第42話 キッズサーカス

『ここにキッズサーカスがあるって聞いたの。そこに行ってみたい』


 タネルはノートを見て何故か少し戸惑ったような顔をして、「この状況だから、練習なんてしていないだろう」としどろもどろに答えた。


『私の入ってたサーカス団に、イスラエルのキッズサーカスに入ってた女の子がいたの。すごくジャグリングが上手い子だった。せめてどんな場所で練習してたかだけでも見てみたいの』


 タネルは渋ったのち、観念したみたいに大きく息を吐いた。


「分かった、だが危険だと判断したらすぐに戻ってこいよ」


 車はしばらく逆方向に走り、公民館のような小さな建物の前で車を停めた。タネルはついてこなかったので1人で車を降りた。

 

 中からはマットに何かがぶつかるような音と子どもの声が聴こえた。


 私はそっと入口のドアを開け中に入った。


 中には小さなホールあり、マットの上でバク転をする10歳くらいの男の子がいた。そのやんちゃそうな男の子は私に気づくと不思議そうに首を傾げた。


「誰?」


 私はただ微笑んで、リュックからノートを取り出して文字を綴て見せた。


『クラウンのアヴリルよ』


 私はリュックから3つのボールを出してジャグリングをして見せ、落とした一つを右足で蹴って頭の先でヘディングし、キャッチして見せた。すると男の子はにこりと笑った。


 今度は手に持ったボールをハンカチで隠して消し、もう一度ハンカチで手を覆い、ハンカチを外したときには萎んだ状態の紙風船が握られているというマジックをやった。男の子は不思議そうにあげた紙風船を眺めていた。手品のタネ明かしをしてほしいとねだられたが、『タネも仕掛けもありません』とノートに書いたら男の子はむくれていた。


 男の子と接してみて分かった。言葉が話せなくてもショーはできる。誰かを笑顔にできる。その発見が私を救った。


 男の子はお礼に私に後方3回捻りを披露してくれた。空中でくるくるくると身体を捻らせて回転し、綺麗にマットに着地した彼は拍手を送られ得意げな顔をした。


「こら、カリーム。そろそろ帰る時間よ」


 後ろから声がして振り向くと、1人の女性が立っていた。彼女の姿を見てはっと息を呑んだ。窓から差し込む光に照らされて、彼女はとても神聖な存在に見えた。ルチアによく似た銀色の長いウェーブのかかった髪に緑色の目をした、色白の女性だった。


 女性は不思議そうに私を見て、「どちら様?」と首を傾げた。このとき私は確信していた。彼女がアンジェラに違いない、ルチアとミラーの母親に違いないと。


 心臓が激しく脈打った。一度落としたノートを拾い上げ、ペンを走らせた。カリームは練習に夢中で私たちの様子に気を配ってはいない。


『あなたはもしかして、アンジェラさんですか?』


 ノートをかざして見せると、女性は目を見開いてしばらく硬直したあと首を振った。


「違います、私は……」


『あなたのお子さん2人を、ルチアとミラーのことを私は知っています』

 

 それを見た瞬間、女性は途端に目を潤ませ口を手で覆った。やはり彼女は彼らの母親だったのだ。そうでなければこんな顔をするはずがない。


『私はアヴリルという名前です。彼らと同じ列車で生活していました。彼らはあなたに会いたいと思っています。どうか、会いに行ってくれませんか?』


 アンジェラは首を振った。そして震える声で答えた。


「私にその資格はない。だって私は、彼らを見捨てて逃げてきたんだもの」


『事情はミラーたちから聞きました。当時の状況を考えたら、仕方がなかったと思います。彼らはあなたを恨んでません。今も大切に思っています』


 アンジェラの目から涙が零れ落ちた。あまり悲惨な運命を辿り精神的痛手を負った彼女は、泣く泣く置き去りにしなければならなかった2人の子どものことをずっと案じ、自分のしたことを悔いて生きてきたに違いない。だがどんなに離れていても彼らは紛れもない母子で、お互いを想う気持ちに変わりはないのだ。


 カリームがすぐ近くにあるという家に帰宅したあと、アンジェラはホールの隅にあるグランドピアノで『銀河の塵』を演奏してくれた。湖面を揺らす風のように繊細で透き通った旋律に耳を澄ませる。静かな感動に心が揺れる。


 不意に彼女は手を止めてピアノの蓋を閉じた。


「最初は幸せだった。サーカス列車での生活は私の心を満たしてくれた。衣装を作ったり作詞をしたり、ピアノで作曲をしたりね。


 あの男は……ピアジェは私が彼から逃げようとするたびに、息子と娘のことを引き合いに出して私を脅した。『もう2人に会わせないようにする』『2人は渡さない』『彼らはお前のことを一生憎むだろう』などと言ってね。


 彼は恐ろしく狡猾でプライドが高い、悪人の中の悪人よ。本当は子どもたちを連れて逃げたかった。だけど私ができることには限界があった。


 私をあの牢獄のような列車から助け出してくれたのは、ミハイルだった。ミハイルはロシア公演のときにこっそり私を迎えに来てくれたの。私の変わり果てた姿を見て彼は涙を流して、今まで助けに来られなかったことを謝ったわ。


 彼は私の手首に嵌められた鎖を外してくれた。私たちはひたすら逃げたわ。もう二度とあの男に捕まらないように。


 2人で色んな国を渡り歩いた。その日暮らしは大変だったけど、それまで見てきた地獄よりずっと良かったわ。


 私たちはやがて日本の東北の田舎町で暮らし始めた。小さな島国での生活はささやかだけど楽しかったわ。


 子どもたちのことはいつも頭にあった。あの父親の元で暮らす彼らのことが心配でならなかったけれど、彼らが無事で生きていることを祈ることしかできなかった。


 ミハイルはピアジェに見つからないように人前に出ることを辞めて、一般企業で働き始めた。でも長く続かなかった。サーカスの中で長い間過ごしていた彼は、外界の暮らしに馴染めなかったの。私も福祉関係の仕事をしながら彼を支えようとした。でも、彼はどの仕事もすぐに辞めてしまう。その度に自信をなくしてお酒の量が増えて、内面が荒んでいった。


 私は彼の豊かな心に惹かれていたの。人を笑わせることを生きがいにして、人を敬い労わることのできる優しさを持った彼のことが。


 でも彼は変わってしまった。彼が彼としていられるためには、クラウンの仕事をしていなければならなかったんだわ。人に使われて働くことが彼には合わなかった。


 段々彼は飲み歩くことが増えて喧嘩も増えた。私はそれでも彼がいつか立ち直ってくれると信じていた。


 だけどある日彼は私の前から忽然と姿を消したの。私は絶望した。異国で1人きりで生きていくしかないのかと。


 そんなとき、サーカス団で仲のよかった友人の女性から連絡があった。イスラエルのキッズサーカス団でスタッフを募集してる、良かったら一緒に働かないかって。彼女はここのキッズサーカスで講師をしていたの。不安もあったけど他にできることもないから、二つ返事で引き受けたわ。


 そしてイスラエルにやってきた。紛争の絶えない場所で練習や公演を続けるのは大変なことだけれど、子どもたちの頑張る姿を見ていると力が湧いてくる。ここに来て良かったと感じるの」


 アンジェラは身を滅ぼすような困難と葛藤をくぐり抜け、またサーカスのある場所に戻ってきた。子どもたちのために献身的に尽くす彼女の姿が容易に目に浮かぶ。彼女にとってサーカスはかけがえのない居場所であり、生きる場所なのだろう。


『もしも勇気が出たら、ルチアとミラーに会いに行ってあげてください。そして彼らのショーを観てください、ぜひ』


 私の言葉にアンジェラは涙を流しながら頷いた。


 タネルは車の外で煙草を吸いながらぼんやりと景色を眺めていた。私が声をかけると、ハッとしたように振り向いた。


『遅くなってごめん。用事は済んだわ』


 ノートを見た彼は「じゃあ行くか」とどこか悲しげに言った。

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