第34話 夜のサーカステント

 その夜、メイクをして衣装に着替えたあとルーファスと無人のリングで練習をした。


 周りでは仲間たちが自主練をしている。床に着地する音、クラブが手に当たる音、ロープの軋む音がテントに反響している。


「初心者のクラウンは動きすぎるきらいがあるが、動きはシンプルにした方が伝わりやすい。大事なのは自分の動きを理解することと、観客にそれを伝えることだ。最初は一つ一つの動きを確認しながら勧めた方がいいな」


 エントランスから登場するとき、和装のために歩き方に気を配る必要があった。しかも下駄だ。一歩踏み出すたびにカランコロンと音が鳴る。これだけで興味を引けるはずだ。


 淑やかだが堂々と、ゆっくりと、ゆったりとした動作で手脚を動かし歩いて行き、立ち止まり、観客の方に向き直りペコリと礼をする。くるりと振り返り、止まり、後ろの席に向かってもう一礼。


「うむ。歩き方に関しては基本は押さえてあるが、もう少し研究を重ねた方がいいな。それと、礼のあとにもう一つ何か面白いハローをした方がいい。このクラウンには目立ちたいという願望があるな?」


「うん」


「目立ちたいクラウンがどんな行動をするか考えろ。感情というのは一つ一つの動きにリンクしてくもんだ。一つのショーを作るためには、ショーで何を表現したいかというゴール、つまり目的が必要だ。そして、目的を達成するには手段が必要だ。


 願望、願望を叶えるための手段(行動)、ショー全体の目的。その3つを明らかにして、クラウンの言動を関連づけていくことで、クラウンのショーが面白くなる」


 首を傾げすぎて身体まで傾いてきた私をみて、ルーファスは苦笑いした。


「例えば目立ちたいという願望を叶えるために、どんな目的が生じるか? そしてそれを達成するために自分がどんな行動をしていくか決めるんだ。その行動が突拍子もなくて馬鹿らしいほど面白い。


 例えば皆に可愛がられている猫がいたとして、その猫より自分が目立つような行動をとろうとするとかな。すると自分の目的は、『猫より目立つために、何か芸をしよう』となるわけだ。


「猫より目立つなんて無理だよ」


「例えばの話だ。確かに猫は可愛い。まず、目立ちたいという願望を持ってお前が登場するとして、猫が皆に可愛がられていたとしたら、どんなハローをするか想像してみるんだ」


 この間テントで予習したぞ、と得意な気持ちになりながら、エントランスから登場し、観客の方を向いてキーっとハンカチを噛む。猫が目立っていることに腹を立てているのだ。


「そうきたか」とルーファスは顎を撫でた。


「じゃあ、ハローはいいとして猫より目立つためにお前は何をやる?」


「日本舞踊をやる」


「踊れるのか?」


「うん、学校で習ったんだ」


 振りの一部を披露したら、ルーファスは「悪くはない」と言った。


 ギターの要領で控え室にあった三味線をわざと下手くそに引いてみたら、ルーファスは「それもいいな」と頷いた。


「ショーの内容を考えるときは、もっと大きな視点で考えてみろ。お前は猫が羨ましい。そして、猫は皆の注目の的だ。例えば、猫より目立つ存在になるための手段として、あえて苦手な猫を飼って、どんな魅力があるか観察するという行動をとることもできるな。するとショーの目的は、『苦手な猫を克服する』となって面白みが増す」


「おおっ、それは思いつかなかった! ルーファス、凄いよ!」


「こんな感じで、願望とそれを叶えるための手段(行動)を考えたあと、ショーの目的をはっきりさせることで面白いショーが出来上がる」


 ルーファスは突然私に即興劇を作れと命じた。架空の状況を自分で作り、自分のキャラクターのままスキット(コメディ劇)を即興で演じてみる。この時大事なのは、3W(Whenいつ, whatなにをしている, whyなぜそこにいるのか)を意識することと、クラウンが劇の中でとる行動が願望とリンクしているかどうかというところだ。

 

 思いついたスキットのタイトルは、『マフィアに攫われた宇宙人』や、『人類を滅亡させに地球にやってきた宇宙人』『地球で婚活をしようとする宇宙人』だったが、ルーファスに「全部宇宙人じゃないか、宇宙人から離れろ」と突っ込まれた。


「でも、最後のやつは面白いかもな」と言われた。


「分かった。じゃあ俺が途中までの設定を考えよう。そうだなぁ……。じゃあお前は宇宙人だ。なぜ婚活をしたいのか? どんな願望があるのかまず考えろ」


「地球人と結婚したい」


「なぜ? その目的は?」


「地球人と宇宙人のハイブリッドのすごい能力のある子どもを生んで、その子と一緒に地球征服を目論む」


「とんでもない奴だな。じゃあそのために何をするか? どう行動するか考える必要がある。


「地球人の婚活パーティーに行く」


「分かった、とりあえずやってみよう。お前は地球人と結婚したいという願望と、強い子どもを残し地球を征服するという目的を持って、婚活パーティーに行くという行動を起こす。そこで何が起こるか? やってみろ?」


 しかし、いざやるとなると頭が真っ白になる。とりあえず控え室から変な声が出る壊れかけた笑い袋と透明な紐、ワインボトルと2つのワイングラス、セロテープを持ってきて、紐を40センチくらいに切った紐を自分の手のひらとボトルに繋いでテープで貼った。


「そのワインピアジェのだぞ、見つかったら殺されんぞ」


「あとで返しとく」


 丸テーブルと椅子を設置して席に座る。離れた場所にボトルがある。誰かと話しながらちらっと後ろの席を見て、その人間の真似をしてワイングラスを嗅いで飲む真似をする。


 誰かの言ったことに笑うふりをするが、ここで宇宙人風の機械的な笑い声が出てしまうが、ゲップをしてしまったとジェスチャーで誤魔化す。ちなみにこの笑い声は笑い袋で出したものだ。


 自分には特技があると身振りで相手に自慢する。そして、ワインボトルを超能力で自分の方に引き寄せようとしたが、まさかのそのボトルが倒れてしまいテーブルに赤い水たまりが広がって蒼白になった。まずい、本当にピアジェに殺される。


 結局練習は中断し、ワインが減ったのを誤魔化すためにピアジェのボトルに水を入れ元の場所に戻すという予想外の茶番を演じる羽目になった。


 今度は以前にエクササイズでやったスラッピングの練習をした。スラッピングはクラウンショーの中で頻繁に登場する動作なのだという。


「前にも言ったが、本当に叩くのはナシな。叩いたら飯を奢ってもらうぞ」


「OK」


 ルーファスがリング左、私が右に立つ。まず、カウント1で右足を前に出し、私が腕を伸ばしルーファスの肩に右手を置いて相手との距離を確認する。距離は大体腕一本分だ。右足は動かさないで固定しておく。


 ルーファスが私に「レディ?」と訊き、私が「ゴー」と私が答えたらカウント2で真っ直ぐに伸ばした左手を後方斜め下に動かす。


 3カウント目で左手を相手の顔目掛けて振り上げ、大体相手の右耳あたりに左手を被せるようにして止める。同時に叩かれる側のルーファスは頬を反らし、臍のあたりで手を叩いてビンタの音を出す。


 これを何度か繰り返していたらルーファスとの間に信頼関係が生まれ、タイミングが合ってきてコツが掴めて来た。


 今度は手の甲を相手の顔に当てるバックスラップに挑戦した。


 2人で客席の方を向いて横並びに立つ。カウント1で右足を少し前に出す。カウント2で私が右腕を曲げずに左方向にずらす。カウント3でルーファスの顔面に手の甲を被せるようにする。同時にルーファスが顔を反らして手を叩く。


「3人でやるともっとバリエーションが増えるぞ」


 ルーファスはジャンを呼んできて、3人で横並びになって色んなスラッピングのパターンを試した。


 左がジャン、真ん中が私、右がルーファスだ。ルーファスは小さいので、象の曲芸で使う銀のテーブルのようなものに乗る。


 まず、私がジャンにビンタをしようとし、ジャンがしゃがんで避ける。私はそのまま回転して左のルーファスの頭を叩いてしまう。ルーファスは怒って私にビンタをし、後ろによろけた私はジャンに左手でバックスラップをしてしまう。


「何か楽しいな、コレ。俺クラウン向いてるかも」とジャンはノリノリだ。確かにジャンなら面白いし、素敵なクラウンになるだろう。


 ついでに相手の足を踏みつける『ステップ』、お尻を蹴る『キック』、相手の頭を拳骨で叩くなどの動作を反復したあと、フォールという倒れる動作の練習をした。


 フォールには3つの型があって、マットの上で怪我に気をつけて一つずつ練習をした。


 最初は膝を曲げ背中とお尻を丸めて、マットに手をついて座った体勢からお尻を後ろに滑らせ後ろに倒れる。マットに手をつくとき、転んだことを示すためにマットを叩いて音を出すのがミソだ。


 『片足ストレート』は、片脚をまっすぐに伸ばしたまま、あとは両足のときと同じ要領で手を床について尻餅をついて倒れる。ちなみにちゃんと顎を引いておかないといけないのは、転んだ時に頭を床に打って脳震盪など起こさないためだ。


 ここまではスムーズにできたが、前向きに倒れるフロントフォールが難しかった。前方に身体を倒してマットに手がついたとき、スラップで音を出し、手と腕で顔がマットにぶつからないように身体を支えながら最後顔をマットにつけ倒れた振りをする。


「俺は前、ショーでパフォーマンスじゃなく本当に転んでしまって鼻血を出したことがある。クラウンが血を出してるのは側から見るとマジで怖いからな、怪我には注意だ」


 ルーファスは真顔で教えてくれた。


 左足首に右足を引っ掛けてコケた振りをする『トリップ』は、前にエクササイズで行った動きだったからすぐに覚えられた。

 

 フォールができるようになったら、今度は仰向けに倒れた人を起こす『プルアップ』に挑戦した。

 

 流石に私をルーファスが持ち上げるのは不可能だし怪我の可能性もあり不憫なので、持ち上げる役割は私が担った。


 倒れたルーファスの肩とマットの間に両手を入れ、ケニーのギックリを踏襲してしまわないように注意を払って中腰の姿勢から膝に力を入れてルーファスを持ち上げた。ルーファスは持ち上がりやすいように板のように背中をピンと伸ばしていた。子どものように小柄なルーファスだから私でも楽に起こすことができたけれど、これが他の男子メンバーだったら絶対に無理だ。


 一通りのルーファスは鞭を使った寸劇をやると言った。


 鞭使いを演じる前に、『プリーズ・ノー』と呼ばれるゲームをやった。私がルーファスに何かをお願いするために、「プリーズ」と頼み、ルーファスは「ノー」と答える。私の目的は私をイエスと言わせることで、ルーファスは絶対に屈服してはいけない。お互いに使える言葉は、プリーズとノーだけだ。


 私にゲームを貸してほしいという願望があり、ルーファスはそれがプレミアもののゲームだから貸したくないと言って拒むという設定にした。


 私はルーファスの目を見て「プリーズ」と頼み、ルーファスは「ノー」とそっぽを向く。めげずに「プリーズ」とルーファスの正面に回り込み手を合わせると、ルーファスは手を払うように2度振って「ノー」と答える。私はルーファスの腕を取り、「プリーズ」と泣き顔を作り、ルーファスは手を振り払って「ノー」と怒り気味に言う。後ろから抱きつき「プリーズ」と可愛い感じに言い、ルーファスは「ノー!」と言いながら走り回る。私たちはしばらく「プリーズ!」「ノー!」を連呼しながらリングを駆け回った。


 そのうちついにネタ切れした。動き回っていたお陰で息が切れて額には汗が滲んでいた。


 詩ならここで何をする?


 私はやぶれかぶれでポケットからお札を取り出してひらつかせながら「プリーズ」と言った。するとルーファスはぶほっと吹き出し、「合格だ」と親指を立てた。


 次に『鞭使い』をやるぞ、とルーファスが持ってきた鞭を見て、筋トレで起きたことがフラッシュバックして脚がすくんで動けなくなった。肩と背中に鞭がぶつかったときの鋭い痛みが蘇り、身体が震えてきた。男の仕打ちは、私に想像以上に強いダメージを与え、トラウマを植え付けていたらしい。


 私の様子が変わったのに気づいてルーファスが「おい、なんか顔色悪いぞ」と言い、自分の手元の鞭を見て「ああ、そうか」と合点がいったように頷いた。


「地雷を踏んでしまって申し訳ない」とルーファスは謝り、少し休憩を取ろうと気を遣ってくれた。


 私は深呼吸し、少し水を飲んで気持ちを落ち着かせた。他の団員はもっと辛い思いをしている。ケニーなんて毎日のように怒鳴られ無茶な仕事を投げられている。それなのにあの1日の体験だけでここまで追い詰められる自分が情けない。


「鞭の代わりに別のを使うか」とルーファスは腕組みをした。シンディが前にショーで使ったというリボンを貸してくれるというので、それを使うことにした。


 10分ほど休み落ち着いたので立ち上がった。ルーファスにやれるか? と問われ頷く。


「よし、じゃあ始めるぞ」


 『鞭使い』は、鞭使いのホワイトフェイス、馬鹿なアシスタントのオーギュストクラウン2人で行う古典的な寸劇だ。リングの上での動きが大袈裟になっているかや、観客の視線や自分の動きの意味を理解しているかどうかを意識するのに効果的な練習だという。


 ルーファスは控え室から、マジックテープでくっつけられた半分に割られた林檎の玩具を持ってきた。


 最終的な目標は鞭で林檎を割ることなので、2人は鞭がぶつからぬよう離れた場所に立っていなければならない。


 まず最初にリボンを持ったホワイトフェイスの私がリングの上を歩き出す。そのすぐ後ろを林檎を持ったオーギュストのルーファスが何故か背後霊のようにぴったりとくっついて歩く。ちなみにルーファスは私に背を向けているから、距離感がおかしいことはルーファスと観客にしか分からない。


 ルーファスが離れた場所に立っていると思い込んでいる私は、後ろに身体ごと振り向く。ルーファスはまた私の背中にまわる。私はいるはずのルーファスがいないので首を傾げ、次に真後ろにいるのに気づいてもう一度身体を逸らしてびっくりする。


 怒った私は腕組みをしてルーファスに説教をしたあと、首根っこを掴むふりをして離れた場所に立たせる。


 これをもう1回繰り返したあと、3度目の途中私の圧に怯えたルーファスは自分で所定の場所に立つ。


 ルーファスは林檎を手に持って立ち、私は鞭のつもりのリボンを引いて3つ数えて素早く振り下ろす。そのタイミングでルーファスはくっついていた半分ずつの林檎を引き離す。すると観客からは林檎が割れたように見える。最後2人で林檎が割れたというのを客席にアピールする。

 

 次は、私がルーファスに背を向けて立ち、左手で鏡を持って鏡に背後の林檎を映しながら、リボンで林檎を割る。ルーファスは自分にぶつからないかとビクビクしている。3カウント目でリボンを振り下ろすも、ルーファスがタイミングをわざと間違え、林檎が割れるのが少しずれる。


 私は怒った様子で今度は目隠しをして林檎を割ろうとするが、ルーファスは恐怖に怯えた表情で身体と顔を反らせ、失敗のとばっちりを回避するために林檎からできるだけ離れていようとする。


 リボンが振り下ろされ無事林檎は割れるが、ルーファスは危険なことをさせられた苛立ち紛れにむしゃむしゃと林檎を食べる。私はルーファスに怒るが、最後向き合った私の顔にルーファスが林檎を吹きかける真似をする。


 激怒した私は顔を拭い、ルーファスを追いかける。ルーファスは一目散にエントランスに向かって逃げて退場だ。


 こうやって演じてみるとスキットの面白さが分かる。


「あぁ、楽しかった!」


「楽しかったで終わらず、反省点や改善点を考えなければいけない。もう少し観客に分かりやすいように動いた方がいいな。クラウンの動きは誇張されていないと駄目だ。リボンを振るうのも大きな動作で、林檎を割るのもギミックーー仕掛けのことだな。例えば2度目のリボンが当たるのと林檎の割れるタイミングをわざとずらしたことをはっきり示して、本当に林檎を割るんじゃなくて仕掛けがある、つまり、元々林檎は割れてるという事実を観客に晒さないとならない。まぁ、観客は仕掛けがあることは分かって観てる人はほとんどだが、子どもにも分かるように、自分の行動を明確に表現できないとな」

 

 ルーファスの助言を念頭に置き、2人でその動きをもう一度繰り返しその日の練習は終わった。


 クラウンノートは続けている。寝る前にテーブルで真剣にノートに向かっていると、「お前そんな頭使って疲れないか?」とミラーが声をかけてきた。


「書くのは苦手だったけど、最近は慣れてきたよ。書いてないと忘れるから」


 とりあえず、とったノートの内容はこんな感じだ。



6月22日


グアヤキル公演2日目。


今日の練習


①即興劇


 寸劇の目的を明らかにして、自分の行動を決めていくことを意識して行った。劇の内容ははちゃめちゃだったけど、その方がかえって楽しい。


②スラッピング


 タイミングを測ってできるようになった。3人でやるのは難しかったけれど、これがスムーズにできるようになればとても魅力的なショーになると思う。


③フォール


 片足ストレートのフォールをするときは怪我をしないように顎を引いてやること。


④プルアップ


 起こす側はケニーみたいにギックリ腰にならないように、中腰の姿勢で膝に力を入れる。起こされる側は背中を凍ったチャップリンみたいに真っ直ぐにすること。


反省


 観客の目を意識して、自分だけでなく観ている人がクラウンの願望や目的、行動などを理解できるように動くことが大切だと思う。


 ステージに立てるかすら危うい状況だけれど、少しずつ専門的なスキルを覚えていくのは楽しかった。もっとリングでの一つ一つの動きを誇張することで明確にして、観客を意識して練習に取り組もうと思う。

 


 綱渡りの進歩度はイマイチだったのだが、キトでの最終公演が終わった後のテントで下駄を脱いで足袋を履いて綱の上に乗ってみたら、足指で綱を挟め上手くバランスが取れることに気づいた。いつも半分くらいで落下していたため、もはや落下することが目的のようになっていた練習に光が差し始めた。


「凄いね、その調子!」


 最後まで渡り切った私にクリーは拍手を送ってくれた。今回ばかりは調子に乗ってもバチは当たるまい。


 夜のテントで休憩していたらジュリエッタが鼻歌を歌いながらやってきた。


「道化の恋は一度きり〜♬」


 そのフレーズがなぜか頭に焼き付いて離れなかった。


 私は一度の恋すらしていない。これからできるとも思えないけれど、もし心から愛する人に出逢えるのなら人生でたった1人、一度きりでいい。


 キトでの最終公演の日の翌日、街の日本雑貨屋でケニーと一緒に何か面白いものはないかと見繕っていたら、中年の日本人の夫妻が紙風船を勧めてくれた。お土産として人気なのだという。赤、白、緑、青の三日月の色の入ったそれは、最初の形状は葉っぱみたいなのに、膨らますと可愛らしい丸い紙風船に変身する。


 これを使って何か芸ができないかと駄目元で尋ねたら、旦那さんの方が「傘回しというのがあるよ」と教えてくれた。日本の大道芸の一つで、旦那さんは元傘回しの日本チャンピオンだという。


 旦那さんは店先で華やかな白い桜柄が渦を巻く紫色の美しい傘を広げ、少し傾け右手を軸にして両手で持つと、枡という正方形の小さな木箱を傘の上で回し始めた。くるくると高速で回る傘の上で、桜と一緒に升がころころと飛び跳ねるみたいに回っている。


「おお〜っ」


 ケニーと私は感激して手を叩いた。


「傘回し初心者はまず、紙風船から始めるといいよ」と旦那さんは流暢な英語で言った。紙風船は傘の上に乗りやすく止めやすい。また、軽いためにバランスがとりやすいのだとか。傘回しにはレベルがあり、初心者は紙風船、中級は鞠、上級は金輪、達人になると枡を回せるようになるらしい。


 私は他の客の邪魔にならぬよう店の隅に移動し、旦那さんに紙風船の傘回しを教わった。ケニーも一緒にトライした。


「傘の柄と紙風船が90度になるように回すといいよ」


 観ているだけだと簡単そうに見えるが、いざやってみると難しく、紙風船を回しているうちに身体が前のめりになり、紙風船が傘の傾斜に転がり落ちてしまう。しかも右腕だけでなくいつも使わない右手の指先の筋肉を酷使するため、腕がすぐに疲れてしまう。見た目では分からないが、結構な運動量だ。ケニーは10分の運動で汗をかいていた。


 旦那さんは、前のめりになりそうな時は傘をまっすぐに立てて紙風船が元の位置に来るように調整すればいいと教えてくれた。その通りにしたら上手くできるようになった。最後、逆さにした傘でキャッチするところまで30分余りでマスターした。


「君はなかなか勘がいいね」と旦那さんに褒められまた調子に乗りそうになった。


「そうですか? ありがとうございます」


 紙風船をクリアしたら次は鞠だ。


 鞠は重さがあるぶん回転スピードも早く、紙風船とは比較にならない難易度だ。これは1分続けて回せるようになるまでに1時間を要した。


「鞠までできたら大したものよ」と奥さんが励ましてくれた。


 逆さにした傘に入れた鞠を手に取り、これでジャグリングをしたら面白いかも知れないと閃いた。普通のジャグリングボールよりもニ回りくらい大きいが、金箔を散りばめた生地に白い蓮子の柄と素材の触り心地がとても気に入った。


 他にいい道具はないものか。


「日本にお墓ってありますよね? あの隣に刺してある木でできた長いギザギザしたものは……」


「アレは卒塔婆っていうものだ。縁起が悪いから使わない方がいい」旦那さんは必死に首を振った。奥さんは苦笑いしていた。その反応で触れてはいけない領域だったのだと理解した。


 私はその店で桜柄の傘と3種類の鞠と、紙風船を買った。


 

 アルマンドという医師が雇用されたのは、エクアドル公演の前日だった。前の医師が逃げるように辞めてからというもの、なかなか医者が決まらなかったのだ。


 アルマンドは小太りのインド人で、片言の英語を話し、昨年医師を退職してインドからエクアドルに移住したのだという。よく喋る男であるが、シンディのことをやたらジロジロ見ていて気味が悪くて私は苦手だ。


 だが彼の能力は気持ち悪さとは比例しなかった。彼は内科、外科の両方を極め、医学に関しては膨大な知識を持っていた。精神科医ではないらしいが、ケニーはよくアルマンドの部屋兼医務室にピアジェによって与えられるプレッシャーからくる不眠や精神的苦痛に関する相談に行っていた。


 だがある日ケニーは珍しくぷんぷん怒りながらアルマンドの部屋から出てきた。どうしたのかと尋ねたら、「彼ときたら、患者が来たってのに『これからカレーを食うから後で来い』って言いやがった。今はお昼休憩でも何でもないってのに。何て奴だ!」


「まあまあ、カレーくらい食べさせてあげようよ。話なら私が聞くよ」


「ありがとう、アヴィー。君も疲れてるだろうから、あとでまた部屋に行くことにするよ」


 ケニーはため息をついた。


 

 練習のとき自分の心を奮い立たせるために、綱渡りの前にいつもルーファスとスラッピングをするときに使っている"Ready準備はいい?? " という掛け声を掛けることにした。すると、不思議とスイッチが入るのだ。


 ルーファスとはクラウンにとって大事なムーブメントやパントマイムなどの練習を沢山した。パントマイムを教わっていると見つかってピアジェに怒鳴られるので、あまり思うように練習できなかったが。


 トイレットペーパーの芯よりも一回り大きくて太い木の筒の上に、長い長方形の木の板をシーソーのようにして置いて、その片端にベレー帽を乗せて、もう片端の浮いた方を足で踏んでベレー帽を上方に飛ばし頭に被る練習も繰り返しやった。上手く頭に乗るようになったら、今度はわざと背中に乗せて、身体を揺らし頭まで帽子を動かして被る難易度の高い技も1週間ほどで習得した。


 鞠でのジャグリングも最初はボールの大きさのために難しかったが、慣れてきたら3つでできるようになった。ただし、3つが限界だったが。


 エクアドル、コスタリカ、コロンビア、ガイアナ、スリナム、ギアナの主要都市を2ヶ月かけて巡ったあとは、中央アメリカを横断する。


 皆のハードスケジュールが続いているということで、ルーファスからの提案で一つの国での公演のあとに4日の休みが取られることになった。これまで休みは多くて2日だったが、流石に世界公演でコンスタントに続く場越し作業からの連日2回公演となると団員や動物たちの疲労が甚だ激しく、疲労による怪我や病気の可能性も考慮された。実際団員の中には疲労でダウンする者も見え始めた。超勘違いサイコパス体育会系のピアジェは休日増加案に猛反対したが、ルーファスの必死の説得と団員たちの訴えにより休日が増えた流れになる。その分練習時間も増えた。サーカス団がブラック化していき団員たちの負担が増えるのは耐えられないため、これには私も胸を撫で下ろした。


 しかしながら安心したのも束の間、新しい出し物をやるというピアジェの言葉によって大混乱を極めた。


 天気輪の輪を模して作られた黄色とオレンジに光る全長10Mの先の細い鉄塔のような柱の上方に、両側に直径2.5メートルの大きな車輪がついた5Mの太い鉄の軸がついている。時計回りに回転する軸の両端についた車輪の上に立ち落下しないように走り、中に入り走り続けるというとても危険なショーである。


 指名されたのはジャンともう1人のキールと呼ばれる男性の曲芸師だった。ジャンは喜んでいたがキールは不満げだった。しかしながらピアジェの命令は絶大で、2人は公演後のテントや街の広い屋内運動場などを貸し切って、休日返上で練習に取り組まなければならなかった。


 そんな中、事故は起きた。


 ジャンが車輪から落下して右腕を骨折したのだ。


 全治2ヶ月と診断されたジャンは安静を余儀なくされ、ジャンの代わりに別の曲芸師が代役に起用された。


 しかし常に活動的なジャンにとって、じっとしていることはかなりの苦痛なはずだ。首にかけられた三角巾で包帯に巻かれた腕を固定しながら、「可愛い子をナンパしに行きてぇな〜」なんて言ってる。彼があまりに不憫だから、退屈を凌げるように猫の写真集を買ってあげた。

 

 綱渡りの進度はスローペースだったが、ジャグリングはグングン上達していった。ボールやクラブである程度基本技を覚えてきたら、ビールの空き瓶や修理用のスパナやビー玉、厨房にあるバナナやキュウリ、トマト、メロンなども私の練習道具になった。ちなみにバナナジャグリングをしていたらコリンズに1本奪われて、お決まりの追いかけっこが始まった。


 ある日こっそり厨房で生卵3つでカスケードをしていたらコックさん3人が入ってきた。怒られると思ったら「おお、凄い凄い」「ああ、回ってるよ。目が回りそうだ」「どうやってやるの? それ」などと無邪気に感激しながら見学していた。


 コックさんたちに野菜を使って得意になってジャグリングを教えていたら、入り口ドアの隙間から顔を突き出したピアジェに「練習しろおおおお!! ショーに出さんぞ!!」と大目玉を喰らった。昨日まで私を透明人間のように扱っていたのが嘘のようで呆気に取られて持っていたゴーヤを落としてしまい、コックさんたちに必死に謝った。コックさんAは「いいよ、あげるよ」と笑って許してくれ、コックさんBが「卵とベーコンと玉ねぎと一緒に炒めて、ゴーヤーチャンプルーにすると美味いよ」と教えてくれ、コックさんCは「あのボコボコしたところで背中をかくといいよ」と私が考えていたのと同じようなことを言った。


 中米の入り口、パナマを2つに割るように存在するパナマ運河は全長82メートルの巨大運河で、大西洋と太平洋を結びつける大きな役割を果たしている。


 車窓の外、眼下に広がるパナマ運河は壮麗で息を呑んだ。白い客船やカラフルな箱を積んだコンテナ船がゆっくりと海路を進んでゆく。


 ケニーは食堂車の窓から身を乗り出さんばかりにしている私の横で「僕よりパナマ運河の方が遥かに世の中の役に立ってるよ」と死んだ魚のような目でため息を吐いた。


「一体どうしたの、ケニー?」


「ちょっと最近疲れててさ」


 疲れているケニーのために、私はちょっとしたサプライズを用意していた。


「ねぇケニー、今日シンディと一緒にランチしてきたら?」


「ええ?!」


 シンディは斜め前の席でアルフレッドたちと楽しそうに話している。最近ケニーはやっとのことでシンディと挨拶を交わせるようになった。シンディもケニーに好感を持っているようだし、この際だから2人に距離を縮めてほしいと思ったのだ。


「むむむむ、無理だ!! 彼女を誘うなんて……」


「彼女言ってたわ、あなたのこと優しそうだって。あと、タイプだとも」


 ケニーにはあえて今までシンディの気持ちについては伝えていなかった。意識し過ぎてギクシャクしても悪いと思ったからだ。


「ううう嘘だ嘘だ! 君が聞いたのは幻聴か何かだろう。てゆうか彼女には恋人がいないのかい?」


「いないみたいよ。フリーだって。だけど……」


 言い淀んだ私にケニーは不思議そうな目を向けた。


「詳しくは分からないけど彼女、何か過去にトラウマがあるみたいなの。今すぐ恋愛って感じでもないのかも。だからまずはゆっくり友達から始めたらいいわ」


 ケニーはチラリとシンディの方を見た。


「だけど、2人で食事なんて……」


 ケニーはまたぶんぶんと首を振った。


「断られるに決まってる。期待して誘って、断られたときが一番辛いんだ」


「簡単に諦めちゃ駄目よ。言ってたじゃない、変わりたいって。それとも、代わりに誘ってきてあげようか?」


 ケニーはじっと俯いて何か考えているみたいだった。私は口を閉じてただ返事を待った。視線の端を青く雄大な運河が通り過ぎて行く。


「分かった、誘ってくるよ」


 ケニーは立ち上がり大きく深呼吸をし、シンディの方に歩いて行った。


 成長したな、前はシンディと話すことすらできなかったのに。感心して見守っていたらすぐにケニーが踵を返して戻ってきた。


「やっぱり無理だあああ」


 落胆してため息が出た。こんなとき文明の力スマートフォンさえあれば、私がシンディの連絡先を聞いてケニーに教え、2人がメールで交わることが可能になるというのに。この頃は以前依存しきっていたスマートフォンのない生活にすっかり慣れていたけれど、こんなとき不便だとつくづく感じる。が、この長期間で女性への免疫を完全に消失してしまったケニーにとっては勇気を振り絞る大切さを知るためのいい機会かもしれない。


 そこにタイミングよくシンディがやってきて、アルフレッドとジャンたちと一緒にランチを食べに行かないかと誘った。皆でならケニーも気が楽かもしれない。


 私は迷わずOKした。ルチアが珍しく自分も行きたいと言ったので、シンディは笑顔でOKしていた。


 雨季と乾季の2つの季節だけが存在するパナマの9月は雨季にあたる。頭上はるか高く曇り空が広がり、じっとりと汗ばむような湿気に気が滅入りそうになる。


 ランチはパナマシティのビーチの側にあるレストランでとることにした。椰子の木に囲まれたレストランの名前の書かれたアーチをくぐった先にある白壁の店の店内には、大きなフードコートのような光景が広がっていた。


 メンバーは私とケニーの他にシンディとルチア、アルフレッドとジャンの6人だ。ジャンはずっと身体を動かすこともできずつまらない生活を送っていて、気晴らしに出かけたかったみたいだ。ケニーは「まるでリア充みたいだな」と苦笑いしていたが嬉しそうだった。男女グループで食事に行くなんて、彼にとって予想だにしない展開だろう。


 店内は混雑していて待つことを余儀なくされた。そこで、敢えてグループを2つに分けようと提案した。その方が早く席につける可能性があるし、ケニーとシンディを2人きりにするチャンスでもある。他のメンバーは快く賛成してくれた。


 間もなく店員が2人用の席が空いたと告げにきた。これはチャンスだ! 


「ケニーとシンディ、先に行っていいよ」


 ケニーは「ええ?!」と驚いていたが、シンディは不思議そうにしながらもケニーに目配せをした。2人が席に向かうのを見つめながら、心の中でガッツポーズをした。


 5分後に4人がけのテーブルに座ったとき、カウンター側の窓際にいるケニーたちと店の奥の壁際の私たちで結構距離が開いていて様子が見えにくいことに気づいた。


 2人が楽しく話してくれることを祈りながらメニューを眺める。私とジャンとアルフレッドは3分以内に即決したが、隣のルチアは迷っているみたいだった。


「ごめんねみんな、帰るのが遅れるわよね」


「いいよいいよ、どうせ今日は休みだし」とジャンがフォローした。


「私決めるの遅いのよ、いつも迷うの。皆先に頼んで」


 ルチアの言葉に甘えて料理を注文して待つ間も、彼女はなかなか決められずにいた。


 そういえば、子どもの頃はオーロラとよく家の側のファミレスに行っていた。私はメニューを網羅していたから予め何を食べたいか決めて行く。オーロラは5分くらい迷って「これにする」と決める。オーロラが選ぶのは季節限定メニューや新しく出たメニューだった。当たりもあればハズレもあった。ハズレだとしてもオーロラは口に合わないということを口に出さない。でも私は察して自分のハズレじゃない方の料理を半分オーロラにあげて、オーロラのハズレを完食した。


 その話を聞いたジャンは、「お前いつもオーロラのこと喋ってるけどさ、そいつのこと好きなんじゃね?」と真顔で言った。


「僕もそう思う、彼女のことを話すとき楽しそうだもんな」アルフレッドも同意する。


「友達としてのLOVEだよ、彼女とは付き合いが長いんだ」


 もちろんオーロラには会えるものなら今すぐ会いたい。話したい。彼女に会ったらきっと全てのメッキが剥がれ落ちて私自身に戻ってしまう。それはいつも心地よく繊細で春のように暖かい感覚だった。


「まぁいいんじゃね? 男女の友情だって成立すんだろ?」


「うん。それに、自分たちなりの関係があるならいいよね」


 ジャンとアルフレッドがいいことを言ってくれた。


 この気持ちを友達以外にどう定義するかなんて、これまで考えたこともなかった。ソウルメイトと呼ぶ気になれば呼べたけれど、そんな風にわざわざ名前をつけなくても私たちはずっと私たちの関係性でいられた。無理やり名前をつけると途端に陳腐に思えそうだった。


「決めたわ」とルチアがメニュー表の魚料理の写真を指さした。


 立ち上がってケニーとシンディの方を見ると、2人は思っていたよりも話が盛り上がっているみたいだった。


 店員が料理を運んできた。


 私の頼んだシュリンプ料理のシュリンプの一つを、テラス席から店内に侵入した猫が咥えて走って行った。


「ああっ」


 慌てる私を見てジャンたちが笑った。ルチアだけが1人悲しげに俯いていた。

 

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