もう少しこの祠に関する文献が残っていると思うんですよ」

「わかりました。では、少しお待たせします」

「はぁい、お気をつけて」

 正直言えば先ほどの衝撃で心配なのだが、出来るということを案じるのも失礼だろう。村山はぱたりと手を振り見送った。軽く会釈を返した鬼塚は、様子を見るように近くの枝を持ちながら軽く足を傾斜にいれると、そのまま下りて行く。あえて傾斜のゆるい外からではなく傾斜のきつい場所を選んでいるのは、見落としを減らすためだろう。

 大きな体が時折小走りになりつつも上手く途中木をつかい下りていく姿は中々目を見張るものである。つい息を止めていた村山は、鬼塚が降り切ったのを見て長く息を吐いた。

「大丈夫ですかー?」

「はい。すみませんが、少ししたら戻ります」

「私、祠のほう見ていますね。何かありましたら声をかけてください」

「よろしくお願いします」

 声は届くが、村山が祠を見てしまえばお互い見えなくなってしまう程度の傾斜だ。鬼塚の返事を確認し、村山はもう一度息を吐く。念のため携帯端末の通信状況を確認し、それから改めて祠を見た。

 とはいえ、緑色と感じる程度に苔の生えた祠の裏には特に何もない。例えば文字でもあればいいのだが、なにか彫られているような様子も見て取れなかった。苔で隠れている可能性もあるが、現状の印象としては薄い。

「挨拶は……うーん」

 何の神様かわからないどころか、もしかすると今回の事件に関係している可能性がある。万が一程度のものではあるが念のためやめておく方が無難だろうと判断し、すみませんね、と村山は内心で謝罪した。ぶしつけに見ている時点で今更でもあるが、とりあえずの一線である。

「もし利用するなら、祠を整えている可能性の方が高いけれど……」

 儀式、というのは、単純にそういうものとして行われるものと、祈る対象があるものが存在する。前者はいってしまえば物語で見かける魔法のようなもの。後者は神でも悪魔でも、叶えてくれると考える相手がある。祠を利用する場合はだいたい後者で、ならば相手に敬意を払って行動するのが普通だ。

 だから、それならこの場所に何らかの示しがあるはずなのだ。朽ちた祠を修繕する、は、たとえば神様のいる場所を勝手にとしがたくて躊躇って難しいかもしれない。しかしそこまでしなくとも、供物をささげるという形がある。

 供物は簡単に花だとか水だとか塩だとか酒だとか、その場所によってさまざまだ。こういうものは、特に知識がなくとも感謝の形として行うものもいる。神主が常駐しないような社に水が供えられているのを見て何故あるのかと尋ねたところ、願いが叶ったという住民が供えにきているなんて話を聞くのもよくある話だ。

 けれどもこの場所にそれはない。ぐるりと祠を回った村山は、正面に戻って眺め直した。

 苔むした緑の祠。むしろ最初からそれが正しい形のような姿に、少しだけ顔をしかめる。

 半端な完璧。浮かんだのは、あの遺体から感じた言葉だ。

「お参りですか」

 後ろから響いた声に、村山は体を跳ねさせた。葉の擦れる音は風の音でも、傾斜を登る鬼塚の音でもなかったらしい。思わずこわばった体をなんとかほぐし、村山は右斜め後ろを振り返る。

「お参り、というか、単純に好奇心で見に来た感じですね。地元の方ですか?」

 少しだけ声量を意識して、村山は問い返した。先ほど鬼塚に声を掛けた時ほどの声は流石に出せないが、それでも話し声は伝わるだろう。詳細は分からなくとも、鬼塚ならある程度察するはずだ。

「ここ、ハイキングコースが近くにあるからたまに人が来るんですよね。落ち着いていて、気に入っているんです」

 穏やかに笑う男は、三十代後半くらいか。地元との問いかけに対する返事はないが、会話としては許容範囲だろう。つい警戒する気持ちを表面に出さないようにしながら、しかしタイミングがタイミング故にどうしても探る心地で男を見てしまう。

 まるで一人になるのを狙ったかのような、というのは言い過ぎだろうか。

「緑の祠って感じですね。不思議な場所だとは思います」

「神様がいるんですよ」

 ゆるり、と男は笑った。うっとりした物言いに、じり、と後ずさる足をなんとか止める。神主はこの祠について知らなかった。特視研究所でこちら分野が得意である海野は、調べている最中だと言った程度に、知らなかった。

 男は、確信したかのような表情で、神を思う。

「そうなんですか。不用心に訪れちゃって失礼がなければいいのですが」

 へらりと村山は笑った。頭の奥でちりちりと警鐘が鳴る。聞くな。そういう声に従うように、軽い語調を意識する。

「大丈夫ですよ、きっと。?」

「……降りますね、軽率に踏み入っちゃってすみません!」

 男の言葉に、村山ははっきりと言い切った。これだけ声量があれば鬼塚に届く。迂回すれば道路に戻れるはずなので、あの傾斜を登らない形で合流できるだろう。大股で歩き出した村山の腕を、男が掴んだ。

「神様に果実を捧げるんです。そうすると、神様が祝福するので。願いが叶いますよ」

「……それ、どなたか他の人に伝えたことはありますか?」

 まずい、と思いながらも、村山は問いかけてしまった。まるで葉の上に落ちた水滴が重力に従ってたゆむように、男の瞳は甘く、露のように甘く歪む。

「折角来たので、置いていきましょうよ」

 果実が香ってますよ。男の言葉に、村山は一度目を閉じ――それからポケットにしまっていたお守りに手を伸ばした。

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