第49話 ミハイル

 翌朝カレーの大きなフェリーポートからフェリーに乗ってボ・ワーズ島に向かった。英仏海峡を渡り、島までは1時間ほどかかるらしい。


 フェリーのデッキから海を眺めた。まだ寒さの残る2月終わりの冷たい潮風が身体に吹きつける。青く透き通った波を割いて進んでいく船のエンジン音に混じって鴎の鳴き声が聞こえる。


 ミハイルは島にいないかもしれない。あのCDはもう返ってこないかもしれない。どちらにしてもこの海を越えていかなければならない、オーロラに会うためには。


 高校時代にあのCDをオーロラに誕生日プレゼントとしてあげたときは、そのウケ狙いの贈り物が私をこんなに過酷で長い旅路に誘うことになるなんて思いもしなかった。でもあのCDがなければサーカスの仲間に出会うことも、サーカスに恋をしてクラウンになるためにがむしゃらに練習を積むこともなかっただろう。


 あのCDは私の運命を大きく変えた。その代わり、家族とオーロラには膨大な心配をかけることになってしまったけれど。


 でも、だからこそあのCDはかけがえのないものなのだ。私を駆り立て強くさせ前を向かせた最強アイテムを、みすみす奪われてたまるものか。


 フェリーが島に着く。フェリーを降りるとすぐ目の前に眩しい陽光の反射する砂浜が広がっていて、その向こうに果てしなく続く青い海が静かに波打っていた。


 フェリー乗り場のすぐ隣にレンタカーの店もあったが、2年近く車を運転していないために感覚をすっかり忘れてしまい、事故を起こす自信しかなかったから借りるのはやめておいた。


 フェリー乗り場の近くには土産物屋があって、この島に住むアーティストの作品が沢山売られていた。絵画や彫刻、刺繍、陶芸などの芸術作品の数々は、観ているだけで心を潤し癒した。


 カメラでミハイルの写真を撮っておけばよかったと今更ながら後悔した。そうすれば捜索が遥かに楽になるに違いなかった。


 ミハイルに会ったとして、何から話せばいいのか分からない。まずCDを返せと詰め寄ろうか。捨てたりしていないといいが。この際だからお金は返してもらわなくていい。1ヶ月以上もの間ご飯を食べさせて貰って寝る場所を提供してもらったのだから。おまけにパントマイムも教えて貰ったし。


 ずっと彼のことを憎み切れなかった。痛い目を見せられても彼を信じていたい自分がいた。彼が私の前からいなくなったのは何かそうせざるを得ない理由があったはずだ、彼が好きであんなことをするはずがないと。


 彼の時折見せる哀しい顔、冷たい表情に違和感を全くおぼえなかったわけではない。でも私は彼の温かい笑顔の方を信じたかったのだ。


 建物の並ぶ通りを歩く。ボ・ワーズ島は芸術の島と呼ばれている。絵画の展覧会をしている白い外壁の小ぢんまりとした展示場や、『陶芸体験できます』という赤い旗が旗めくオープンテラスの店、いろんな型のおしゃれなランプの売っている店もある。『手作り絵本の店』というのに入ってしばらく絵本を眺めた。可愛らしい動物の描かれた絵本を観ながら、こんな才能が私にもあればと感じた。


 人1人に与えられる才能というのはそれぞれ違う。でも幼い頃からずっと感じていたのは、人生というのは不公平だという感覚だった。可愛くて歌の上手い友達は歌手になるのが夢と言っていて、誰もが応援していた。何でも持っている人もいれば、何にも持たない私のような人間もいる。それなのに学校の先生たちは現実が見えないように、努力とか信念とかいう理想に塗れた綺麗な言葉のベールで子どもたちの目を覆い隠すのだ。


 サーカスクラウンを目指すようになってもなお、私は自分に才能があるだなんて一度も感じたことがなかった。でも好きだったから上手くなりたいと思った。同じように努力を続け芸を磨いている仲間に触発されたのももちろんあるが。


 ミハイルは私にはない圧倒的な才能がありながら、現実世界に適合できず苦しんだ挙句、1人で生きる道を選んだ。愛を捨て幸せとは到底呼べない場所へ自らを追い込んで、今もなお苦しみ続けているのかもしれない。


 才能があっても愛に恵まれない人生を送るか、才能を捨てて愛に満ちた人生を送るか。


 どちらかを選べと聞かれたら、私はどちらを選ぶんだろう?


 もしどちらも手に入れられるとしたら、何か大きなものを捨てないといけないんだろうか。大きな数の足し引きを繰り返して最後±0の人生になってしまうよりは、小さなことに喜びを見出せる人間でありたいしそんな人生を送りたい。出来たら愛する人たちと一緒に。


 市街地から離れた岬に続く緑の丘陵地にはアトリエが並んでいて、自由に見学ができる。自宅のガレージを改装したようなものもあれば、離れに作られた丸太小屋のアトリエもある。


 丸太小屋のアトリエの外のテーブルの1つを借りて、ノートを破って紙にミハイルの似顔絵を描いた。全く絵に自信はないが、落ち窪んだ瞼や薄い唇、こけた頬など特徴が分かりやすいようにした。空白に『目が青く黒ずくめの服装』と追記した。


 あちこちのアトリエに入っては島人らしき人に絵を見せ、見たことはないかと尋ねたがないと言う。


 外装に興味を引かれて入ったアクセサリー工房はツリーハウスで、梯子を上って店内に入る仕組みになっていた。店内を太い木の幹が貫いている。幹も展示スペースになっていて、髪飾りやブローチなどのアクセサリーが掛けられている。


 店主は30代くらいの女性で、幼い頃からアクセサリー作りが趣味だったのだと言った。落ち着いた口調で話す人だった。


 似顔絵を見せてこの男を知らないかと尋ねたら彼女は首を傾げ、岬の教会で寝泊まりしている男がいるらしいという。


 もしかしたらという確信にも近い感覚が生まれ、女性に礼を言い店を後にした。


 岬へ続く凹凸の激しい急勾配を歩くだけで息切れがして脚が棒になった。


 1時間ほど歩くと岬の先端にある白い灯台が見えてきた。そのすぐ隣にぽつんと建つ教会も。


 教会の裏は断崖絶壁で、眼下に広がる海の白波が岩に打ちつけていた。落ちたらひとたまりもないだろう。


 教会の木のドアをゆっくり開ける。聖堂に並ぶ長椅子に1人の男が座っている。白髪混じりの後頭部と痩せた肩の形が記憶と合致した。


 こんこんと、呼びかけるように長椅子の背を叩いて音を出す。

 

 男は振り向かなかった。長椅子の横の壁に嵌め込まれた細長いアーチ型のステンドグラスが日に照らされ鋭く光った。男の後ろ姿が静物画のようにひっそりと、だが克明に目に映る。


 男がゆっくり立ち上がりこちらを振り向いた。その瞬間空気が冷たく冴え渡った。


「来ると思っていた」


 機械的な声に背筋が凍りつく。聞きたいことが沢山あったのに、私はその中の1つの問いも発することができずに立ちすくんだままだ。何故あんなことをしたのか。どうして私を置き去りにした挙句にCDもクラウンの道具もお金も、私に必要なものを全て奪い去ったのか。ひと月以上もの期間を共に過ごしたというのに。


 私は船の中でノートに書いた文章を男の前にかざした。


『あなたを追ってきたのには訳がある。泥棒として警察に突き出すためじゃない。どうしても返してほしいものがあるの』


 男は何も言わなかった。その顔は笑っていなかった。瞼は以前より落ち窪み、青い瞳はぞっとするほど冷たかった。


『お金はいらない。あなたには沢山お世話になったから。だけどCDだけは別。あれは命よりも大事なものなの。大切な人に渡さないといけないの。そのためにアルゼンチンから持ってきたの』


 男は皮肉な笑みを浮かべた。


「君がここに現れることを、俺はどこかで望んでいたのかもしれないな」


 つかつかと歩いてくると、男は私の前を通り過ぎて教会から出て行った。


 彼は教会の脇にある小さな掘建小屋に入ると、中から私のリュックを持ってきた。


「ここに君のものは全て入れておいた」


『ミハイル、何であんなことを……』


 ミハイルはリュックを持ったまま、無言で岬の先端、断崖絶壁のすぐ前まで歩いていく。私はその後を追う。


 よからぬことを考えているのではないか。慌てて駆け寄ると、男は「大丈夫、死にはしない」と短くつぶやいた。


 男は私に向き直った。


「君にパントマイムを教えている間、何度も教えるのを辞めようと思った。だが君が余りに意欲的に取り組むものだから、止められなかった。君はまるで若い頃の俺だ。人を笑わせることに情熱を燃やし、新しい技術を習得することに貪欲で、そして愚かなほどに一途だ。君から全てを奪ってしまえば、君は泣きながら旅をやめてしまうんじゃないかと思った。そうであってほしかった」


『どうして?』


 マイムを教えることを躊躇っていた理由は? あんなに残酷な荒療治を行ってまで教え子から情熱を根こそぎ奪おうとする理由が、一体どこにあるというのか? 


「君も分かったろう。クラウンを演じるということは、想像以上に苦しいことだ。クラウンだった俺の親友は、最愛の母親が死んだときでさえリングに立ち続けた。俺もそうさ、可愛がっていた犬が病気で長くないと知ってもリングに立ち続けた。結局犬の死に目には会えなかった。


 クラウンは酷な仕事だ。例え自分の家族や恋人が死んでも他人を笑わせなければならない。他人の目に晒され笑われることは快感と痛みを伴う。俺は最初人に囲まれ誰かの笑顔を見ることが生きがいだったが、段々とクラウンの自分と本当の自分自身との境界が分からなくなり、自分を見失い苦しんだ。結局生活のためにサーカスを辞めたが、クラウンでなくなった俺を受け入れてくれる人は驚くほど少なかった。世界は俺たちのような人間に冷たい。俺はサーカスという夢の中でしか生きられなかった。現実世界のミハイルという俺は、道化の仮面を剥いだただの抜け殻だった」


『そんなことないわ』


 私はページの切れかけたノートに小さな字で思いを綴った。


『あなたは抜け殻なんかじゃない。あなたには人の心がある、優しさがある。私といるときのあなたはちゃんと人間の顔をしていた。マイムをしているときのあなたはすごくカッコよかった。


 私も自分とクラウンのキャラが切り離せなくなって苦しんだ。だけどこの旅で分かったわ。私は詩でもネロでもない、アヴリルっていう人を笑わせることが大好きなだけの1人の人間なんだって。私は私でしかないの。


 あなただってそうよ。クラウンは人なの。心を持った生身の人間よ。だから傷つくし苦しむ。自分を探して見つめようとしてもがく。だけど私はそれでいいの。例えもがいたって苦しんだって目の前の人を笑わせたい、感動させたいと思うのは愛があるから。あなたのマイムだってそうよ。自分で愛を作り出すことができるなら、あなたはまだ抜け殻なんかじゃ……』


「やめろ」


 鬱陶しそうに男が跳ねつける。


「全て綺麗事だ。もう手遅れなんだ。俺はお前を救いたかった。お前が成長していけばいくほどに、辞めさせなければと強く思うようになった。お前は神から貰った自分の才能を人のために酷使して、やがて壊れてしまうのではないかと。俺と同じ悲運を辿ることになると。


 だが違ったようだ。お前は俺が思うよりも強かった。そして誰よりも愚かだった」


 ミハイルは私のリュックからCDケースを取り出しまじまじと見つめまた皮肉に笑った。


「これがお前の愛の証というのか。私のように傷つかないうちに愛を捨て、ひたすら道化として生きる手もある。どちらも手に入れられるつもりになっているなら、それは大きな間違いだ。足枷になるかもしれない、自分を傷つけるかもしれないものは、今のうちに捨てた方が身のためだ」


 ミハイルはもう一度海の方に身体を向け、CDを持つ右手を振りかざした。


ーー駄目!!


 掠れた声にならない叫び声だけが漏れる。


 CD ケースは空を飛んだ。私は咄嗟に駆け出した。岬の先は断崖絶壁、その先は極寒の海だ。


「追うな!!」


 ミハイルが怒鳴る。


 岬の先端が近づいてくる。視界の先に空が見える。岬の先端に辿り着く。制止の手を振り切り地面を蹴る。一瞬身体が宙に浮き、そのまま静止したように思えた。眼下の激しく波打つ海と白波の打ち付ける岩肌に向かって落ちて行くCDケース。やがて引力に逆らった私の身体は、海に向かって真っ逆さまに落ちた。


 まるで0. 1倍速の無声映画のようだった。私の身体はプラスチックの正方形の容器を追いかけるようにして、ゆっくりと落下していく。前に突き出す苔むして剥き出しになった絶壁の岩肌にCDケースがぶつかって弾け、海面に着地する。


 青い海が眼前に迫ってくる。大きく息を吸い込む。やがてざぶんという音と大きな水飛沫をあげて私の身体は海に吸い込まれた。


 激しい衝撃とともに深く沈んだ私の身体は、水の中で静止した。2月の海は凍りつきそうに冷たい。塩っぱい海水が口に侵入してくる。息を止め、手脚を大きく動かして水を掻く。


 水面を漂うCDケースの姿が、水中から光に照らされて見える。


 海面まで上昇しそれを手で掴む。水濡れのCDはもう役に立たないかもしれない。


 しばらくもがいていたが、やがて体力を失った身体が少しずつ沈んでいく。手にはCDケースが握られている。


 呼吸が苦しくなる。


 下へ下へと沈んでゆく私の身体とは逆に、海面に向かってゆらゆらと上昇してゆく幾つもの気泡を見つめる。


ーーああ、私はここで死ぬんだ。


 ここまで来てオーロラに会うこともできないまま死ぬなんて。私の身体は魚たちの餌になり、やがて孤独な魂となって海を彷徨うのかもしれない。


 こんな風に死ぬなんて、いかにも道化らしいな。誰にも知られないまま、最後まで自分で自分を笑って死んでいく。


 せめて死ぬ前にオーロラに愛していると伝えたかった。手紙でも何でもいいから気持ちを伝えておくんだった。


 オーロラをこんなに好きだということに、どうしてこの15年もの間気づかなかったんだろう。もし早い段階で気づいていたら、想いを伝えるチャンスなんていくらでもあったはずだ。


 私がここで死んだことをオーロラは知らなくていい。私はどこかで生きていて、いつか突然電柱の影から戯けて飛び出してオーロラを驚かせるんだって信じていてほしい。


 意識が遠のく。青く冷たい水の中に漂う泡の輪郭がぼやけ、やがて視界が完全な闇に包まれた。

 

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