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 ――死に行く人に“花”が見えるのであれば、例えば“花”が見えた人を死ぬ前に助けられるのではないか、と考えたことがあった。私がまだ中学生の頃の話である。


 遠いテレビの中の人や、道端ですれ違っただけの人ならば助けることは難しい。でも、例えばそれが友達であったならば。その人が難病も何も患っていない、常日頃から元気な人であったなら。


 助けられるのではないか、と。幼い私は無邪気に、けれど必死にそう思い込み、ある日いきなり左頬に鈴蘭の咲いた友人にべったりとくっついて回ったのだ。中学二年生の夏休み、丁度夏期講習の日で、教室の冷房が壊れてしまって蒸し風呂のように暑かったことをよく覚えている。


 その日は朝から蝉がひどくやかましく鳴いていた。空は雲一つない快晴で、抜けるような青空から真っ白い太陽が燦々と降り注いでいた。教室は茹だるような暑さで、友人の頰に咲く鈴蘭も彼女の汗で濡れて艶々と輝き、不本意にもそれは少しだけ綺麗だと私は思っていた。雨に濡れたような鈴蘭の様子が、まるで自然に咲いているように生き生きとして見えたからかもしれない。


 私と友人は朝から順繰りに講習を受けて行って、トイレに行くのも何をするのもとにかく一緒に過ごした。最初は鬱陶しがったり笑っていた友人も、どこか必死な私の様子に、最後の方は神妙な顔で私の我儘に付き合ってくれた。


 そうして放課後までを共に過ごし、友人を無事に家に送り届けて。私は、彼女の“花”が最後まで散らなかったことに安堵しながら、自分も家に帰宅したのだ。


 ――友人が亡くなったことを知ったのは、翌日の朝のこと。彼女はその晩に自宅の階段から足を滑らせて転げ落ち、首の骨を折って亡くなった。廊下に落ちていたタオルを踏み付けてしまい、勢い付いて転げ落ちたため、ほぼ即死だったとのことだった。


 ……その一件以来、私は“花”が咲いた人を助けることを諦めた。たった一度と思うかもしれないけれど、そのたった一度が、私にはどうしようもなく重たかったのだ。


 たとえ友人であっても、朝起きてから夜眠るまで一緒にいられるわけじゃない。

 たとえ家族であっても、こんな不可解な現象を説明して行動を縛れるわけじゃない。


 私が“花”を見えることを知っている母であれば、もしも彼女自身に“花”が咲いたなら、私の言葉を聞いてくれたかもしれないけれど。それ以外の人には私はどうしたって無力で、どうしようもなく子供で、どう足掻いても“花”は理不尽な強制力を持っていた。


 “花”が咲けば、その人は死ぬ。それは変えようがない事実。


 ――だから、と。私は『旅烏たびがらす』の前まで来て、思わず足を止めてしまった。あの少女……彩羽いろはと約束をした一週間後、時刻はお昼を少し過ぎた頃合いである。約束通りであれば、彼女は既に店の中にいるはずだったが、私はどうしてもこのまま店に入る決心が付かずにいた。


 ――あの子の“花”が咲いていたら、どうしよう。


 一週間の間、考えていたのはその一点だった。彩羽の右目に咲いていた白百合の蕾。一週間前は蕾だったそれがどうなってしまっているのか分からず、私は店の前まで来て意気地を無くしていたのである。花が咲けば、彩羽は死ぬ。それを目の当たりにするくらいならば……


 ――いっそ、このまま帰ってしまおうか。


 そんなことすら思う。元より半ば一方的に取り付けられた約束だ。彼女も『来なければ一人でお茶をするだけ』と言っていたことだし、このまま彼女のその後を知らずに縁を切っても良いのではないか。そう思い、足を半歩後ろに引いた、その時だった。


「あれ、お客さんですか?」


 カラン、と。タイミング悪く開いた入り口から、私と同年代だろうエプロン姿の女性が顔を覗かせて、私を見ると朗らかに笑う。彼女の向こう側、店の奥からこちらを見た彩羽がパァッと顔を輝かせるのと目が合って、私は溜息を吐くと、「待ち合わせです」と力無く答えたのだった。



♢♢♢♢♢

 


「来てくれて本当に良かった。もう会えないんじゃないかなって少し思っていたのよ」

「……そう」


 まさに帰ろうとしていたのだ、とは言い出せず、ニコニコと機嫌が良さそうに笑う彩羽に、私は静かに頷いて見せた。メニューを見るフリをしながら彼女の顔をチラリと見ると、今日も変わらずロリータ服に身を包んだ彼女は、こちらもメニューを見ながら「今日は何にしようかなぁ」とのんびりと呟いている。その右目、淡い栗色の前髪の下にしっかりと根を張った白百合は、僅かに綻びかけているものの、未だ蕾のまま、今日もゆったりと彼女の上で揺れていた。


 ――良かった、まだ咲いていない。でも……


 私は小さく息を吐く。白百合が咲いていないことに安堵しつつ、けれど確かに前回よりは花が開きかけている様子に、背中に氷でも差し込まれたように震えが走る。やはり会いに来なければ良かったのではないか、と唇を噛んだ私に、顔を上げた彩羽が不思議そうな声で「留里るり?」と声を投げてきた。


「どうかしたの? 具合でも悪い?」

「……ううん、何でもない。彩羽は飲み物決まった?」

「えぇ。今日はコーヒーフロートにするわ!」


 ここのコーヒーフロートは美味しいのよ。嬉しそうに言う彩羽に、私も笑い返しながら軽く片手を上げて店員を呼ぶ。それに「はーい」と答えてやって来た年若い店員に、彩羽は宣言通りにコーヒーフロートを、私はカフェラテを注文した。まだ若い店員は、どことなくカウンターの中のマスターと顔立ちが似ている。親戚かな、と思いながら彼女を見ていると、店員が離れたところで、彩羽が「あの人はね、」と口を開いた。


「ここのマスターのお孫さんなの。今日はいないけど、たまにお兄さんも手伝ってるし、看板犬もいるのよ」

「看板犬?」

「ゴールデンレトリバー。だからこのお店、ペットの連れ込みもOKなの」


 ほら、と彩羽が窓際のソファ席を指差す。そちらに顔を向けると、チワワとシーズーを連れた女性の二人組が、私達と同じようにテーブルを囲んでいた。私は「へぇ」と思わず声を漏らす。


「この間は気が付かなかったな」

「あの時は他にお客さんもほとんどいなかったから」


 笑った彩羽が「留里は犬派? 猫派?」と質問を振ってくる。それに「どちらかと言うと猫派」と答えながらそのまま雑談を続けていると、先程の店員がトレーを持ってやって来て、私達を見て何故だか嬉しそうに笑った。


「お待たせいたしました。……それにしても、彩羽ちゃんがお友達連れてくるなんて思いませんでしたよ」

「え?」


 唐突な言葉に、私は店員を見ながらキョトンと瞬く。慌てた顔になった彩羽が何かを言うよりも早く、店員は「だって、」と言葉を続けた。


「彩羽ちゃん、オープン以来ずっと通ってくれてるんですけど、いつも一人だったから。別に一人が悪いとかではないんですけどね、やっぱりお友達連れて来てくれるとちょっとこう……ね?」


 なんて言うのかな、分かります? と店員に振られて、私は苦笑いで「なんとなく」と頷いて見せる。彩羽はそんな私たちのやり取りに膨れっ面になると、ビシッと店員を指差した。


「もー、余計なこと言わないでくださいよ、日向さん。お仕事中でしょ? 退場です!」

「ハイハイ」


 彩羽の言葉に、日向と呼ばれた店員はペロリと舌を出すと、配膳を終わらせて立ち去って行く。それを見送るともなしに見送って、私はコーヒーフロートにスプーンを突き刺した彩羽にチラリと視線を向けた。


「……私が初めてなんだ?」

「……そうだけど。言ったじゃない、一目惚れだって」


 どこか不貞腐れた調子で言った彩羽は、コーヒーの上に乗ったアイスを一口口に放り込む。そのまま数口咀嚼した彼女は、何とも言えない顔をした私にニンマリと笑って見せた。


「まぁ、別に信じてくれなくてもいいんだけど。それより留里、今日はこの後空いてる?」

「空いてるけど?」


 それが? と私は首を傾げる。彩羽はいつぞやの手帳を取り出すと、そこに挟まれていたチケットを私に差し出し、高らかに宣言した。


「今日はこれから、私とデートをしましょう!」


 私は、危うくカフェラテを吹き出しそうになった。

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