10  S O S

 体育祭は亜紀たちの黄組が優勝した。

 1年Cクラスの面々は、めちゃくちゃ、よろこんだ。


 そして、亜紀が今、タクシーの中から見る学校礼拝堂は夕日の色に染まっていた。

 亜紀と母の乗ったタクシーは坂道を徐行で、バス通りへとくだっていく。下校の生徒を何人か、ゆっくりと追い抜いた。


 体育祭が終わって、オーロラ寮に戻ったら玄関のところに母がいた。

「外出届、出しておいたわ。いっしょに夕食、食べに行きましょ」

 タクシーが、もう来るとせかされて、亜紀は急いで学校鞄を個室に放り込んできた。


「駅前で食べよ」

 母がタクシーの運転手に告げたのは新幹線が停まる駅で、学校寄りの在来線の駅ではなかった。

「バス停が、もっと近ければいいのにね。坂道だし、ここ」

 確かにあかつきほしは丘の上にあり、バス通りまでは微妙に距離がある。駅に行くバスに乗るには、道路の向こう側に渡らなければならないし。


「——美術部って、いつもあんな恰好してるの?」

 母が言っているのは、部活対抗リレーのことだ。


「ううん。体育祭を盛り上げる伝統なんだって」

「そうよね。まさか、いつもあれじゃあね」

 かるく見下したような色を、母の声は含んでいる。

「ん」

 亜紀は昔から、それが苦手だった。


「——テストの結果、国語、まぐれでもよかったわね。数学は、やっぱりダメねぇ」

「ん」


(できたら、運転手さんに聞かれたくない)

 亜紀は声が小さくなった。


「返事は、はいでしょ」

「はぃ……」


 そのうち、駅前に着いた。

 母はタクシーから降りて、駅構内に歩いて行く。

「なんだか、わかりにくい街よね」

 母の固い靴音のあとを、亜紀はついていった。

「何、食べよっか?」

 駅とつながっているビルはショッピングモールだ。一部がレストラン街になっているようだ。


「お寿司とか」

 寮では生物は出ないから、食べたいかと言えば、亜紀は食べたかったかもしれない。


「ふーん」


(ダメっぽい)

 亜紀は、母の顔色をうかがった。

「パスタとか」


「そうね」

(青信号だ、進め)


 レストラン街に行くと、生パスタのお店があった。

La vita è bellaラ ヴィータ エ ヴェッラ』、漆喰しっくいの壁に、アイアンサインで店名が書いてあった。


「よさそうじゃない?」

 母のお眼鏡にかなったようだ。

 

 赤白ギンガムチェックのテーブルクロスのかかった丸テーブルで、サーブされた水は果物の香りがした。


「——お父さんたら、亜紀の学校行事の日くらい休んでもいいのにね。仕事人間だから」


「体育祭、平日の行事だし」

 そう言えば、山崎由良いあまさきゆらのところは、両親そろって来ると言っていたのを亜紀は思い出した。親は自営だし、平日休みだし、地元だし、だそうだ。

「いいよ。おとうさんが働いているから学校、行けるんだし」

 運動の苦手な亜紀にとって、見せ場はないし。


「そうよね。お母さんも、お父さんが働いているから主婦できるんだし」

 母は、パスタ・アッラ・ノルマ、なすのペンネを頼んだ。ショートパスタだから、さっさと食べ終わり、おかわり自由なフルーツウォーターを飲んでいた。


 亜紀が注文したのはカルボナーラスパゲティだ。思ったより大盛りで格闘していた。


「相変わらず、食べるの遅いね」

「……ん」

「水、おかわりしてくるわ」

 母は、席を立った。


 亜紀はカルボナーラをフォークにぐるぐる巻きにして、口に押し込んだ。



 イタリアンレストランを出たのは19時前だった。

 新幹線の改札口まで母を送っていった。

「今日はありがとう」 

「勉強、するのよ」

 母は改札を抜けて行った。


(こういうとき、お母さんは、絶対、1回、振り返る。振り返って、もし私の方が先にいなくなっていたら、あとで礼儀がなってないと怒られる。ほら、振り返った)

 だから亜紀は母が見えなくなるまで見送る。


(……帰ろ)

 その時、気がついた。

(あれ? 私、どうやって帰るんだっけ?)


 さらに気がついた。携帯は舎監室。財布は学校鞄の中。寮の個室に放り込んできてしまったことに。


 駅の雑踏の音が大きくなった。




 それから、30分ほど後のことだ。

 駅前の交番にペッパーホワイトの色の車が横付けされて、桐野きりの先生が降りてきた。

「白井さん!」


「すいません。その」

 交番の中にいた亜紀は、パイプ脚の丸椅子から立ち上がった。


「ありがとうございました」

 交番のお巡りさんに、桐野先生は丁寧にお辞儀した。

「いや、あかつきほしの生徒さんなら大歓迎ですよ! 桐野先生!」

 お巡りさんは、ちゃっと敬礼して見せた。気のせいか耳たぶが赤い。


 桐野先生は車の助手席のドアを開け、亜紀に乗るようにうながした。お巡りさんは、わざわざ表に出てきて見送ってくれた。

 亜紀は、お巡りさんに何べんめかのお辞儀をして車に乗り込んだ。


 車が走り出して、ようやくほっとした。

「お巡りさん、すごく親切でした。桐野先生のこともご存じでした」


「あの巡査長には、駅前の生徒指導でお世話になっているから」

 車は、日の落ちたバス通りを進む。桐野先生の走りはクールだ。

「——白井さん、ここの土地カンないでしょ。保護者からの外出届だったので、帰りも送っていただけるとカンちがいしたわ。こちらのミスです。ごめんなさい。交番で電話を借りてくれてよかった。携帯スマホも財布も持って出なかったのね」


「失敗、しました」

 亜紀は苦笑いしてみせた。


「交番に行ったのはベストでした」

 桐野先生は日本語英語もネイティブの発音だ。


「小学生の時に登校する道に〈こども110番ひゃくとーばん〉って旗が立っているうちがあって。困ったら駆け込んでいいんです。交番にも、その旗が立っていたから」


「そう」


 『そう』が『SO』だ。桐野先生は。



 



 その夜のことだ。

 三原みはらなつめの携帯電話が鳴った。

 携帯の画面に出た名前を見て、なつめは風呂上がりの素っ裸にバスタオルひっつかんで電話に出た。しかも正座。


桐野きりの先輩」

『なつめ。今、よかったかしら』

「もちろんです」


 もちろんじゃないと思う。

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