第52話 芸術ホール

 バス停のベンチでバスを待ちながら寿司を食べた。途中反対側の歩道を歩く痩せた野良猫の姿が目に入り、ネタの上に乗った鮪の刺身をあげたらあっという間に平らげた。もう一枚あげたらそれも食べた。


 猫を可愛がっていたためにバスのことをすっかり忘れてしまっていた。反対側の路肩にバスが止まっているのが目に入り慌ててダッシュした。が、躓いてぬかるみに頭から突っ込み全身泥まみれになってしまった。最悪だ。そうこうしているうちにバスは行ってしまった。


 次のバスまであと1時間。愚かで不注意で不運な自分を呪った。


 仕方なく歩いて30分ほどのところにある駅から地下鉄に乗って芸術ホール最寄のキングス・クロス駅へ向かうことにした。ハリー・ポッターで有名なあの駅だ。


 途中公園の噴水で顔を洗ったが、途中で水が出なくなり全部の汚れは落とせなかった。ジムかどこかでシャワーを借りたいけれど、何せ初めて来た国だからどこで借りられるのか分からない。


 道中も駅に着いてからも四方八方から人々の視線が突き刺さった。そりゃそうだ。こんなに全身泥まみれの女が歩いているのだから、怪しい浮浪者と思われても仕方ない。こんな姿でオーロラに会いに行くなんて消えてしまいたいくらい最悪な気分だ。でも例えどんな姿だとしても、オーロラはこの汚い女を私だと分かってくれる。そして心から再会を喜んでくれるだろう。


 乗り込んだ列車内は空いていた。今すぐ座りたいくらい疲れ切っていたけれど、泥で座席を汚してはいけないから立っていることにした。乗客たちの冷たい目線を感じいたたまれなくなる。でも今を越えればオーロラに会える。全てはオーロラに会うためなのだと心に言い聞かせ窓の外を見た。


 列車を降りたらロンドンに着く。オーロラが住んでいる場所だ。心が浮き立った。ここに来るまで2年ほどの時間がかかった。相手が彼女でなかったら、私はこれほど命をかけた大きな旅を続ける覚悟を持てなかっただろう。


 早く彼女に会いたかった。何を話そうかなんてもうどうだってよかった。彼女の顔を見られるだけで、ただそれだけで特別で満ち足りた気持ちになるだろう。


 近くの席に座っていた女性が見かねてウェットティッシュを数枚渡してくれた。それで服を拭ったが完全に汚れは取れなかった。


 ロンドンのキングズ・クロス駅に到着し列車を降りる。薄茶色の煉瓦の壁に覆われたホームから地上へ続く階段を、人の肩にぶつかり謝りながら駆け上る。


 ロンドンに着いた途端、オーロラに会いたい気持ちが膨れ上がって抑え切れなくなった。頭の中はオーロラ一色で、異国の風の冷たさと突き刺さる人々の白い目すら、巨大スクリーンに映し出されるただの映像であるかのようだった。


 アーチ型のガラス張りの天井から覗く曇空を視界に捉えながらプラットフォームを駆け、改札を駆け抜け、行き交う人の波をかき分けて自動ドアから外に出た。


 目の前には映画で観たそのままのロンドンの街が広がっていた。煉瓦模様の歩道、ファストファッションの店やお洒落な飲食店、歩道脇に並ぶ街路樹と、その横を行き交うたくさんの人々ーー。広い車道には丸みのある赤いバスや沢山の車が行き交っている。


 通行人に道を尋ねながら芸術ホールまでの道を全速力で走った。


 真新しいダイナーや警察署、コーヒーショップの立ち並ぶ通りの向こうにある十字路を右に折れたところでその建物が見えた。


 傾斜の急な坂を上り、『ロンドン芸術ホール』と書かれた石造りの門の間を通る。辿り着いた広大な敷地の中に聳える灰色のコンクリート造りの建物を見上げる。巨大な四角い石板を何枚も縦横に張り巡らしたように凸凹のある立体的な建物で、少なくとも5階まではありそうだ。建物の一部はガラス張りになっている。


 入り口の自動ドアの前に『2030年世界の絵本展覧会』と大きく書かれた赤い看板が立っている。自動ドアの先にはロビーがあり、ホテルのようなカウンターが設置されている。


 受付の女性は私を上から下までジロジロと見た。絵本の展覧会はどこでやっているのかと尋ねたら、場所の案内すらせずに「チケットがないと入れません」と冷たく言い放った。汚らしい格好の私を差別しているのは明白だった。


「チケットを持っていないので今買います」と答えたら、女性は嫌味のように『当日券完売』の札をカウンターに音を立てて置いた。


「お姉さん、私の身なりが汚いのは分かっているけれど、どうしても行かなければいけないの。友達が有名な絵本作家で、今日この中にいるかもしれないのよ。彼女に会うためにはるばる遠くから来たの。お願いだから今すぐチケットを売って」


「文字が読めませんか? チケットは売り切れです」


「嘘つき!」


 口論をしているうちに相手の女性の顔が余計に険しくなり、手元の電話機に手を伸ばした。彼女が受話器を耳にあて何か言うとすぐに、バタバタと5人ほどの男の警備員が出てきて私の身柄は拘束され、「浮浪者」「薄汚い貧乏人」「身の程を知れ」などと罵声を浴びせられ外に追い出された。


 惨めだった。私はオーロラに会いたいだけなのに、身なりがどうとかいう理由でチケットすら売ってもらえない、挙句警備員から酷い扱いを受けなければならないなんて。


 泣き出したい気持ちで建物の裏手、手すりのついたスロープのような道を歩いていたら、下へと続く階段を見つけた。駆け降りると建物の地下のらしき場所の裏庭に出た。


 搬入口の前に大きなトラックが停まっていて、開けられたシャッターの中に作業着姿の人たちがビニールシートに包まれた大きな物を運び込んでいるようだった。


 作業員の姿が見当たらなくなった頃にそっとシャッターをくぐって中に忍び込んだ。殺風景なコンクリートの敷き詰められたガレージのような場所を通り抜け、開け放たれた扉の奥へと足を踏み入れる。狭い通路を左に折れると白い防音壁に囲まれた広い通路に出る。「会議室」「スタジオ」「練習室」と書かれた札の貼られた部屋の前を通り過ぎ、突き当たりを右に折れた先が大ホールになっていた。


『世界の絵本展覧会 会場』とチョークで書かれたコルクボードの看板が、閉じられた赤い大きな両開きの扉の隣に出ている。


 ゆっくりと扉を開けて中に入る。

 

 広いホールの天井からはロープに世界の国々の国旗が連なってぶら下げられている。私が巡った国々の旗だ。


 ホールには無数の白いパネルが間隔を開けて並んでいて、その前に木の長テーブルが並べられている。テーブルの脇には長い棒に通された各国の国旗が立てられていて、国ごとの名作絵本がテーブルの上やパネルに展示されている。『ぐりとぐら』『ミッフィー』、『かいじゅうたちのいるところ』など幼い頃に読んだ絵本が沢山ある。一冊一冊を手に取って開いて観る。どれも色彩豊かで可愛らしい動物や人の絵が描かれた素敵な絵本ばかりだ。


 ホールの一番奥、イギリス国旗の立てられたパネルの前に着く。200冊ほどの絵本作家の絵本が飾られている。


 パネルに立てかけられている絵本の中に一冊見覚えのある表紙を発見した。湖のある野原の前に立つ茶色い虎柄の猫の絵が描かれた絵本ーー『猫のカルメン』だった。


 オーロラの絵本が名作の一つに数えられていることが、まるで自分のことのように嬉しくて胸がいっぱいになった。手を伸ばし触れようとしたときだった。


「ちょっと、汚い手でオーロラの絵本を触らないでくれる?」


 振り向くと、膝丈の赤いフォーマルドレスに身を包んだ同い年くらいの女が腕組みをして立っていた。ブロンドの長い髪を頭頂部で纏めている。髪型と色は変わったが一目で彼女と分かった。恋人だったオーロラを裏切り妻子持ちの男と不倫していた女ーー女優のエスメ・ホワイトだ。オーロラに振られた今も未練がましく付き纏っていると聞いた。オーロラを傷つけた癖にこんなところまで追いかけてくるなんて執拗にもほどがある。怒りで身体が震える。


 私を嘲笑うように見つめる忌々しい女の顔を真っ直ぐに見返す。こんな人間に笑われる筋合いはない。彼女はオーロラを深く傷つけた。オーロラを泣かせた。とても許すことなんてできない。きっと50年後も80年後も死んでからも私は彼女のしたことを、オーロラの心を引き裂いて泣かせたことを許さないだろう。


「あんたオーロラの友達?」とエスメが尋ね距離を縮めてくる。


「そうよ、小学校のときからの友達よ。だったら何だっていうの?」


 値踏みするように上から下までジロジロと見たあとエスメはふんと鼻で笑った。


「その汚い身なりで友達とか超ウケるわ! オーロラは今や世界的アーティストよ? 見窄らしい乞食みたいな人間がこの場所に何の用? オーロラに恥をかかせないでくれる? 彼女のことを思うなら、今すぐここから出て行きなさいよ!」


「出て行くのはあんたのほうよ!!」


 頭に血が上り女に詰め寄った。女がたじろぎ後退る。


「は? あんた何様……」

 

「全部知ってるわ、あんたがオーロラにしたこと全部!! 彼女を裏切って馬鹿みたいに軽薄な男と不倫して、傷つけたことも全部!! 私を乞食って言ったわね?! 人の痛みを想像できないあんたの心の方がずっと貧しいわ!! オーロラがあんたを許しても私は許さない。絶対に、絶っっ対に許さないから!! 彼女を泣かせておいていつまで付き纏うつもり?! もう辞めなさいよ!! 私は彼女に会うために……プレゼントを渡すためにアルゼンチンから海を渡ってきたの。サーカスでクラウンを演じながらね。あんたのは愛なんかじゃない、あんたは自分が可愛いだけよ!! オーロラに縋って、自分を愛して欲しいって叫んでるだけの赤ん坊とおんなじよ!!」


 エスメはふんとまた笑い、再び邪悪な笑顔を私に向けた。


「何必死になってんの? もしかしてあんたオーロラのことが好きなの?」


 私は首を振った。彼女は小さく見えて非常に大きな部分を間違えていた。


「あんたは間違ってる……。私は……私はオーロラのことが好きなんじゃない!!」


 無数の人の目が私に向いている。それも構わず私は叫んだ。胸の奥にずっとあった想いの結晶を、全身を切り裂かんばかりの声で叫んだ。


「私は彼女を好きなんじゃない!! 彼女を愛してるわ!! この世界を全部彼女にあげても足りないくらいに!!」


 肩で息をする。全身が激しく脈打っている。


 女が引き攣った顔で笑う。「あんたおかしいんじゃない?」と小さな声で言う。しかし、先ほど私をこき落としたときのような威勢の良さはない。たじろぎながらも私を狂った人間として扱うことで、この女は私に劣等感を抱かせようとしているのだ。


 頭を冷やすためにホールの入り口に向かおうと踵を返したとき、シックなパープルのフォーマルドレスを纏った女性がこちらに歩いて来る姿が目に入った。ウェーブのかかった艶のあるブラウンの髪をハーフアップにした、紫色の目の女性ーー。


 やがて彼女の目が私を捉えて静止した。時間が止まったみたいに、しばらくの間私たちはその場で立ち尽くしていた。


「アヴィー……?」


 オーロラの唇から声が漏れる。懐かしい、夢にまで見た声と姿だった。深い紫色のドレスが、同じ色の瞳とオークルの肌と艶めく茶色の髪によく似合っていた。


「オーロラ!!」


 駆け寄る時間さえも惜しかった。駆け寄って、その華奢な身体を力一杯抱きしめた。涙がとめどなく流れる。狂おしいほどの愛おしさと喜びに包まれ、抱きしめる手が震え心が震えた。


 オーロラの両腕が私をそっと抱きしめ返す。以前より痩せた彼女の身体が震えているのが手のひらを通して伝わる。


「アヴィー、よかった……生きていて……!」


 涙声が彼女の喉から溢れ出る。私の頬から伝い落ちた無数の涙が彼女の肩を濡らした。


 ここまで2年の歳月がかかった。でも確かに私の腕の中にいるのはオーロラだった。紛れもない私の大切な、命よりも尊い愛おしい存在だった。


「会いたかった、オーロラ……!」


 しばらく抱き合い再会の喜びを分かち合ったのち、どちらからともなく身を解いて向かい合った。オーロラの細められた紫色の目から涙が溢れていた。5年振りに見るオーロラはやっぱり最高に綺麗だった。以前より大人びたけれど、目も鼻も口も髪の毛も輪郭も、肌の色も身体つきも、全てのパーツがオーロラのものでオーロラのままだった。当たり前だけれど。


 オーロラは外で話しましょうと言ってステージの舞台袖を通り、楽屋の並ぶ通路を通って裏口を出てホール外の裏庭に連れだした。細い緩やかな勾配の道に沿うように設置された花壇には、黄色や赤、白のチューリップが花を咲かせていた。緑の葉をつけ始めた木々の枝に小鳥が止まり小さく囀っている。


 オーロラはベンチの一つに腰を下ろした。私もそのすぐ隣に座った。こうして隣に座るのはいつぶりだろう。オーロラがさっきよりも近く感じられた。


「あなたから手紙が来なくなって、毎日心配で夜も眠れなかった。あなたが戦争の犠牲になる夢や、車に轢かれる夢、海に落ちて死んでしまう夢も見たわ。目が覚めるたびに夢だったんだって安心する。でも、同じことが起こるんじゃないかって考えると、すごく不安で心配で……」


 口に手を当て咽び泣くオーロラの姿を見て、罪悪感で胸が壊れそうになった。


「オーロラ、ずっと連絡できなくてごめん。私、一度本当に海で溺れかけたの。それで死にかけたけど漁船に救われて奇跡的に命が助かった。あなたの夢を見たわ。あなたと私が小学生のときに店でたまたま会って、お揃いのリボンをつけてはしゃいでる夢……。すごく懐かしかった。今夢じゃない本物のあなたに会えて、生きててよかったと思う」


 オーロラはただ頷いて話に耳を傾けていた。聞き上手なところもオーロラのままだ。


 オーロラに伝えたいことがある。渡したいものも。


 私はオーバーオールのポケットからCDケースを取り出した。


「これ、あなたが欲しがってたCDよ。元はといえばこれを買うためにスラムに行って、銃撃戦に巻き込まれてサーカス列車に逃げ込んだの。次の駅で降りることもできたんだけど、あなたにどうしても直接会って渡したくて……。最悪なことに途中信頼してた人に盗まれたり、海に落ちて水で濡れちゃったの。飛び込んで救出しようとしたんだけどね。ちゃんと聴けたらいいんだけど」


 オーロラの目にまた涙が浮かんだ。彼女の瞳が涙で光ると、心が得体の知れない熱を帯びた切なさに締め付けられる。


「あなたはこのCDを渡すために……。私のためにここまで来てくれたのね。本当にごめんなさい。そして、ありがとう。あなたほどの友達はいないわ、こんなに想ってくれているなんて……」


 ありがとうともう一度言ってオーロラはCDを受け取り、愛おしいものにするようにそっと胸に抱き締め目を閉じた。彼女の頬を伝う涙が曇空から覗く陽の光に照らされる。その姿は聖母のように神聖で美しかった。


「謝らないで、オーロラ。私が勝手にしたことよ。CDを買ったのも会いにきたのも私の意志。あなたは悪くない。私はあなたにそれを渡したかっただけ。それがこんな大冒険になっちゃったわけだけど……」


 これじゃない。彼女に本当に伝えたいことは、すぐ喉元まで出かかっていた。想いを伝えることは凄く怖くて勇気が要る。その気持ちが強ければ強いほど。だけど伝えないうちは私は臆病者のままだ。


「オーロラ、さっきの聴いてた? その……私がエスメと話してたことを」


 オーロラは首を傾げた。


「エスメ? 彼女が来てたの? 私、ずっと駐車場でフィンランドの絵本作家の友達と話してて気づかなかったわ。会場に来たら何か怒ってる声が聴こえて、もしかしたらあなたかもしれないと思って急いで駆けつけたんだけど……」


 ほっと胸を撫で下ろした。オーロラに全て聞かれてはいなかったようだ。それどころか彼女はエスメがいたことにすら気づいていなかった。告白の前に誤爆なんてそれこそ辛すぎる。


「ならよかった。オーロラ、あなたに伝えたいことがあるの」


 オーロラが微笑み首を傾げてじっと私を見つめている。これだけで緊張が最高潮に達している。深呼吸して心の中で3秒数え彼女の目をまっすぐに見つめる。


「愛してるわ、オーロラ」


 オーロラの目が驚いたように見開かれる。風が葉を揺らし爽やかな緑と露の香りを運んでくる。揺らぐ紫の瞳の中に私の顔が映っているのが見える。


「旅の途中で気づいたの。私はあなたのためなら何でもできるしどこにだって行ける。この世界を丸ごとあなたにあげたっていい。無理だって笑うかもしれないけどね。CDは私の気持ちの証よ。私と一緒に色んな国を旅した。だからどうしても取り返して渡さなきゃならなかった」


「ありがとう、アヴィー……」


 オーロラが戸惑いがちに答える。もう一度オーロラを抱きしめる。できることならずっとこうして彼女の体温を感じていたかった。


「オーロラ、私はあなたを本当に大切に想ってる。あなたは前に言ってたわよね、愛する人と家族を作りたいって。もしも相手が私でいいんなら、私は喜んでその夢に乗るわ」


 オーロラは真剣な顔で考え込んでいるみたいだった。それはそうだ、小学生時代からの友人から突然愛の告白を受けてすぐに答えが返せるわけがない。


「アヴリル、私もあなたが好きよ。あなたを大切に想ってる……」


「今すぐじゃなくていいの」


 彼女の台詞を遮るように言った。この先を聞きたくなかった。それよりは猶予期間が欲しい。ここで振られるとかあまりに悲惨すぎる。これだけの時間と国を超えて命からがら彼女の元に辿り着いたのだから、待つことなんて屁でもない。


「答えはあとででいい。無理なら無理で仕方ないけど、絶対に諦めないわ。あなたの気持ちが変わるまで何回でも告白し続ける。それに私、行かなきゃいけないところがあるの!」


 もう一度オーロラを抱きしめたあと立ち上がる。サーカスの最終公演は17時から。会場はロンドンの『バザイラム・ランド』だ。B級映画をモチーフにしたテーマパークで、オーロラがよく遊びに行くと言っていた。腕時計はすでに17時5分前を指している。時間を過ぎてしまうけれど滑り込めれば……。


「オーロラ、もしかしたら私、18時頃にショーに出るかもしれない。『バザイラム・ランド』でやってるわ、だからよかったら観に……」


「バザイラム・ランドってロンドンの? ここからだと遠いから車で送るわ」


「オーロラ、車持ってたの?」


「当たり前よ、免許くらい持ってるわ」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


「びっくりしたでしょ?」


 猛スピードで走る車の中で私は運転席のオーロラに訊いた。もちろんあの告白のことだ。


「そうね、かなり。だけどよくよく考えてみたら、もしも私が逆の立場なら、ただの友達以上の何らかの強い想いがなければ遠くから会いに行きたいとは思わないわ」


「うん、確かに。めちゃくちゃ強い想いがあったんだろうね」


 信号で車が停車する。オーロラが私に顔を向けて微笑む。


「凄く驚いたけど嬉しかったわ、こんな体験一生のうちに経験するかしないか……」


「私ももうこんな経験はしないと思うわ」


 車が走り出す。街路樹や歩道、マネキンやアクセサリーの並ぶ店、街灯を通り過ぎていく。どこかへと急ぐ人の群れも。


 オーロラの横顔を見る。唇が小さく微笑んで目が潤んでいる。


「だけど、もう海に飛び込むのはやめて。危険なことに飛び込んで行くのも……。あなたのことだから事情があったんでしょうけど……」


「事情はあった。大きな事情が。それについてはまたあとで話すわ」


 あの赤ん坊は少し大きくなっているだろうか。もう名前がつけられていたりして。あの赤子をまた腕に抱きたかった。母になる覚悟も勇気もないけれど、あの子には幸せになってほしい。たくさん遊んで好きなことを見つけて勉強して、戦争のない世界で何にも邪魔をされずに自分の夢を叶えてほしい。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る