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 その日は大学の講義が急遽休講となり、私は暇を持て余して近くの河原まで散歩に出掛けていた。


 高校卒業後、大学進学を機に一人暮らしを始めた私は、大学から程近い安アパートに居を構えている。築三十年、今時オートロックもないアパートの二階は女性の一人暮らしには些か不用心だったが、とにかく利便性が良く日当たりも良いので、私はこの部屋をとても気に入っていた。


 アパートの近くには小さな川が流れ、河原には桜並木が広がっている。丁度数日前に満開を迎えた桜は、小ぶりながらも見応えは十分だ。私はパーカーにデニムというラフな格好でぶらりぶらりと歩きながら、桜と青空の対比を眺めて進む。人に咲く“花”が見えても、否、見えるからこそだろうか。私は自然に咲く花々が好きだった。


 ――どうして日本人は河原に桜を植えるのだろうか。私は考える。例えば東京の目黒川。京都の鴨川。桜の名所と言われる場所には、近くに川が通っていることも多い。日本がそもそも川が多い国だと言ってしまえばそれまでだけれど、桜と川の組み合わせは割と多くの日本人がイメージする桜の風景なのではないかと思う。


 散り行く桜と流れる川の風景が美しいからかもしれないな、と、私は空を見上げていた顔を川面へと落とす。川面には既に淡い白色の花弁が絨毯のように降り積もり、ゆらゆらと波に揺られては仄暗い水底を覗かせていた。


 ――あぁ、もうあんなに散っている。私は僅かに目を細めて水面を眺める。


 桜は兎角散るのが早い。満開になる前から花が散ることもままあるし、満開になってしまえば一週間も経たずに花は全て地面に落ちてしまう。

 ぼんやりと川面を見下ろしていると、唐突に吹きつけた春風に目の前が一面の白に染まった。砂混じりの風に、私は思わず腕で顔を庇う。

 ザザァ……と、衣擦れのような、雨のような音が耳を満たす。頬に花弁があたる柔らかな感覚にそっと目を開けると、まるで通り雨が降ったかのように、白い花弁が河原の土手も行く道も濡らしていた。

 私はそっと体をかがめると、がくごと落ちてしまった桜を一輪摘み上げる。重さを感じさせない花は、私の持ち方が悪かったのか、一度指先で触れただけで花弁を一枚散らしてしまう。ヒラリと舞った花びらを慌ててもう片方の手で受け止めた瞬間、くすりと笑う声が私の耳に届いた。


「そのまま散らせてしまえばいいのに、おかしな人」


 軽やかな声が何を言っているのか、私は一瞬分からなかった。そもそもどこから声がしたのかと顔をうろうろと彷徨わせると、「こっちよ」と明るい声が私の右斜め後ろから聞こえてくる。そちらに顔を向けた私は、けれどすぐには言葉を返せずに、瞠目してその声の主を見つめた。


 そこにいたのは、薄桃色の日傘を差した一人の少女だった。年は高校生くらいだろうか、柔らかな栗色の髪をふわふわと巻いて背に垂らし、肩からは大きなトートバッグを提げている。ロリータ服というのか、服装はフリルが大量についたワンピースで、膝丈のスカートの下からは白いタイツが覗いていた。くるりと彼女が傘を回すと、こちらもフリルたっぷりの傘から白い雨がパラパラと舞い散る。彼女は私と目が合うと、その大きなはしばみ色の瞳をそっと細めて、猫のように笑った。


「こんにちは、暇そうなお姉さん」

「……こんにちは、そちらも暇そうなお嬢さん」


 とんだ挨拶に思わず苦笑してそう返すと、彼女は「あら失礼ね」とわざとらしく頬を膨らませて見せる。そういう仕草が似合う程に少女は整った顔立ちをしていたが、しかし私が瞠目したのはそれが理由ではなかった。


 ジッとこちらを見つめてくる榛色の瞳。その形の良い二重の瞳は、私からは


 ――白百合、だろうか。


 胸中で呟く。実に珍しいことに、彼女の右目からは、右目全体を覆うように宿っていたのだった。


 “花”を宿している人と会話をすることは、数年に一度あるかないかである。私は努めて動揺を隠しながら少女を見返すと、「それで?」と首を傾げた。


「私に何か用事でも?」

「いいえ、たまたまあなたがそこにいたから声をかけてみただけよ」


 何だそれは、と私は面食らう。少女はそんな私の顔を見て声を立てて笑うと、「でもね」と言葉を続けた。


「今、丁度退屈していたところだったの。ねぇお姉さん、そこのカフェでお茶にしない?」

「……女の子からナンパされたのは初めてかな」


 じゃあ貴重な経験ができたわね、と少女はまた笑う。彼女はこちらの返事を待たずにするりと私の横を抜けると、川縁にあるオープンテラスのカフェへと歩いて行った。私は数秒追うか悩み、結局は少女の背中を追って歩き出す。考えるのは、彼女の右目に宿る白百合の“花”のことだった。


 ――まだ蕾のままで“花”がつくところなんて、見たことがない。


 であれば、あの“花”はこれからどうなるのだろうか、と。些か悪趣味にも思える興味と少女自身への僅かばかりの関心を抱きながら、私は少女の後に続いて店へと入る。入る間際、りガラスに彫り込まれた『旅烏たびがらす』という店名が、チラリと視界に入った。

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