エマに出来ることは……

 カサンドラに赤ワインをかけられ、エマのドレスの胸元には大きな染みが付いてしまった。

「あら、ドレスが台無しね。でも貴女が悪いのよ。わたくしを無視するのだから」

「忠告?」

 エマは訝しげな表情である。

「まず、エマ・ジークリンデ・フォン・リートベルク。わたくしのことは知っているわよね?」

「ええ、カサンドラ・グレートヒェン・フォン・アーレンベルク公爵令嬢」

 エマはカサンドラから目を逸さなかった。

「まあ! カサンドラ様お相手に礼をらないだなんて! なんて礼儀知らずなのかしら?」

 取り巻き令嬢の中の1人がわざとらしく眉をひそめる。

「落ち着きなさい。それより、リートベルク嬢。貴女、わたくしが『パトリック様に近付くな』と忠告をしたにも関わらず、ずっとパトリック様のお側にいるわよ」」

 カサンドラは冷たい目でエマを睨んでいる。そこでエマはパッとする。

「つまり、あの針入りの手紙の送り主はアーレンベルク嬢ということでございますね?」

 エマは怯むことなくカサンドラにそう問う。

「ええ、そうよ。ぽっと出の伯爵令嬢如きがパトリック様のお側にいるだなんて、笑ってしまうわ」

 冷笑するカサンドラ。

(やっぱりパトリック様と一緒にいる私への嫉妬なのね)

 エマは冷静だった。そしてカサンドラの取り巻きの中の1人を見てハッとする。

(あの方は、ヴァイマル伯爵家の三女だわ。……何故ほとんど関わりのないヴァイマル伯爵家から夜会に招待されたのか不思議に思ったけれど、そういうことなのね。意図的に私を孤立させようと)

 エマは瞬時に理解した。

「まあいいわ。エマ・ジークリンデ・フォン・リートベルク。これが最終警告よ。これ以上パトリック様に近付かないでちょうだい」

「嫌だとと申し上げたら?」

 エマのアンバーの目は真っ直ぐカサンドラを見据える。

「面白いことを言うのね」

 カサンドラの口角は上がっているが、クリソベリルの目は全く笑っていない。

「アーレンベルク公爵家は公爵家の中でも力がある方よ。例えば、リートベルク伯爵領で生産される乳製品を購入させないように圧をかけたり」

 その言葉を聞き、エマはアンバーの目を見開く。

「それから、ご長女のリーゼロッテ嬢は婚約が決まっていたわよね? その婚約を破断にすることも出来るのよ。それから、ご長男のディートリヒ卿との他の令嬢の婚約を阻んだりとかもね。それに、貴女、ケーニヒスマルク伯爵令嬢と仲がいいわよね? リッペ侯爵令嬢やロイス伯爵令息とも。彼女達の家を潰すことも出来るわ。貴女と仲がいいという理由だけでね」

 背筋がゾクリとするエマ。心臓の中に氷水を注がれるような感覚だ。

(この人なら……やりかねない……)

 自分だけの被害なら何とかなった。しかし、家族や友人を盾に取られてしまい、エマは何も出来なくなった。

「ようやく自分の置かれた立場が理解出来たようね。理解出来たのなら、もう2度とパトリック様に近付かないことね」

 カサンドラは勝ち誇ったようにそう言い、取り巻きと共にその場を去るのであった。

 エマはドレスの胸元の染みと、カサンドラの言葉に愕然としながら、フラフラと会場出口に向かった。

(私だけへの嫌がらせなら、私が耐えるだけで何とかなるわ。だけど……家族や友人は巻き込めない……パトリック様……)

 エマは拳をギュッと握りしめる。

「お前、いつも以上に酷い顔してんな、エマ」

 聞き覚えのある声がした。エマが顔を上げると、そこにはヘルムフリートがいた。

「ヘルムフリート……何でこの夜会に?」

 訝しげなエマ。エマの知り合いは全くいなかったので、意外に思った。

「何でって、そりゃヴァイマル伯爵家とシェイエルン伯爵家は繋がりがあるから当然だろう」

「そう」

 エマは素っ気なく返事をした。

「それにしても、お前また酷いドレス着てんな。ま、赤ワインかけられたんならもうそんな酷いドレス着なくて済むか。よかったな。ドレス汚されて」

 意地悪そうに笑うヘルムフリート。

(やっぱりこの人と話すのは時間の無駄ね。それに、今はそれどころではないわ)

 エマはため息をつき、そのまま会場出口に向かった。ヘルムフリートが後ろで何か言っている気がしたが、エマの耳には入ってこなかった。

 しかし、またエマは行手を塞がれる。ウェーブがかったブロンドの髪に、茶色の目をした令嬢がエマの前に立ちはだかる。ロミルダである。

「あの、何か?」

 訝しげなエマ。

「大した顔じゃないのに、いつもあの人に声をかけられていい気になってるんじゃないわよ!」

 ロミルダにそう罵声を浴びせられた。ほとんど癇癪に近い。

(な、何なの? この令嬢は?)

 エマはもう疲れ切っていた。

「エマ嬢」

 ふと、隣から聞き慣れた声がした。エマは少しだけ、安心感に包まれる。

「パトリック様……」

「ヴァイマル卿の長い話に付き合わされてね。大した話じゃないのに永遠と話し続けるられたからうんざりしてしまってね。途中で抜け出したんだ。それより、エマ嬢、そのドレスは……!」

 パトリックは赤ワインの大きな染みが出来たエマのドレスを見て驚愕する。エマはパッと胸元の染みを手で隠す。

「私がうっかりしていたもので」

 エマは苦笑した。

「ちょっと! まだ話は終わっていないわよ!」

 癇癪令嬢ロミルダがエマに掴みかかろうとしたが、それをパトリックに止められる。

「少しは落ち着いたらいかがです?」

 それからパトリックは癇癪令嬢ロミルダを保護者に引き渡した。

 それからエマとパトリックは会場を出て、人気ひとけのない場所へ移る。

(私さえ我慢したら、家族や友人には危害が加わらないのだとしたら……)

 エマは覚悟を決めた。

「あの、パトリック様、お話ししたいことがございます」

「何かな?」

 不思議そうに首を傾げるパトリック。

(まだパトリック様とは婚約を結んでいる段階ではない。今ならまだ解消しても両家に損害はないはず。それに……パトリック様ならまたすぐに婚約者が見つかるわ)

 エマはギュッと拳を握る。

「パトリック様、申し訳ございません。今までのお話……婚約のことを……なかったことにしてください」

 エマは悔しさや悲しみを隠し、真っ直ぐパトリックを見る。

「……え?」

 パトリックは驚愕のあまり、アメジストの目を大きく見開いて固まっている。

「……そんな……エマ嬢、どうしてだい? 僕では不満かい? 不満があるのなら絶対に直すから言って欲しい」

 エマの肩を掴むパトリック。必死な様子だ。

「不満などございません。パトリック様は、とても素敵な方です。だからこそ、私ではなく、もっと相応しい人がいるはずです。だから、私のことは忘れてください。本当に申し訳ございません」

 エマはなるべくパトリックの顔を見ずにそう言い、そのまま立ち去るのであった。

(これでいいわ。これで……)

 エマは涙を流しながら走っていた。

「そんな……エマ嬢……」

 1人残されたパトリック。アメジストの目からは完全に光が消えていた。

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