白百合の君
アルストロメリア
1
私が初めて見た“花”は、今にも枯れ落ちてしまいそうな一輪の椿だった。
真っ赤な花弁は盛りを過ぎて端が茶色く
私は椿をジッと見つめながら、繋いだ母親の手を引く。子供心に、あの花のことを大きな声で言い立ててはいけない気がして、私はこちらを向いてくれた母に小さな声で訴えた。
「ねぇ、お花が枯れちゃいそうだよ」
母は、私の言葉に何故かひどく驚いたようだった。目を丸くしたかと思うと、すぐに真面目な顔になって、私の肩を抱いて部屋の外に出る。リノリウムの廊下をキョロキョロ見回した母は、その場に私達しかいないことを確認すると、私の肩に両手を置いて、目線を合わせるようにしゃがみ込んだ。その顔はいやに真剣で、私は叱られる時を思い出して思わず身を竦めてしまう。しかし母はそんな私に構うことなく、何度か息を吸い込むと、やがて意を決したように口を開いた。
「
私は母の真剣な顔の意味が分からずに、それでも問いかけられたので素直にこくりと頷いた。それはごく当たり前に見えていたものだったので、私はそれがどれだけ異常なことか分からなかったのだ。
分厚い引き戸の向こう側。先程までいた部屋の中には、もう長いこと寝たきりになっている祖母がいた。彼女の体には沢山の管と機械が繋がれていて、もうそろそろ死んでしまうということは私にも何となく分かっていたから、ここ最近は毎日のように母に連れられて見舞いに訪れていた。
そんな祖母の、以前と比べれば随分と小さくなってしまった体の上。正確には、
母は不思議そうな顔をする私に深く溜息を吐くと、やはり真剣な声で言葉を続けた。神妙な雰囲気に、私はキツく掴まれた肩の痛みを伝えることもできず、ただ黙って母の顔を見返す。
「あのね、留里。おばあちゃんの顔に見えた椿のことは、誰にも言ってはいけないよ」
どうして、とか、そんなことを聞いたように思う。何分幼い頃のことであるので、細部の記憶が今一つあやふやなのだ。だが、その後に母が言った言葉だけは、私は今でも一言一句違わずに思い出すことができた。
母は、私の目を真っ直ぐに見つめたままに、確かにこう言った。
「あの花は、もう死んでしまう人の顔に見える花なの。あの花が見えるということは、『あなたはもうすぐ死にますよ』と教えてしまうことなんだよ」――と。
果たして、その数時間後に祖母は死んだ。ピー、ピーと甲高い音を立てる機械の傍ら、眠るように死んだ祖母の顔からは、もう役目を終えたのだというように、すっかりと茶色くなった椿の花が、ポトリと床に落ちたのだった。
♢♢♢♢♢
――それ以来、私は年に数度の間隔で様々な“花”を人の顔に見るようになった。
それは例えば、道行く老人に咲く撫子の花であったり。
それは例えば、授業参観に訪れた友達の保護者に咲いた向日葵であったり。
それは例えば、テレビのニュースキャスターに咲いた彼岸花であったり。
咲く花の種類も、場所もまちまちではあった。祖母は顔の真ん中に咲いていたけれど、老人の撫子は耳の上に咲いていたし、保護者の向日葵は頭の上に髪飾りのように咲いていた。ニュースキャスターの彼岸花は口元で、彼が話すたびにモゴモゴと“花”が揺れるのが、まるで“花”を食べながら話しているようで何とも滑稽であった。
だが、“花”が咲いた彼等はじきに死んでしまうのである。老人のことはよく分からなかったけれど、保護者のことは翌日に担任の先生から教えられたし、ニュースキャスターは数日後には別の人に代わっていた。そのあたりで私は、母がどうしてあんなに真剣な顔になったのか、薄らと理解できるようになっていた。
――だって、こんなのはまるで死神みたいだ。
死んでしまった人に“花”が咲いていた、ならまだ薄気味の悪いものを見たで済んだだろう。だが、私の場合は『これから死に行く』人に“花”が咲いて見えるのである。それでは私が死を預言しているような、いや、ともすれば
そうして、自分の異常な目とどうにか折り合いを付けて生活をしていた、私が二十歳になって少し経った、とある春のこと。
私は、片目から百合の花を咲かせた少女と出会った。春風が強く吹き付ける、よく晴れた昼下がりのことであった。
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