第53話 ラストショー

 遠くに観覧車が見える。オープニングショーとヒュージ・ホイールが終わり、空中ブランコを披露しているあたりだろう。


 今気づいたが私には何の道具もなかった。赤い鼻すらもない。本当に素顔のままでステージに出るしかない。路上パフォーマンスとは違う。化粧をしない生身の私を観られることは怖いけれど覚悟はある。暴漢に襲われかけ、海で死にかけた経験から見たら些細なことに思える。


 遊園地の駐車場に車が停まる。


「スタッフに言っておくからショーを観に来て! 今日しか観られないから!」


 走り去る間際の私の台詞にオーロラは躊躇いなく頷いた。


「観に行くわ、きっと」


 『バザイラム・ランド』の入り口を入ってすぐのところに建つサーカステントが見えてきた。中から大きな拍手と歓声が聴こえてくる。


 テントの裏から中に入る。作業していたスタッフの女性の1人が驚いたように私を見た。私が生きて現れたことに驚いたのか、それとも女性だと知り驚いたんだろうか。正直どちらでもよかった。今はそれどころではない。


「受付の人に伝えて、私の大切な人が観にくるから、テントの中に入れてあげてって!」


 彼女は頷いて裏口を出て行った。


 女性用控え室に入る。中にいたジュリエッタとシンディが私の顔を見てフリーズしていた。


「ネロ……あなた……生きてたの?!」


 ジュリエッタは涙を流して私を抱きしめた。シンディも泣いていた。


「髪が長いあなたも素敵よ」


「ありがとう、ジュリー。会いたかった!」


 シンディが皆を呼んできた。ルーファスとジャンが駆け寄ってきた。出番を終えたミラーとアルフレッドも。


「生きていたか……よかった、よかった」


 ルーファスが顔をくしゃくしゃにして私を抱きしめ背中を叩いた。彼が泣いている姿を初めて見た。


「てっきり死んだと思ってたよ」とミラーが言いジュリエッタにハリセンで頭を叩かれていた。それを見たアルフレッドが涙を拭って笑った。


「ネロ!!」


 ルチアが駆け寄ってきて私に抱きついた。ジェロニモもやってきてハグをした。ヤスミーナも続いた。遅れてトムとホタルも。2人はずっとイギリスで動物たちの世話をしていたが、最終公演に合わせてイギリスたら飛んできたらしい。


 他の団員やスタッフも集まってきた。懐かしい顔ぶれを前に涙が溢れた。こんなに自分が泣き虫だったなんて旅を始めてから知った。


「皆、心配かけてごめん。突然辞めたりして迷惑かけてごめん。そして……皆に謝りたいことがあるの」


 皆の視線が集まる。


「私、本当は女なの。男の子でいることが心地よくて、ずっと男の子のふりをしてたの。ずっと自分を偽って、皆のことを騙してて本当にごめん!!」


 仲間たちは互いに顔を見合わせて言葉を探しているようだった。嫌われたらどうしよう。怒られたらどうしよう。マイムショーでは当たり前だった沈黙が今はすごく怖い。


「気づいてたぞ」


 沈黙に耐えかねていたらミラーが真っ先に口を開いた。


「……マジ?」


「ああ、だってお前普通に女物の下着ベッドに置きっぱなしにしてるし。同室なら気づくよ」


 心なしかミラーは気まずそうに鼻を擦った。

 

「皆気づいてた、でもわざわざ触れることでもないしと思ってたんだ。身体が女でも心が男だっていう人間もいるしその逆もいる。そうじゃなくても異性の姿をするのが好きな奴もいる」


 ルーファスが言った。皆もうんうんと頷いた。


「あなたはあなただしね」とジュリエッタが微笑み、「女の子のあなたも好き」とルチアが顔を赤らめる。


 ジュリエッタは「そうだ!」と思い出したように言い、控え室の隅の揺り籠から白い布に包まれた赤子を抱き上げ持ってきた。すやすやと眠る、少しだけ顔が人間の様相を呈してきたその赤子を見たとき、言葉に詰まり涙が溢れた。


 そっと赤子を胸に抱く。不可思議な愛のような温かい感情が湧き上がってくる。イスラエルで感じた、この子をどうしても守らなければという強い決意にも似た感情を思い出した。


「女の子よ、名前はまだ決めてない。あなたがあとで付けられるようにね。あなたの子だから」


 ジュリエッタが言った。母のように優しい目が涙で潤んでいた。その眼差しだけで、彼女がこの子をいっぱい愛してくれてきたことが伝わってきた。


「毎日毎日夜泣きが凄くて大変だったよ」とジェロニモが頭を掻いた。


「でも今んとこ病気もしてねーし、健康なんじゃね?」とミラーがぶっきらぼうに言う。


「いいうんこをしてるしな」とトム。


 彼らが戸惑いながらも必死に育児に協力してくれていたことが目に浮かび、笑顔が溢れた。


「今まで彼女を守ってくれてありがとう、本当に……」


 珠のような赤子の顔を見つめる。彼女はまだ眠り続けている。起こしては悪いな、と揺籠に戻した。


 ホクは来ないのかな。


 失望していたらドスドスと音が聞こえてきた。控え室を飛び出すと通路に腰蓑姿のホクが立っていた。皆も飛び出してきてホクにハグをした。


「ホク、来てくれたんだ!」


 ホクは頷いた。


「キタ。デバンハ、マダ?」


 辿々しい英語で喋るホクの声に今世紀最大にびっくりした。


「お前喋れたのか」とルーファスが真顔で言った。皆も私の衝撃の告白よりホクが喋れたことに遥かに驚いているようだった。


「英語、ウマカ、ナクテ」


「上手くだろ」とミラーが突っ込み皆が笑った。ホクが喋らなかったのは、英語に自信がなかっただけなのだ。


「そうだ!」


 今度はジェロニモが隣の男性用控え室に戻り私のリュックとオレンジの鞄を持ってきた。


 何でこれがここに? 


 尋ねる間もなくジェロニモが説明を始めた。


「これ、昨日差出人不明でロンドンの郵便局に届いたんだ。お前のだろ? お金と道具が入ってる」


 これを送ってくるとしたらミハイルしか考えられない。私がこのサーカスに入っていたことは言っていなかったはずだが、どこで知ったのだろう?


「出るんだろ?」とルーファスが訊いた。私は迷わず頷いた。


「うん、だけど少し打ち合わせが要るかもしれない」


「大丈夫だ、まだ時間はある。ファイヤーショーを間に挟んでクラウンショーを最後に回せばな」


 控え室で音響や映像機器を扱うスタッフ数人と打ち合わせを行った。赤鼻以外のメイクはしないつもりだった。


 太鼓の音色が心地よく響く。ホクのショーが始まったのだ。打ち合わせが早足で終わると私は準備を済ませエントランスに駆けつけて、リングの上で炎の銛を振るい舞うホクの勇姿を見つめた。彼の演技は以前より衰えるどころか力強さが加わり、観ている者の興奮を煽るに足るものだった。


 ホクのショーが大歓声のうちに終わり、彼が戻ってくると私の出番だ。ホクが私の肩を叩いて親指を立て、"Le‘a kulou a ka lawai‘a、ua mālieイ・ホレ・イア・ノ・カ・イエ・イ・ケ・カウ・オ・カ・ラー" と言った。そのあと「英語デ、タノシモウトイウ、意味」と付け足した。


「ありがとう、楽しんでくるわ」


 私はアーチ型のエントランスを潜り、リングに足を踏み出した。


 リングの手前、エントランス前に大きなスクリーンが降りてきて、流星群が一斉に降り注ぐような映像が流れる。


 そのあとで私の幼い頃の映像が流れる。家のソファで動物たちとトークショーを繰り広げるあのDVDの映像だ。


 私の声とアフレコが響き渡り、観客席から温かい笑いが漏れる。


 映像が終わると私はマイムを始める。背後から光が当たるために、私の姿は観客席からは黒い影が動いているように観える。


 ボールを追いかけて走り、ドリブルやヘディングをする私。だがやがて楽しくなくなり、リングの真ん中で立ち尽くしてがくりと首を垂らす。


 バレエをする私。爪先を立てて両腕を広げ、くるくると回ってみせる。でもまたすぐにつまらなくなり、落ち込んで膝を抱えて座り込む。


 手を曲げて動かし列車を表現する。梯子を登るように手脚を曲げて動かし、列車に乗り込む動作をする。


 次はサーカスに出会ったあとの私だ。ジャグリングをし、傘回しをする。しかし自分自身が分からなくなり絶望し、頭を抱えてリングに頽れる。


 沈黙が流れる。


 私はある日ついに逃げ出す。走る、走る、走るーー。


 兵士になったつもりで力一杯レバーを引き、大砲を撃ち上げた体で手のひらを額にあてて空を見上げる動作をする。


 泣き叫ぶ赤子の声が流れる。


 今度は2役で、最初は建物に押しつぶされ、腹ばいになり、叫ぶ女性が私に赤子を手渡す動作をする。


 次にそれを受け取り駆け出す私、赤ん坊を抱えた両腕を持ち上げて誰かに手渡す私を表現する。


 走る、走る。


 爆風に飛ばされたように背中を丸め、後ろ向きに勢いよく倒れる。 


 ぼんやりと佇む。


 10秒ほどの沈黙。


 口を開け、声を出そうとするが出ない。喉を抑え、何度も声を出そうとするが喋れなくなったと知り途方に暮れる。


 歩く。坂を登る。降りる。


 イスタンブールで牢屋に閉じ込められたときを表現するために、何もないところを拳でドンドンと叩き、檻の鉄の棒を両手で掴んで揺らす仕草をする。



 次に波を表現するように両手の指先を顎の前で突き合わせうねりながらで動かし、頭の上まで持っていく。それから腕を水中で平泳ぎをしているように動かしながら両膝を曲げゆっくりと歩き、海の中で泳ぎ続ける自分を表現する。やがて喉を抑えて苦しみ、顔を天井に向け、必死に浮上しようとするように両腕で水を掻く動作をする。


 船の汽笛が鳴り響く。


 起き上がる私。キョロキョロと辺りを見回す。


 船を降り、走る、走る。


 照明が上から当てられる。私の姿が観客から観えるようになる。


 3ボールジャグリングとクラブジャグリングを披露する。照明が落ちると裏手の梯子を急いで上る。


 やがてスポットライトが空中の綱渡り用のロープ前の台にいる私に当たる。


 今度は綱渡りだ。


 両腕を広げバランスをとりゆっくりと綱を渡る。感覚が鈍っていて危ない箇所がいくつもあった。


 3分の2ほど渡ったところでバランスを崩して落下用ネットの上に落ちてしまった。笑い声が上がる。失敗だ。


 ショックを受けていたらジャンが突然空中の台の上に現れて綱渡りをし始めた。そして間もなく落下してきた。今度はジュリエッタが綱を渡り始めすぐに落ちてきた。それに続いてルーファス、シンディ、アルフレッドなど他のメンバーも綱渡りをして失敗して落ちてきた。


 テントが大きな笑いに包まれた。


 最後はルーファスと2人で例の寸劇を披露し、クラウンショーは終わった。


 波のように広がり、いつまでも続く温かい歓声と拍手に胸がいっぱいになった。

 

 温かい空気の中最終公演のパレードが終わり、人のはけたテントで仲間たちと喜びを分かち合った。仲間たちは口々に彼女の名前の候補を挙げていた。トムとジャンは『トミー』『フェブラリー』『ビョーク』『ビヨンセ』とかひたすら自分の好きな芸能人の名前を口々に言っていた。ジャンは「『シャーク』とかもいいんじゃね?! 鮫のように強い子に育つように!!」と真顔で言い、「流石にそれは酷いわ」とシンディが吹き出した。


 名前に関しては仲間たちではアテにならないからオーロラにインスピレーションを貰おうと思ってテントを出たら、オーロラはすぐ外で待っていてくれた。


「お疲れ様、アヴリル。あなたのショー観たわ。感激して泣いちゃった。あのマイム凄かったわ。あんな経験をしてきたんだと思うと胸が痛くて……」


「だけど、全てが芸の糧になったわ」


 オーロラはふと私の腕に抱かれた赤子に目を落とし、「綺麗な子……」とつぶやいた。確かに彼女は綺麗だ。イスラエルではまじまじと見る余裕なんてなかったけど、色白でもちもちの肌でまつ毛が長い。きっと美人さんになるに違いない。


「これは、あなたが助けた子?」


 オーロラが訊ねた。マイムの赤子の物語をちゃんと理解してくれていたらしい。


「そうよ。イスラエルで空爆に遭ったとき、女の人に手渡されたの」


「そうなのね……」


 オーロラは何度も頷いて涙を拭い、赤子を腕に抱いて優しく微笑んだ。


「ねぇ、アヴィー……」


 オーロラが急にかしこまったように言った。


「どうしたの?」


「あなたの告白への返事……」


 どくんと心臓が跳ねた。まさかここでぶっ込んでくるとは思わなかった。流石オーロラだ。


「うん……。もう少し時間を置いてもいいのよ?」


 正直聞くのが怖かった。どうせ振られるなら心躍る今じゃなくて、1年後の方がまだいい。1年後は流石に長いか。


 オーロラは首を振った。もう全ての答えが出ているかのような澄み切った目をしていた。


「もう決まったわ、私はあなたと生きてく」


 驚いてオーロラの顔を見た。赤ん坊を今抱いていなくてよかった。もしかしたら驚きすぎて落としてしまっていたかもしれない。


「……本当?」


「本当よ。正しくは……あなたとこの子と一緒に生きてく、ね」


 もう子どもの名前を決めることも何もかもを忘れ、私は咽び泣いた。一緒に赤子も泣き出した。こんな最高の答えをくれる辺りがオーロラだ。彼女のことを余計に愛おしく感じた。


 オーロラは泣いている子どもと私を一緒に抱きしめてくれた。オーロラと生きていける。オーロラとこの子と3人の家族になる。いい母親になる自信なんてないけれど、私たちはきっといい家族になれる。


 感極まっていたのが我に返り、視線を感じて振り返るとトムとジャンとジュリエッタ、シンディがテントから顔を出して覗いていた。


「打ち上げと一緒に結婚祝いをしましょうか?」


 ジュリエッタの提案に他の3人が頷いた。が、私は首を振った。ルチアの気持ちもあるし、まだ気が早すぎる。


「それはまだ早いわね」とオーロラも笑っている。


「ふむ、色んなことが決まったら改めて報告って感じね?」と、ジュリエッタが私たちの心を汲んでくれた。


 私とオーロラは顔を見合わせ微笑んだ。幸せそうなオーロラの笑顔を見られたことが、1番の幸せだった。

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