第33話 悪夢の再来

 エクアドルではグアヤキルとキトの2都市でのショーになる。


 グアヤキルでの公演の朝、ジェロニモはガチガチに緊張していた。パレードの間も心ここに在らずで、声をかけても虚ろな返事が返ってくるばかりだった。


 路肩に並ぶ人たちの笑顔と明るい声に見送られ歩きながら、ジェロニモに声をかけたのはケニーだった。ぎっくり腰になったばかりでまだ歩くのは辛そうなので、ルーファスの提案でかぼちゃの馬車に乗せてもらっていたが、すぐ後ろを歩いてくるジェロニモの様子を見ていて気がかりだったんだろう。ケニーは窓から顔を出してジェロニモに声をかけた。


「ジェロニモ君、そんなに緊張しなくても大丈夫さ。僕なんて10年以上引きこもりをやって、外に出るときは緊張と恐怖で身体がガクガク震えて冷や汗が出たけど、一度覚悟を決めたら案外やれるもんだった。まぁスラムでは銃撃戦にあったし、ここでは誰かさんにこっ酷く口撃を受けてるけどさ。きっと君ならやれる。肩の力を抜いて、自分らしく演じればいいよ」


「いいこと言うね、ケニー」と褒めたら、ケニーは照れ笑いをした。


「ありがとう、おじさん。おじさんも苦労したんだな。自信なかったけど、何だかやれそうな気がしてきたよ」


 ジェロニモは微笑んだ。


 ジェロニモのジャグラーデビューは順調だった。ボールを高速で5つ回し、ディアボロも全ての技が成功した。クラブジャグリングではヤスミーナとペアで、4本のクラブを互いにパスし合う高速のクラブパッシングを披露した。


 私はその日万が一のために白塗りのクラウンメイクだけして、エントランスの奥のオフ・ステージから演技を見守っていた。


 終盤に観客を1人指名して、クラブパッシングしている間を潜るという余興をやることになった。ジェロニモが緊張気味に指名した下から4段目の席にいた黒いライダースジャケットにジーンズ姿の女性がリングにやったきたのを見てギョッとした。黒いアイシャドウに覆われた鋭い目、剃り込みの入れられた髪で分かった。彼女はディアナだったのだ。旅行にでも来ていたんだろうか? 


 彼女にされたこと、私を見て笑ったときのゾッとするような表情が思い浮かんで眩暈がした。


「アヴィー、大丈夫かい?」


 一緒にエントランスで観劇していたケニーが尋ねた。


「彼女、ディアナだわ……」


「マジか……あの子が?」


 ケニーはもう一度リングに立つ女をまじまじと見つめ、「確かに気が強そうな子だ」と納得したように頷いた。


 あの鳩尾の痛みが蘇ってきた。彼女は私がここにいることなど気づいてすらいないだろう。


 予期せず衆目に晒されたディアナはリングの上ではにかんでいたが、どう見ても猫被りだ。おそらく彼女は注目されることが好きなはずだから、今この状況下で最高潮の快感に愉悦しているに違いない。考えるだけで気分が悪い。


 ヤスミーナがディアナに何かフレンドリーに声をかけ、やがてジェロニモと1メートルほど間隔を空けて向かい合わせに立った。クラブが2人の間を高速で飛び交う。この中をくぐるなんてどう考えても不可能に思える。心の奥の私は願っていた。不可能であってほしい。どうか彼女が4000の観客の目に晒され、赤恥をかいてはくれまいか。彼女が無事ノルマを達成し、温かい拍手に見送られながら笑顔でリングを後にすることなんて考えたくない。


 ディアナが一歩を踏み出す。長縄跳びをするときのようにタイミングを計り、交差するクラブの中へと飛び込んだ。


「ああ、タイミングが……」


 ケニーが薄い髪を撫で付けた。嫌な予感がした。


 数秒後鈍い音がして、リングにクラブが落ちる音と一緒にパフォーマンスが中断した。視線の先には頬を押さえ俯くディアナの姿があった。


 観客たちの不安げなざわめきと緊張、ジェロニモの緊張と焦りが伝わってくる。


ーーまずい。


 そう思う間もなくヤスミーナが青ざめた顔で駆け寄った。ジェロニモは呆然と立ったままだ。


 私は激しく後悔した。ディアナが赤恥をかくこと=技の失敗を意味する。そんな単純なことに気づかずに邪念が過っていつもならありえないようなことを祈ってしまった。


 ディアナの顔は羞恥のために真っ赤に染まり、パフォーマーの2人と観客たちを睨みつけている。


「何をやってんだ、アイツは!」


 背後に現れたピアジェは怒りを露わにしている。


 どうしたらいいんだろう。帰ってきたら確実にジェロニモは怒られる。多分、彼に指導していたヤスミーナも。ピアジェのことだ。もうジェロニモはショーに出さないなんて言うかもしれない。長い間雑用をこなし必死に練習してきた彼が、この一回、よりにもよってディアナを指名してしまったがためにチャンスを棒に振るだなんて。


 何をしたらいい? クラウンとして私には何ができる?


 確かなのは、今私がやるべきは憎き敵であるディアナを心の中で笑うことじゃない。

 

 私はリングに飛び出した。落ちているクラブを拾い上げてディアナに渡しキャッチをするようにと身振りで伝えた。もちろんクラブジャグリングは未習得だけれど、この場合下手くそでもかまわない。


 ディアナは私をあの「弱虫」のアヴリルだと気づいていないようだった。おそらく誰の目から見ても私は白塗りの年齢性別不詳のクラウンに映るだろう。ここからどう笑いに繋げようか。あえて下手くそなジャグリングを披露して笑わせようかと頭を働かせているときに、客席からのしのしと腹の出たスーツ姿の中年男性が降りてきて、私の首根っこを掴みオフ・ステージに引っ張って行った。付いて来たディアナも腕組みをして立っている。


「おい、今度は娘に何をさせるつもりだ?! さっきもあの小僧の下手くそなジャグリングで道具をぶつけやがって!!」


「入るタイミングの問題では? ジェロニモの技術には問題はなかったはずです」


 直後、ゴツンと岩のようなものが能天に当たり鈍い痛みが広がり視界が涙で歪んだ。


「無礼なことを言うな、馬鹿タレ!!」


 拳骨を喰らわせたピアジェは囁き声で私を牽制し、気味の悪いビジネススマイルで腹の出た男に向き直った。


「これはこれは、ゴンザレス様……。先ほどは大変申し訳ございませんでした、うちの団員が粗相をいたしまして……」


 ピアジェの別人のように腰の低い様子を見ると、この偉そうなディアナの父親とピアジェは何らかの関係があり、ピアジェの方が下の立場なのだと推察できた。


 ピアジェは駆け寄ってきたジェロニモとヤスミーナを「お前らも謝れ!」と凄い剣幕で怒鳴りつけた。2人は言われるがまま蒼白のまま頭を下げた。彼らが謝る姿が痛々しくて、自分の無力さが悔しかった。ディアナはふんと鼻を鳴らしている。


 すでにリングではシンディのパフォーマンスが開始されている。


「謝っても無駄だ!! もし怪我をしたら、どう責任を取るつもりだったんだ!! アルゼンチン公演の際にはお前たちのサーカス団について大々的にニュースで取り上げてやったというのに、恩を仇で返されたもんだ!!」


「ごめんなさい……。俺が下手くそなばかりに……」


 ジェロニモは項垂れている。これがまともな客であれば、「ごめんね」「いいよいいよ」の二言で事は済んでいたに違いない。


「私の指導に落ち度がありました。申し訳ありませんでした」


「ヤスミーナ、謝ることなんか……」


 ヤスミーナの目には涙が溜まっている。2人とも事の重大さを身に沁みて思い知らされているのだ。2人が悪いわけではない。2人のパフォーマンスにも問題はなかった。たまたま指名した客がディアナで、その父親が思いもよらぬ人間で、その男を怒らせる出来事が発生するという不運が重なっただけだ。2人の頑張りを知っているからこそ、何もできない自分に苛立ちをおぼえた。


「全く、お前らのくだらない出し物のせいで、せっかくの旅行が台無しだ!! 今後一切、お前らには手を貸さんからな!!」


 憤慨したまま男は去っていき、ディアナは去り際にふっとまた鼻で笑い、ジェロニモに向かって「ちょっとは練習したら? もうぶつけたりしないように」と言い放った。


 カッと頭に血が昇った。最初は堪えようとした。拳を握り締め、歯を食いしばり息を整えようと。だが無駄だった。私のことを言われるのはまだいい。だけど、歯を食いしばって努力を続けていたジェロニモのことを貶されるのは耐えられない。


「ネロ、辞めて!!」


「行くな、ネロ!!」


 走り出した私の背にヤスミーナとジェロニモの声がぶつかる。

 

 裏口からテントの外に出て行った彼女の肩を掴んだ。


「仲間の努力を笑うな!! 確かに失敗したけど、彼は1年間ずっと血の滲むような努力をしてきたんだ!! あんたのように望めば何でも手に入れられる、我儘お嬢さんとは違うんだよ!! あんたは血も涙もない、人をいたぶることしか能がないサイコ女だ!! 井戸に落ちてイタチにでも食われちまえ!!」


 ピアジェが私の胸ぐらを掴んで殴りつけた。ルーファスとアルフレッド、ジャンが駆け寄ってきてピアジェを静止した。ディアナが憤慨した様子で何かを言い、その父親がまた私を怒鳴った。その映像がまるで無声映画を観ているかのように視界を駆け巡り、気づいたら私はどこかの海岸の岸壁にいた。


 どうやらカッとなって逃走してしまったらしい。まだ入団して1ヶ月半にも満たないというのに、このまま退団なんて笑えない。


 港には客船が一隻停まっている。これに乗れば逃げられるかもしれない。あの団長からも、やってしまったことの責任からも。でも、本当にそれでいいのだろうか?


 ディアナにかけた言葉を後悔も反省もしていない。彼女は私の仲間を笑ったわけで、それに対して怒るのは当たり前のことだ。あんなに怒ったのは生まれてこの方初めてだった。ジェロニモのことをよく知らなければ、また、相手がディアナでなければこんなことは起きなかっただろう。


 頭に来ていたのは一番に自分に対してだった。クラウンとして何も適切なフォローをできず、トラブルを回避できなかった。


 空には鴎が飛び、薄着の肌に冷たい潮風が吹き付けてくる。微かな細波だけを立てる青い海の様子はどこまでも長閑だった。


「ここにいたのね」


 ルチアの声がして振り返った。


「実は、私も影から見てたわ。起きたことを。あなたがテントを飛び出して行ったのを見て探しに来たの」


 ルチアは隣にやってきて、目の前に広がる海を見つめた。


「私ね、あなたが頑張ってるのを見るのが好きなの。あなたはいつもおちゃらけてるけど実は凄く真っ直ぐで、頑張り屋よね」


「そんなことないよ、皆に比べたら」


 ルチアは私の言葉を否定するみたいに静かに首を振った。


「あの怒ってたおじさんは、アルゼンチンの大きなテレビ局の社長さんなの。取材をしてもらったり、資金を提供してもらったりしてお世話になってたから」


「大人の事情ってやつだね」


「そうね」


「ヤスミーナも悪くない。ジェロニモだって……。当てた相手が最悪だっただけだ。ジェロニモは少しミスっただけさ。ちょっと顔に当たっただけで大袈裟なんだよ。それに、ヤスミーナに関しては責められる理由も、謝る理由もない」


 ルチアは顔を伏せた。横顔が悲しげだった。


「ママがいなくなったとき、お兄ちゃんに言われたの。ここを出て行こうって。お母さんを探しに行こうって。一緒に何度も逃げようとしたけれど、そのたびに私は捕まって、お兄ちゃんは私を置いて行けないから逃げるのを諦めてお父さんに殴られる。


 お父さんは私たちを捕まえたあと、いつもこう言って黙らせた。


『お前たちはここしか生きる場所がない。他に何ができる? 外に出て生きていけるのか?』って。


 ごめんねって謝ると、お兄ちゃんは謝るなって怒るの。お父さんにも私が逃げようって言ったんだって、私のせいだって伝えて謝った。それもお兄ちゃんは嫌がる。


 何で代わりに謝るのかって、相手が大切な存在だからよ。相手を守りたいと思うから謝るの。ヤスミーナがジェロニモに謝ったのは彼の盾になるため。彼女の責任感と優しさなの」


 頭では分かっている。分かっているのだ、そんなこと。まだ付き合いは短いけれど、ヤスミーナがそういう子だということを私は知っていたつもりだった。でも許せない。あのショーを貶した偉そうな親父と仲間を嘲笑ったディアナ、そしてそんな卑しく浅ましい人間たちに媚びへつらうピアジェのことが。


「実は、あの女を僕は知ってるんだ。ディアナっていう、最低な奴だよ。前に酷い目にあってさ、もう二度と会いたくなかったのに……」


「そうだったの……」


 ルチアの目が慈しむように私を見つめる。涙が込み上げてきそうになって必死に泣くのを堪える。


「アイツはジェロニモを馬鹿した。何の苦労も知らない奴が、苦労して努力した人を笑うんだ。絶対に許すもんか。アイツのことも、あのおっさんのこともピアジェのことも……。頭に来るよ。それより何より、僕は何もできなかった。何もできない自分が一番嫌いだ」


「ネロ、あなたは凄く優しいんだわ。あんまり優しすぎて、色んなことを感じすぎる。何もできなかっだなんて嘘よ、あなたは仲間のために声を上げた。頭に来るのだって理解できる。でも、ここで辞めたら絶対に後悔するわ」


「じゃあ、ピアジェに謝れっていうのかい?」


「無理にとは言わないけど……。パパはあなたをショーに出さないと言ってる。形だけでも謝らないといけないわ。皆あなたに戻ってきてほしがってる。あなたが辞めたら皆が悲しむ。あなたはもう既になくてはならない存在。皆のムードメーカーで、太陽だもの」


「僕だって皆のことは好きさ。でも、謝るのなんて御免だよ」


「なら謝らなくていい。お願いだから出て行かないで、あなたが必要なの」


 ルチアの声が震えている。彼女の大きな目から涙が溢れ出し、ぽとりと灰色の地面に染みを作る。


 そこで初めて、私が独りよがりな行動をとっていたのだと認識した。それが原因で自分を思いやってくれているルチアを悲しませているのだと。今この時間もショーのために奮闘している仲間のことを思うと、これ以上勝手をやって迷惑をかけたくない。私の我儘のために彼らを傷つけるのは嫌だ。それに、ケニーを1人にしたくない。彼も心配しているだろう。


 以前の私なら、ディアナに対してあんなに強く出られなかった。ここまで明確な自己主張もしなかったし、もし同じ場面に出くわしたとしても声すら上げられなかった。サイコ女なんて言葉死んでも言えなかっただろう。感情的になって目上の人間に歯向かうこともなかった。でもこれも紛れもなく私だ。向き合うことを避けてきた私という人間の本当の姿なのだ。


「ごめんよ、ルチア」


 ルチアや仲間たちのために、そして自分の夢のために。ここで感情的になって逃げ出すべきじゃない。いつでも投げ出すことはできるけれど、そうしたらあとで絶対後悔する。


「帰りましょう、皆が待ってるから」


 ルチアが私の腕を引いた。頷いて彼女と一緒に歩き出した。


 ピアジェは戻ってきた私を完全無視した。せっかく謝ろうとしてもその態度なら、こっちだって話してやる筋合いはない。


「戻ってきてくれてよかったわ。よくあるのよ、観光に出たままいなくなる人とか、公演中に失踪する人が。ピアジェは誰が辞めても気にしないけど、やっぱり仲の良い人だと辛いのよね」


 夜の公演の出番を終え、控え室に戻ってきたジュリエッタが言った。


「あなたは大切なクラウンだから、いなくなってはダメよ」


「君だってそうだよ、ジュリー。君は唯一無二の凄い歌手だ、誰も君の代わりはいない。皆だってそうさ」


「言ってくれるわね」とジュリエッタは目を潤ませた。


 他の団員たちも私に多くを聞かず、ただ温かく迎え入れてくれた。私の1番の財産は、どんなときでも、どんな私でも受け入れてくれる仲間と居場所を手に入れたことだろう。


「ジェロニモは?」


 出番を終えたヤスミーナに聞いたら、「夜の公演に出て、今1人でどこかにいると思うわ」と答えた。


「分かった。ゴメンよ、勝手なことをしてしまって。あの女を僕は知ってるんだ、それで余計に頭にきてさ」


「いいのよ、私も見ててスカッとしたし」とヤスミーナは微笑んだ。彼女の返事を聞いてほっとした。


「ジェロニモが公演に出られなくなるんじゃないかって冷や冷やしたけど、2人で謝りまくったから何とかなりそう。凄い怒ってたけどね」


 一番心配していたのは、ジェロニモがあれを機に出演禁止になることだった。ピアジェのことだから、大切な客を怒らせたペナルティを科すことも容易に考えられた。その可能性が消えたことが何より嬉しかった。


「ネロ、あなたの正義感と優しさは凄く良いところだと思うわ。でも、心配なのはそれが今後あなたを苦しめないかどうか」


「僕のことは心配しないで。まずは君の心だけを守ることを考えて」


 ヤスミーナは躊躇いがちに頷いた。


 きっと彼女のことだから、自分のことだけ考えてなんていられないだろう。今も私のことだけじゃなく、ジェロニモのことを気にかけているはずだ。知っていてあえて言ったのは、彼女のことを少なくとも私は気にかけていると示すためだ。その事実だけでも救われるだろうから。


 ジェロニモは1人サーカステントの裏に腰を下ろしぼんやりと空を見ていた。黙って隣に座ると、彼はこちらを見ることもなくぽつりと溢した。


「俺、辞めようかな」


 彼の口から出る言葉を予想していた。私が彼ならそう考えると思ったからだ。


「お前は勘がいいし、すぐに上達するよ。俺はピアジェに才能がないってずっと言われてた。でもヤスミーナは俺ができると信じてくれて、根気強く教えてくれてたんだ。だけど今日分かったんだ、俺には才能がないって。ヤスミーナにも迷惑かけたし、ピアジェにも出来損ない、辞めちまえと詰られた」


「そんなことないよ。今日はたまたま当たった相手が悪かっただけだ。あの女は嫌な奴だよ。アイツの父さんもそうだ。きっと過保護にされてきたんだろうな」


「俺って昔からついてないんだよな」とジェロニモは自嘲して、地面の石を拾って投げた。石が木の根っこにコンという音を立ててぶつかり、弾かれて落ちた。


「俺の両親は俺が5歳のときに死んだ。当時妹は2歳だった。施設に引き取られて、世間からは可哀想な子って目を向けられて生きてた。他の子が金持ちの優しい里親に引き取られるのに、俺と妹が小学生のときに引き取られたのはヒステリックな婆さんと妹にセクハラするロリコンジジイがいるクソみたいな家だった。結局施設に逆戻りさ。


 学校では施設育ちだからっていじめられた。仲間には必死に努力していい大学に行ったり、運動ができる奴はスポーツ選手になったりしてたけど、俺は頭も悪くて運動もできなかった。バイトではコキ使われて、施設の同じ孤児からも馬鹿にされてた。周りの皆が1枚は持ってる特別なカードが俺にはないんだよ。レベルでいえばノーマル以下の弱っちいカードしかな。せめて普通の家庭に生まれたかったと何度も思った。


 高校のときにこのサーカスの公演を観た。ここで頑張りたいと思ったんだ。控え室に行ってルーファスに頼み込んで雑用から始めた。ジャグリングは運動神経がよくなくても上手くなるって、ヤスミーナが言ってくれた。だから頑張ってきたけど、もういいやって思えてきたよ」


 彼の境遇や今日の散々な出来事を思えば、自暴自棄になるのも仕方ない。ただ彼に辞めてほしくないというのは、私の勝手な願いだ。彼とは今まで切磋琢磨してきた。競争が嫌い私が上手くなりたいと思えたのは、頑張る彼の背中を見ていたからだ。


「じゃあ僕と旅に出ようか」


 ジェロニモは目を見開いた。


「何言ってんだよ?」


「君がジャグリングをして、僕がクラウンをやる。僕らならいいチームになると思うんだ」


 ジェロニモは「それもいいかもな、お前と旅したら楽しそうだ」と笑った。


「広い世界を見るのも楽しいかもしれないしね。だけどさジェロニモ、君はきっと凄いジャグラーになると思うよ。僕はずっと何かに向かって頑張れる人たちが羨ましかった。皆を見てて思うんだ、努力をできることこそが才能だって。そんなに頑張れてるのはジャグリングが好きだからだろ? 努力できる才能を捨ててしまうのが一番もったいないことだよ。どこにいたって、君はジャグリングを続けるべきだ。これだけは確かだよ」


「ありがとう、考えてみるよ」


 ジェロニモが俯いた。土をほじくりながら何かを考えているみたいだった。1人になりたいのだと理解して、そっとその場を去った。

 

 翌日の公演にジェロニモは現れなかった。彼の泊まっていたテントを探してもいない。テントの中のどこかに隠れているかと思われたがその様子はない。


「ああ……何てこと……」


 本番を前にヤスミーナは泣き出しそうな顔で頭を抱えている。


 リングの上の仲間たちはそれぞれ思い思いの場所に散って練習している。


「辞めないでってあれくらい言ったのに……。もっとよく見ておくんだったわ、彼が逃げないように」


 今は朝の9時30分。パレードのない日の公演は10時開演だ。彼のことだからてっきり「やっぱり続けるよ」と言ってひょっこり控え室に現れると思っていたのに。


 ホクの二の舞になったらーー。そんな悪い想像が頭を過ぎる。何としてでも見つけなくては。


「皆はパフォーマンスに集中して! 僕が探してくるよ!」


「まぁ待て」


 と静止したのはルーファスだ。


「まだ時間は30分ある。奴の出番までは大体1時間半あるだろう。とにかく待つんだ」


「待ってることなんてできないよ! こうしてる間にも彼は遠くに行ってしまっているかもしれない」


 焦る私の傍らでルーファスは余裕の笑みを見せた。


「待つことは一見受動的に見えるが、俺は能動的な行為だと思ってる。動くことよりも待つことの方が難しい。諦めるんじゃない。相手を信じてただ待て。ジェロニモはこんなことで倒れるような奴じゃない」


 やがて開演が近づき仲間たちが控え室へ向かう。


 ジェロニモはまだ来ない。


 開演のベルが鳴り、オープニングショーが始まる。ケニーとともにいつもの場所で演技を見守る。


 ピアジェの口上、空中ブランコ。もう20分が経過した。時間の経過とともに不安が高まってゆく。


 綱渡り、オートバイショーで15分。


 パイプレットとヤスミーナのジャグリングで20分。


 やはり、ジェロニモはもうーー。


 諦めかけたとき舞台が暗転し、目の前を横切る誰かの気配を感じた。


 もう一度照明が灯ったとき、白シャツと黒のベストとパンツに身を包んだ青年の姿がリングの真ん中にあった。彼は堂々とした様子でボールジャグリングを披露し、ディアボロもミスなくこなした。


 最後の余興、ヤスミーナとのクラブパッシングも成功させ、客席に向かって両手を高々と挙げて見せた。


 オフ・ステージに戻ってきたジェロニモの身体を強く抱きしめた。ジェロニモは「痛いって、離せよ!」と照れていたが。これは困難を乗り越えリングに戻って来た勇気を讃え、パフォーマンスを成功させたことへの祝福の意が込められていた。


「よかったぞ〜、ジェロニモ君!」


 涙で顔がぐちゃぐちゃになったケニーもジェロニモを抱きしめ、ルーファスもジャンもアルフレッドもヤスミーナも続いた。最後ジェロニモは皆にもみくちゃにされて痛い、暑苦しいと騒いでいた。ヤスミーナは涙を拭っていた。

 

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