8  放課後デッサン 〈青木の想うこと〉

 放課後。

 亜紀は1年Cクラスの教室にいて、黒ナイロンのトートバックからクロッキー帳を取り出した。

 男子2名の前でひっくり返って以来、放課後の教室でデッサンはしていなかった。

 けれど、教室の光の加減の誘惑に抗いがたく。 



「――さん、白亜紀はくあきさん」

 やわらかな声がする。

 亜紀は意識の水面みなもに、ゆっくりと戻された。

 その人は亜紀をおどかさないように、小声で名前をくり返してくれたらしい。


白亜紀はくあきさん、久しぶり」

 小日向こひなただった。

 Aクラスで茶道部で、青木君の友だち。


 亜紀の机から、ふたつ前の席に座って、こっちを見ていた。

 亜紀は手を止めない。自分の右手を描いている。

「はい……」

 自分の右手越しに小日向を認めてはいた。


「ぼくの方は見ないんだね。取るとこないから?」 


 亜紀は一瞬、鉛筆を止めて小日向を見た。

「小日向君を描くとしたら、淡い光の束になる。見ないでも描ける」

 思っていたことだった。


「……」

 亜紀の言葉が抽象的過ぎたのだろうか。小日向は黙った。


「あ、でも」

 机の上に置いた小日向の手が、亜紀の目に入った。

「左手、描きたい。自分だと、いつも右手しか描けない」


「そうだね」

 小日向は、ちょっと笑った。


「そこ、座っていい?」

 亜紀の前の机の椅子をひっくり返すと、小日向は座って左手を差し出した。

 亜紀は黙ったまま、デッサンをはじめた。小日向も黙ったまま、亜紀の鉛筆の動きを見ていた。

 その日は30分ほど、そうしていたと思う。



 次の日だったか。

「白井さん」

 亜紀は、山崎由良やまさきゆらを含めた女子に囲まれた。

「小日向君が放課後、白井さんの絵のモデルをしてるよね」


「そうなの?」

 亜紀は疑問形で返した。

「白井さん、天然~」

 由良がつぶやいた。


 ひとりの女子が、がばと亜紀に懇願のポーズをとる。

「お願い、次のときは私の席に小日向君、座らせて!」

「私も!」

「私も!」


「う、うん?」

 勢いに押されて亜紀はうなずいてしまった。



 ところが、その日の放課後は、ひとりになれなかった。

 青木が居残っていた。

「白井さん、今日、クラスの女子に吊し上げ、くらってなかった?」


「あれはちがう……」

 はたから見たら、そう見えたのか。亜紀は恐縮した。


「ならいいけどさ」

 青木は亜紀の前の席に来た。

「小日向、ここに来てるんだ?」


「1回」

 亜紀は、そわそわしている。そろそろデッサンをはじめたかった。


「はい」

 青木は机にひじをつけて、左手を亜紀に差し出した。


(これは)

 とまどいながら亜紀は青木を見る。

 それから、がっと、左手で青木の左手を握りしめた。


「いや、腕ずもう、じゃない」

「ですよね」


「描いていいから」

 青木は、うなだれた。

「白井さんのモデルになってやってもいい」

 言いながら、超はずかしかった。


「い、いいんですか」

 亜紀は息を大きく吸って、瞳を輝かせた。青木が亜紀とはじめて目が合った時の、あの表情だ。


(ぜってー、これは惚れられたと思ったんだけどな)

 今も亜紀は、ちょっと上気して青木を見つめている。

(カンちがいするだろ。そういう目は!)


「ふふ~」

 亜紀から笑みがこぼれた。

「脱いでもらっていいですか」


「え」と、青木は、すくんだ。


「上履きと靴下。脱いで。アキレスけん、見せて」


「アキレスけん……」

(そうだった。オレ、惚れられているんだ。『鎖骨、手首、アキレスけん』に)


 脱力する青木に、「感謝~」、目の前の〈ゆるキャラ女子〉は、本当にうれしそうだった。

(ゆるキャラ)

 青木は小日向の言っていたことに、付け加えた。

(の仮面をかぶったSえすの女王さま)



 そのまま、放課後の教室に亜紀の鉛筆の走る音だけがして、10分ほどたった。

 かたん。

 物音がして、いつの間にか小日向が来ていた。


「——お、小日向、来たぞ。白井さん」

 青木は引こうとした。


「いいよ、続けて」

 小日向は邪魔をする気はなかった。手近な席に座ろうとした。

 だが、亜紀がクロッキーノートから顔を上げていた。

「その席じゃない――」

「ん?」


 亜紀は席から立つと、小日向に駆け寄った。あわあわと小日向の両袖をつかんで誘導しようとする。

「青木君。Aさん、Bさん、Cさんの席、どこだった? 小日向君が来たら、椅子に座ってもらわないと——」


「白井、おまえ、律儀だけどクラスメイトの名前、覚えてないな?」

 青木は呆れた。


「何? 何かの、おまじない?」

 小日向は、もう笑いかけている。


「たぶん、小日向と両想いになる、おまじないだ」

 本当に、こいつ、中等部の頃からモテやがって。青木は眉間にしわを寄せた。


 小日向が、女子に告白されるピークは中3だったか。どの子にも、「ぼくは在学中は勉学に専念したいんだ。君に魅力がないとか、そういうんじゃない。できたら、よい友人でいてほしい」と、ていねいに断っていた。 


「女子の考えることって、おもしろいね~。ぼくと両想いになって、何の得があるんだろ?」

「てめ、いっちいち、カンにさわる……」


 青木も、そこそこ、いい感じの男子のはずだが、モテすぎる友を持つと、引き立て役かボディガードのような扱いだ。

 最近では、「あの、ふたり、アレなんじゃない」と、別方向の視線すら感じる。それを、また、小日向はおもしろがっているから始末に負えない。

  

「もうめんどうくさいから適当に座ってもらえばいいよね!」

「よし!」

 青木は白井の意見に同調した。


(ま、ともかく、誰かと両想いになれ)

 とりあえず念じておいた。

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