9  部活対抗リレー、走る

 体育祭の日は快晴となった。

 人工芝のグラウンドに、テープの魔法(貼る)で、当日だけのトラックが出現する。

 トラックを囲んだテントには、赤、緑、黄色の3色に色分けされた縦割りの生徒たちが集ったところだ。

 平日の行事だから保護者の参加は少ないが、観覧席もテント2つ分は用意されている。

 『人工芝保護のため、ヒールの靴はご遠慮ください』という保護者母向けの事前通達があかつきほし的だ。


 亜紀の記憶では運動会と言えば、保護者も走り出す格好の人しか見たことがなかった。今日の保護者席を見て、別世界に来たと実感した。

 暁の星のお母さまは、かろやかにワンピースの裾を揺らしていく。


 で、心配の部活対抗リレーは午前中最後の競技だった。

 リレーに出たことない人優先、アンカーは部長という伝統だ。


(あ~~)

 今にも消え入りそうにしている亜紀の背中を、奥山おくやまは、ぽんと、たたいた。

「行くよ」


(ううぅ)

 恥ずかしさに、亜紀はうつむく。

「かわいいわよ。ハイジ」

 奥山は丸く頬紅をさした亜紀のほっぺを、つんつんした。


 今年の部活対抗リレー、美術部のテーマは『アルプスの少女』だった。

 1番走者は堺真人さかいまひとで黄色い帽子のぺーター。

 2番走者は森夕貴もりゆうきで、山羊のユキちゃん。たぶん、ゆうきとユキが、かけてある。

 3番走者が亜紀。ハイジ。

 アンカー、奥山は綿ワタのつけひげで、おんじに仮装していた。


「奥山部長。なぜ、クララじゃなく、なんですか」

「クララが立ったうえに走ってどうするの」

「入場門にいる時点で、私たち、もう笑われてますよ」


 近くで黄色い歓声があがった。そっちを見ると茶道部隊がいた。

 女子は浴衣を短めに着付けて、惜しみなく生足を出していた。その中に、浴衣着流しの小日向こひなたがいる。着なれているのだろう、ちゃんと腰の低いところで帯を締めている。

 かっこいいこと、このうえない。

 まわりの女子が、きゃあきゃあ、はしゃぐこと。

 

「奥山部長、リレーの前に笑いに走りましたね」

 茶道部の仲村なかむらが、涼やかな視線を送ってきた。


「あーら。茶せんより重いモノ、持ったことがない姫サマが走れるのかしら?」

 奥山が言い返している。


「部長同士のリレー前の掛け合いは、名物だから」

 いつの間にか、そばに小日向が来ていた。

「う」

 亜紀は小日向の視線をかわそうとした。

「——の少女なんだ」小日向は、がっつり亜紀を笑ってきた。「再現度、高い。さすが美術部」


(めちゃ、はずかしい!)


「おーす」

 そこへ、青木が剣道着に竹刀しないを肩に置いて現れた。

「青木君、剣道部?」見たまんまの亜紀の反応に、「これで水泳部とか言うわけないだろ」、青木は返した。


「さ。そろそろ、はじまるよ」

 小日向が、ふたりをうながすと同時に、放送部のかるめのアナウンスが入ってきた。

「それでは~、午前演目のシメは、部活対抗リレーで~す」

 亜紀は、走らにゃいかんこと最大目的を思い出した。


 

 ぱぁん。 

 ピストルの音で、おもしろ部門のリレー第1走者が走り出すと、もう歓声が沸いた。

 トップは吹奏楽部だ。管楽器、持っているのに速くないか。

「吹奏楽部、肺活量を鍛えるために、かなり走り込んでいるから」

 奥山は柔軟体操に抜かりがない。

「最下位争いは、たいてい茶道部と美術部なんだよねー」


「それ、負荷が強すぎるからじゃないですか」

 亜紀は奥山の脇に置かれたイーゼルを、じっとりとながめた。


 6号、410×かける318ミリのキャンパスまでイーゼルに固定してある。キャンパスに描かれているのは、死してのち有名になった画家の『画商のじいさん』の模写である。

 この模写は中等部1年、堺の手になるものだ。元の絵を微妙にはずしたタッチ。自覚しているのか? 無自覚なのか?

 おそらく、堺は森にひきずられるように美術部に入ったのだろう。その堺の模写を、この場で披露する奥山の奥深い心根を感じる。


(でも、ぺーター、けっこう、早い)

 大きな体を生かした、のびのびとした走りを堺はしていた。日頃の猫背がウソのようだ。


 森は見た目通り、はしっこい。

 亜紀は森からバトンを受け取って、前を走る茶道部の女子走者の後を追いかけ、どうにか転ばずに奥山にバトンを渡すのが精一杯だった。


「よしっ」

 奥山はイーゼルを抱えて、前を走る仲村を追いかけていった。茶せんしか持ったことがないはずの姫は、見事なストライドをかましていたが、奥山はあきらめていない。ぎりぎりまで追いつめる。本気なのだ。


 ひときわ高い歓声が空に、こだました。




 きゅい。

 体育館横の外の水道栓を上向きにしてひねると、勢いよく水が出た。亜紀は、ばしばしゃ顔を洗う。

(あ~、すごかったな。奥山部長と仲村部長のデッドヒート)

 奥山が貸してくれたクレンジング剤で、亜紀はメイクを落とした。


「――生徒の皆さんは」

 法送部のアナウンスが、ほわりと青空に響いている。

「――昼食を終えましたら、すみやかにグラウンドに集合してください」


(リレー、終わったら肩の荷降りたよ。ようやく、ご飯、のど通る)

 ほっとした亜紀に、呼びかける人がいた。


「亜紀~」


 亜紀は驚いて振り向いた。

 そこに、母が立っていた。



「お、かあさん」

 びっくりすると固まるんだ、と己を知る。


 父は今日、どうしてもはずせない会議があるから休めない。だから母も来れないと一昨日おととい、連絡をもらっていた。


「驚かせようと思って。あらぁ、まだ、ぬれてるわよ」

 亜紀の母は、エナメルと艶消し皮のコンビバックからハンカチを取り出すと、娘の顔をぬぐおうとした。

「い、いいよ」

 思わず、亜紀は後ずさった。

 そのそばを中等部の面々が、きゃいきゃいと駆けて行った。


「楽しそうね?」

「ん」

「亜紀の走り方って、ぱたぱたしててアヒルみたい。小学校の徒競走を思い出しちゃった。あのときは転んだのよね」


「あの。わたし、お昼、今からだから。ごめんね。行くね」

(今、言う? 転んだの、何年前の話?)

 心がきしむ。


「行ってらっしゃい」

 母は胸の前で小さく手を振った。

 ちらっと、それを1回見て亜紀は校舎へ向かった。

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