5
彩羽は私と出かけられることがとにかく嬉しくて仕方ないらしい。レースの日傘をくるくると回して、軽快な足取りで私を先導するように半歩前を進んでいく。その無邪気で楽し気な様子を眺めながら、しかし私の心には一抹の罪悪感が浮かんで離れなかった。それは、どうしたって見間違いにはできない彼女の白百合の”花”の存在である。
――私は、彼女が近いうちに死ぬと分かっていて、行動を共にしているのだ。そう思うと、私の心には暗澹たる黒雲が渦を巻くようであった。
勿論、彼女に”花”が咲いた原因は分からない。目の前を歩く少女は至って健康的に見えるし、そもそも彼女の”花”は未だ蕾である。経験則として、”花”が散るまでは彼女は亡くならないと分かってはいるものの、それはそれで死への道程をまざまざと見せつけられているようで、どうしたって気持ちは沈んで乱れていく。
――助けられないと分かっているのだから、これ以上接触するのは控えた方がいいのだ。私のためにも、彼女のためにも。
そう分かっていながらも、彩羽の無邪気な笑顔を見るたびに、どうしてだか彼女の期待を裏切れない気持ちになってしまう自分がいる。私は先を行く彼女を見ながら、一つ頭を振って溜息を吐くと、少しだけ足を速めてその小さな背中に追い付いた。
♢♢♢♢♢
辿り着いた水族館はこのあたりでは随分と大きいものらしく、平日の昼間だというのに人で賑わっていた。私と彩羽は優待券を使って中に入ると、正面に見える水中トンネルに二人揃って歓声を漏らす。
「わぁ……」
「……すごい」
それは、さながら水と光の共演とでも言うべき光景だった。最低限に絞られた照明の下、足元まで全てガラス張りの通路が二十メートル程真っすぐに続いている。四方を埋め尽くす仄暗い水は、しかし頭上から差し込む太陽の光で神秘的な青色に染まって、まるで海の底を泳いでいるかのように錯覚させた。鮮やかな色の海藻や珊瑚。それよりも尚色とりどりの熱帯魚の群れ。天井付近をゆったりと泳ぐマンタの腹。そして胸鰭を優雅に動かして過ぎていく海亀。
私達は過ぎる生き物一つ一つにコメントをしながら、ゆっくりと先へと進んでいく。彩羽のお気に入りはガラスにぺったりと体を張り付けたマンタらしい。「見て、ご機嫌に笑っているみたいよ」と笑う彼女の笑顔が眩しくて、私は「そうね」とただ頷いた。
水中トンネルのゾーンを抜けると、館内は更に暗さを増した。足元の照明と水槽から漏れる光だけが照らす空間を歩きながら、私達は自然と館内でも静かな方へと足を進めていく。天井から床まで壁一面を埋める大水槽のエリアを抜け、子供達の歓声が聞こえるイルカやペンギンのゾーンを横目に抜けると、やがてひっそりと隠されたように一段入口の下がった展示室に辿り着いた。
ここまでがそうであったように、彩羽が先に立って展示室へと入って行く。その小さな背中を追いかけて中へ入ると、そこは主に
「一気に見たからちょっと疲れちゃった。
「私も少し疲れたかな。……随分人が多いんだね」
「中学校の社会科見学と被ったみたい。近くの中学の制服の子達が沢山いたわ」
私は成程、と頷いた。大学進学でこちらに来た身であるので、制服事情には疎いのだ。彩羽は静かに水槽を眺める私の横顔をしばらく眺めると、「ねぇ、留里?」とどこか声音を変えて言葉を続ける。
「留里は、私が何歳だと思う?」
「……さぁ。高校生くらいかな、とは思っていたけれど」
「うん、当たってる。……学校はどうしたのって、聞かないのね」
私は思わず瞬いて、彩羽の顔を見下ろした。彩羽は先程までの私のように真っ直ぐに水槽に視線を向けている。その表情には何の色も浮かんではおらず、私は言葉の意図を汲みあぐねて「それは、」と問いかけた。
「私に、どうしたって聞いてほしいのかな」
「あら、そんなことないわ。ただ、留里はずっとそうだなって思って」
私は黙って首を傾げる。薄闇の中でチラリとこちらに目線を寄越した彩羽は、「そういうところよ」と唇を綻ばせた。
「私と会話はしてくれるのに、私個人には興味がなさそうなの。そういうところが、私は好きよ」
「……それは、どうも?」
褒められたのか、文句を言われているのか。更に首を捻った私に、彩羽はクスクスと肩を揺らして笑うと、不意にそのまま激しく咳き込んで体を折った。慌てて背中を摩ると、彩羽はしばらく口元を押さえて沈黙した後、ゆっくりと体を起こす。鞄からハンカチを取り出して口元を拭う、その顔色が紙のように白くて、私は思わず顔を顰めた。
「彩羽、具合悪かったの? 言ってくれたら……」
「ううん、ちょっと持病があるだけだから……大丈夫なの。ごめんね」
まだ少しがさついた声でそう言ってこちらを向いた彩羽に、私は思わず目を見張って凍り付く。顔色を変えた私に彼女が不思議そうに首を傾げるのにも反応できず、私はただただ目を丸くして彼女を……正確にはその”花”を見つめた。
――彩羽の右目に宿る”花”。僅かに開きかけていたものの未だ蕾であるはずのその白百合が、
息を呑んだ私の表情が余程酷かったのだろう。彩羽は心配そうな顔になると、ほっそりとした手を伸ばして、私の額に指先を触れる。私はひんやりとした彼女の手を取ると、「もう帰ろう」と低い声で言った。彩羽が不満気に頬を膨らませる。
「えぇ? 大丈夫よ。まだお土産屋さんも見ていないし」
「でも、具合が悪いんでしょう」
「さっきの咳を気にしてるの? 本当に大丈夫よ。いつものことだから、ちょっと休めば良くなるの」
本当よ、と、彩羽はこちらを安心させるように笑うと、私の手を取って立ち上がってしまう。そのまま歩き出す彼女に仕方なく従いながら、私はもう一度彼女の”花”に目を向けた。
開きかけた白百合は、彼女の歩みに合わせてふるりふるりと揺れている。その白が先程までの彼女の顔色に被るようで、私は知らず、キツく唇を嚙み締めたのだった。
♢♢♢♢♢
――そうして、私と彩羽の水族館デートが終わった、一週間後。
再び恐る恐る『旅烏』を訪れた私がいくら待っても、その日、彩羽が店に顔を見せることはなかった。
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