第32話 別れ

 クスコの夜の公演で事故は起きた。


 ファイヤーショーの途中で、炎がホクの腰蓑に燃え移ったのだ。客席から悲鳴が上がる中、エントランスの裏で見ていた私は咄嗟に通路に置かれていた消化器を持って出て行った。ホクは全身真っ白になった。ホクに目配せをして消化器を渡すと、理解したのかホクも私に消化器の粉を吹きかけた。


 真っ白になってリングに立ち尽くす2人に笑いが送られる。

 

 しまいに私は僕の持っていた火の消えた木の棒を2本拾い上げてホクに1本投げてやった。そして剣道という即興劇が始まった。棒で叩くふりをされたホクが倒れて、今度はプロレスラーのように襲いかかってくるのを私が交わす。


 今度はホクは、ボウリングのように振りかぶってコロコロとこちら消化器を転がした。私はそれを踏んで後ろ向きにズッコける。セオリーも知識も何もない即興劇に観客たちは笑いを堪えられない様子だった。


 オフ・ステージに引っ込んだ私たちにピアジェが激怒したことは言うまでもないが、ホクの窮地を救い笑いに変えたことを仲間たちは褒めてくれた。ホクにも感謝された。


 クスコの最終公演の夜、パレードが終わり観客のはけたテントを雄叫びのような声と、ガシャーン!! という金属が激しく衝突する音が揺らした。


 一瞬何事かと思ったが、雄叫びの主であるホクが客席の椅子をあちこちに放り投げているのを見て事態の深刻さを知った。


 散らばった椅子の脚は折れ曲がり、背もたれが無惨に外れている。


「おい落ち着け、これ以上大事な椅子を壊すな!」


 ルーファスが必死に宥めて制止しようとしているが、極限の興奮状態にあるホクの耳には届いていないようだ。隆々とした筋肉に覆われた腕で整然と並べられた椅子を持ち上げ、前方の客席の列に鋭い破壊音を立ててぶつけている。

 

「ホク、やめて! 私が悪いんだ、私が失敗したから……」


 クリーが止めようとするのを振り切って、ホクは大暴れを続けた。


 呆然と立ちすくむ私にシンディが耳打ちをした。


「クリーが綱渡りを失敗して、ピアジェが彼女を叩いたの。それにホクがキレて……。クリーは今日熱があったのよ、それをピアジェには言わなかったの。今日のことだけじゃなく、ピアジェはクリーやホクに特に酷いことを言ってたから、溜まってたんだと思うわ」


 やがて「なんの騒ぎだ?」と険しい顔のピアジェが入ってきた。


 ピアジェは無惨に破壊された椅子を見るなり、わなわなと身体を震わせた。


「この馬鹿力の能無しがぁ!! 客席をめちゃくちゃにしおって!! いくらかかると思ってる?! 弁償しろ、弁償!!」


 ホクは鞭を振り回して怒鳴り散らしながら向かう男の腕を捻り鞭を取り上げた。黒光りしてしなるような道具は強烈なまでの怪力によって両側に引き伸ばされ、ブチっという音とともに半分に切断された。


「あぁ……どうしたらいいんだ……」


 ルーファスは頭を抱えた。


「俺の仕事道具に何てことをしてくれる!! 口もきけない役立たずのくせに!! お前はクビだ、クビ!! どこにでも行ってしまえ!!」


 ホクはのしのしとピアジェに近づくと、その身体を両腕で軽々と持ち上げ放り投げた。男の身体はライナーのようにエントランスをくぐりオフ・ステージまで飛ばされ、通路に背を打ち付けられた。


「すげぇ……」とジャンが呟き、「何てこった」とアルフレッドがため息をついた。


 呆然と見守る私たちを背に、大暴れを終えた男はドスドスと重い足音を響かせながらテントを出て行った。


「ホク!!」


 慌ててホクを追いかけた。大きな後ろ姿は私を振り向こうともしないで、制御不能な激しい憤りに支配されているように大きな歩幅で歩みを進め続けた。


 ホクは寝ぐらのテントに入りゴソゴソ音を立てながら何かをしていたが、やがて頭を天井にぶつけながら麻の鞄を肩にかけて出てきた。その格好が何を意味するか一瞬で理解できた。


 ホクは褐色の目で私を見つめた。あまりに円で悲しい目だった。


 後からクリーも追いかけてきた。彼女の頬に流れる透明の涙が月明かりを受けて光っていた。


「ホク、行っちゃダメだよ! あなたがいないと私は……私たちは……」


 ホクはただ悲しそうに首を振るだけだった。クリーが泣くのも無理はない。ホクとクリーはよく一緒にいた。言葉がなくても2人の間には確かに信頼と友情による絆が築かれているみたいだった。


「ホク……あんな奴のことなんて気にしちゃいないよ。私は今までもっと辛い思いを味わってきたんだから!! あんな奴のせいで……。私のためにあなたが怒ることなんて……辞めることなんてないんだ!!」


 クリーがこれまでになく感情を露わにして、ホクの逞しい筋肉に覆われた太い腕に縋った。ホクはその手をそっと外した。


 彼とは友達でいられると思っていたし、これから一緒にショーを作り上げるんだと疑いもなく信じていた。だがこの場でホクに対してかけられる適切な言葉を、思いとどまらせて引き止めるための言葉を私は持っていなかった。それがあまりにももどかしくて悔しかった。


 ホクはただ悲しそうに私たちに向かって手を挙げた。そして黙って背を向けるとまた歩き出した。全てを拒むような意志を感じる背中を再び追いかけることなどできなかった。


 できるのはただ泣いているクリーを抱きしめることと、不器用で優しすぎるホクのこれからの道に幸せがあることを、何か辛いことがあったときにあのピラニアの剥製を見て私のことを、仲間がいたということを思い出してくれることを願うことだけだった。


 ホクがいなくなってからというもの、ショーに明らかな欠落感が生じた。私だけでない、他の団員たちも感じていたが敢えて触れないみたいに見えた。彼の躍動感に溢れたパフォーマンスはショーを構成する上で大きかった。私たちにとって必要不可欠で、観客にとってもそうだった。ホク自身がどう感じていたかは分からないが、彼のパフォーマンスは確かに存在感を持って、圧倒的で心を打つものだった。こういうことは、失って初めて気づく。


 思い起こせば、私は彼の存在にただ救われるばかりだった。こうして団員が欠けてしまうのを見ているしかなかったことが、歯痒く切ない。何かできたんじゃないか。止められたんじゃないか。そんな後悔ばかりが浮かぶ。


 列車で次の街に移動する間も、ホクのことばかりが頭に浮かんだ。クリーからは笑顔が減り、口数も減った。同志であるホクを失ったことは、彼女にとってかなりの打撃だったに違いない。


「彼について行けばよかったかもしれないって思う」


 クリーはぽつりと漏らした。


「最初に会ったときから何となく、私は彼の考えてることが分かった。言葉がなくてもね。多分、同類だったからかな。彼がいたからこれまで頑張れてたんだ。でもなんか、もういいやって思えてきた」


 彼女がこんな弱音を漏らすなんて珍しいことだった。その気持ちも分からなくはない。自分にとって大きな存在と別れた直後は、誰でも無気力になったりする。私ですら虚しさを感じているのだから。


「君がここを辞めてしまったら、ホクは悲しむんじゃないかな」


「どうだろうね。ホクには話してたんだ、辞めるときは2人で辞めようって。でもホクは1人で行っちゃった。私もあそこですぐに決めれたらよかったんだ、彼を追いかけられたら……。一緒に行くって言えてたら」


 クリーは深いため息をついた。


「今言っても仕方ないけどね」


 自嘲する彼女の目はあまりに虚ろで、よからぬことでも考えなければいいがと心配になるほどだった。


 ホクに出て行く道を選ばせ、クリーにこんな悲しい顔をさせている男が憎かった。


 しかしこの出来事は、これからサーカス団を襲う数々の試練の前触れでしかなかった。


 コリンズの様子がおかしくなったのは、その日の夕方のことだった。


 お腹を抑え「キーキー」と痛そうに鳴くものだから、団員たちが心配してコリンズの檻に集まってきた。ホタルがレントゲンを撮ってみたが異常なし。


「どうしたものかしらね」とホタルは腕組みをした。なおもコリンズはお腹を抱え苦しそうに鳴いている。


「食い過ぎじゃねぇか?」とジャンが言い、「可能性はある」とホタルも頷く。


「とりあえず胃薬を飲ませて様子見てみましょう」


 薬を投与されて1時間後、心配で檻を見に行ったらコリンズはケロっとして鉄柵を登ったり雲梯をしたりして遊んでいた。


 だが私がきたのに気づくと一転、再びお腹を抑えてキーキーいい始めた。


 それを見てピンときた。コリンズは構ってほしくて病気のふりをしているのだと。


 ホタルに伝えると、「やっぱりね」とため息をついた。

 

「無駄に薬飲ませちゃったわ、まぁ整腸剤だから毒にはならないけど……」


「猿芝居ってやつにまんまと引っかかっちゃったね」


「上手い。まさにそうね」


 猿芝居を見破られたコリンズはバツが悪そうにしている。


「仕方ない、少し部屋で遊んでやるわ。最近寂しかったのかもしれないから」


 檻を開けられたコリンズはご機嫌になり、ホタルの肩にしがみついた。


 構ってほしくて、気を引きたくて病気のふりをする。幼い頃、同じことを私もしたことがあった。母は当時仕事が忙しくて、私にゆっくり接する時間があまり取れなかったのだと思う。


 あれは小学3年の頃だったか。その日は日曜日で学校が休みだったが、母は仕事に行く準備に追われていた。シッターさんが来てくれる予定だったが、私は母といたいものだから頭が痛いと嘘をついた。体温は測ってみたけど正常で、母は少し悩んだあと会社を休んで一緒にいると言ってくれた。


 母はその日すごく優しくて、私の好物のミートローフを作ってくれ、本を読んでくれた。最初は母と2人でゆっくり過ごせることが嬉しかったけれど、だんだん嘘をついていることがすごく悪いことな気がしてきた。具合が悪い演技なんて続けられるわけもなく、私は夕方ついに白状した。すると母は言った。


「途中から気づいてたわ。具合が悪いっていう割によく食べるし、喋るし笑うし。寂しかったのね、ごめんね」


 母に抱きしめられ、泣きたい気持ちになった。母が私の嘘も気持ちも見抜いていたのに、何も言わずにいてくれたことに。そのときもう嘘はつかないと決めた。


「これからは寂しいなら寂しいと素直に言いなさい」


 そう母は言ってくれたけれど、どんなに母の仕事が忙しくても、父との諍いで母に私をかえりみる精神的な余裕がなくても、寂しいなんて一度も言えたことがなかった。どうしてだろう? 恥ずかしかったから? それも少しはあったかもしれない。でも一番はきっと、母を困らせたくなかったからだ。困らせるよりは、我儘と感じられかねないことをしない、自分の気持ちを殺す。そのほうが簡単で最善なのだと感じられたから。


 こんな風に会えなくなるなら、もっと母と腹を割って話せたらよかった。母やもしくは父との関係について思っていたこと、不満、もやもやの類を打ち明けられたら、母の気持ちも分かったかもしれないしもっと深く繋がりあえたかもしれない。家族なのに何であんなに母を遠く感じたんだろう。今はただ母に会いたい。同じ家で暮らしていた日々よりもむしろ今の方が母を知りたいと思うし近く感じる。思い出やそれに付随する諸々の感情全てがとても鮮明で、今にも手が届きそうなほどだ。


 きっと素直じゃない私と母は、父と私と同じくらいに似た者同士だったんだ。


「何だどうした、泣いてんのか?!」

 

 空っぽの檻の前で泣いていたら、ジャンが顔を覗き込んできた。


「ちょっと家族のことを思い出してね」


「家族かぁ……」とジャンは遠い目をした。


「俺のお袋は5回再婚して、俺には腹違いの弟妹が13人いる。父親は皆DV野郎とかシャバ漬けとか借金まみれとかろくでもねぇ野郎ばっかでさ、俺は一番上だったもんだから、下の子たちの世話や父親の使いっ走りばっかやってた。お袋は俺のことを可愛がってくれたけど、俺が16の誕生日に死んだ。朝お袋がベッドで冷たくなってた。注射器が枕元にあったから、クスリを打ったのが原因だろうと警察が……」


 またしても私は仲間にかける言葉に迷っている。ジャンの悲しみや罪悪感を少しでも楽にする言葉がない代わりに、戯けるわけにもいかない。ただ話を聞いているということを示すために、頷くしかなかった。


「もちろん悲しかったけど、泣いてばっかいらんねぇし、弟たち食わせにゃなんねぇけど他に頼れる大人もいねぇしってんで、その年にサーカス学校卒業してすぐサーカス団に入った。何で俺だけって思ったこともあった。神様を恨んだりもしたし普通の人間なら腐っちまっただろうけど、今の俺は自分を不幸だと思っちゃいない。俺には仲間がいる。そしてサーカスがある。ここが家みてぇなもんだと思ってる。


 お前もいずれ俺と同じ風に思うだろう。でも、血の繋がった家族がいるならそっちも大切にしろ。会えなくなる前に、お互いに生きてる間に親孝行しとけ。後悔しねぇようにな」


 ジャンがぽんと私の頭に手を置いた。家族の愛情に飢えていた人と思えないほどに、その手は温かかった。大人に不信感を抱くこともあっただろう。守ってくれる存在であるはずの母を早くに亡くした彼のこの温かさは、一体どこからくるのだろう。彼がこれまで出会った人たちから与えられたものなのか、自分で生み出したものなのか。


 果たして私は母に何か親孝行できていたんだろうか? 結局今まで母の期待に沿うような生き方ができなかった。今の私を見て母は誇りに思ってくれるだろうか。


 母を喜ばせたい。義務感じゃない、率直な想いだった。ちょうど月末に給料も入ったし、母に何か贈り物をしようか。母の日や誕生日じゃないけれど、確かな繋がりと想いさえあれば理由なんてなくたっていい。


 リマの公演が終わり、観光の合間に市場で母にプレゼントを買った。高いものじゃなく、普段使いできるような猫の髪留めだが。


 昨日母に書いた手紙を読み返す。


『ママへ


 手紙無事に届いたかしら? 


 今ボリビアのスクレにいるわ。ケニーも一緒よ。現地での公演がちょうど終わったところ。


 私ね、サーカスでクラウンを演じることになったの。衣装も少しずつ決まって、これから楽しくなりそう。会場の引越し作業はキツイし練習は毎日大変だけど、楽しくて素敵な仲間たちに囲まれて充実してるわ。


 今まで沢山心配かけてごめんなさい。あと、ずっと期待に応えられなくてごめん。私は駄目な娘だったけど、今は自分のやりたいことを見つけられた。人を笑わせるのが好きなんだって気づいた。誰かを笑顔にしたいって思うことは、すごく幸せなことだって仲間が教えてくれたの。ママにもいつかショーを見せてあげたい。きっと感動すると思うから。


 ママとパパが離婚したのは辛かったけど、2人なりの事情があったと思うし、ママも沢山苦しんだのを知ってる。2人には幸せになってほしい。


 ママはずっと自分の人生に後悔してるみたいだった。私もそうよ。ここに来る前はずっと人生に退屈してて、もっと別の道があったかもなんて思ってた。視野が狭くて見えるはずのものを見落としてたんだって今になると分かる。すぐ近くの目に見える世界しか見えてなかったんだと。


 ママも私みたいにもっと外に出て世界を見て、いろんな人と出会って。きっと考えが変わるはず。いつからでも人生はやり直せるわ。


 遠くから幸せを願ってる。


                アヴリル』


 郵便局から手紙とプレゼントを一緒に送り一息ついたので、列車に戻ってトレーニングルームでジャグリングの練習をした。ジェロニモも来たので教えてもらいながら一緒にやった。彼は今度のエクアドルのグアヤキル公演でデビューなのだという。


「めちゃくちゃ緊張するよ、上手くできるかな」


「大丈夫だよ、君なら。今まで沢山練習してきたじゃないか」


「リングに立つのは夢だった。俺は人より覚えが悪くてさ、ピアジェに下手くそとか、まだショーに出せないって散々言われたよ。辞めたくもなった」


「僕からしたら十分上手いけどな」


 ジェロニモで下手くそというのなら、私などミジンコのフンのようなものだ。


「ピアジェはランク付けが得意なんだ。アイツはAランク、こいつはFで自分より格下とかさ。ショーに出るにはBやCじゃ駄目だ。AやS、SSランクくらいにスキルが付かないと出さない。お陰で俺は1年間も雑用ばっかやらされたよ」


「君で1年かかったんなら、僕はまだまだ出られそうにないな」


「それはどうかな」とジェロニモは顎に拳を当てた。


「ジャグラーは他にもいるからいいけど、このサーカスにはショーに出られるクラウンがいない。お客さんからも公演のあと『このサーカスにクラウンはいないの?』ってよく聞かれるんだ。『クラウンがいないサーカスなんて、面白くない!』って言う子どももいる。ピアジェの本音としては早くお前を出したいはずだ。お前のスキルがある程度育ちさえすればな」


 遥か彼方に見えていたデビューが、頑張り次第では早まる可能性もあることを知って俄然やる気が出た。


「よし、早くデビューできるように技を磨くぞ!」


 ジェロニモも「負けるもんか!」と続いた。結局2人で夜まで練習に明け暮れた。何時間も練習していたおかげで、習得できなかったハーフシャワーやテニス、オーバーヘッドという3ボールの基本技がいくつもできるようになった。



 クラウニングの時間の課題は『イマジネーション力をつけよう』だった。クラウンを演じる上で、目に見えないものを本当に存在するみたいにイメージする能力は不可欠らしい。


「お前が好きな場所はどこだ?」


 ルーファスに聞かれ、咄嗟に浮かんだのは故郷であるシドニーの砂場だった。水平線に輝く太陽と、青い海、白い砂浜と人々の歓声ーー。思い出したら急に懐かしくなった。


「海かな」


「じゃあ自分が海の近くのレストランで働くウェイターと仮定して、店の窓から見えるものをイメージしてみろ」


 私は白い砂浜に置かれたカラフルな赤、青、オレンジのビーチパラソルの下でデッキチェアに寝ている白い丈の長いワンピース姿のお金持ちそうな女性、その隣で砂に埋まっている恋人らしき男性の姿をまず思い浮かべた。


 少し離れた場所で4歳くらいの女の子と6歳くらいの男の子が砂でトンネルを作って遊んでいる。その側にいるのは60代くらいの祖母らしき女性だ。


 50メートルほど離れたところでは、2人連れの女の子2人がビーチバレーで遊んでいて、波打ち際ではしゃぐ高校生くらいの男女グループの姿もある。


 海では浮き輪をつけた子どもや若者が楽しそうに泳いでいる。水平線に小舟が浮かび、太陽が青い海を照らしている。


 そこまでイメージしたところで、ルーファスが「じゃあ、そのあと何か驚くようなことが起きるとする。何が起きたと思う?」と尋ねた。


 私は一瞬のうちに映画のように脳内で繰り広げられた光景を言葉にした。


「突然海に黒い背ビレが現れる。それも、遺伝子操作によって生まれ、海底の極秘研究施設から逃げ出した巨大な鮫だ。人々は逃げ惑い、ビーチはたちまち血みどろに……」


「そこまで。とりあえず一度リセットしよう。鮫の襲撃以外にはどんな出来事がイメージできる?」


「中学生の集団がビーチの流木を集めてきてイカダを作り始める。近くで見ていたおばあさんは危険だからやめなさいと注意をする。他の大人たちは笑ってるんだけど、ただ1人砂に埋まっていた男の人が手伝おうとする。実はこの人は、アウトドアのスペシャリストなんだ。そしてできた特製のイカダで少年少女たちは旅立つわけだけど、たどり着いたのは無人島で……」


「……お前、想像力豊かだな」


「でしょ?」


「じゃあ次に、店を出て砂浜を歩いてみよう。何が起こると思う?」


「ヒトデを拾う」


「そのヒトデが突然服の中に入ってきた! どんな感触がする?」


「ヌメヌメ、ザラザラしてて気持ち悪い。身体も服も生臭くなって、シャワーを浴びたくなる」


「どうだ、これだけで随分イメージ力を働かせられただろう?」


「そうだね」


「イメージ力というのは意図的に鍛えなきゃ育たないこともある。じゃあ次に、店内に戻って、店の中の様子を思い浮かべてみよう。テーブルはどのくらいか、他に店員はいるか、どんな客が何人いるかとか、そういうことだ」


 私はしばし目を瞑り、次のイメージを告げた。


 レストランはログハウスみたいになっていて、木のテーブルでカウンターもある。その奥に私の他に店員が3人。テーブル席は15個。客は窓際で読書をしている中年女性が1人、カウンター後ろの席に小学生くらいの子どもを連れた若い夫婦が1組、壁際の席では酔っ払ったおじいさんが寝てる。カウンター席では3人組の男性がビールを飲みながら何か楽しそうに話してる。壁にフェルメールの絵画が架けられてる。窓から差し込む陽の光で店内は明るい。


「よしじゃあ、厨房に下げられたメニューを開いてみろ。どんな料理、もしくは飲み物やドリンクが載ってる?」


「店の看板メニューは手巻き寿司だ。店長が日本人で、他にも1人日本人が働いてる。もう1人はポリネシア人だけど」


「まさかのメニューだな」


「うん。しかもトッピングも自由に決められる。サーモンやアボカド、マグロとレタスとか、マヨネーズにコーンとか、あと納豆とかね」


「なんか楽しそうだ。じゃあ、ここからパントマイムをやるぞ。別に動き方とか深く考えなくてもいいから、自由に情景をイメージしてやってみよう。台詞は無しだ。俺が客の役をやる。そうだな、寝てる爺さんの役をやろう」


 ルーファスはテーブルに突っ伏して鼾をかいて寝ているおじいさんの真似をした。私は店員になり切って、水をお盆に乗せたお盆を持っている仕草をしてテーブルに向かう。


 そこで躓いてグラスの水がおじいさんにかかってしまう。そっと顔を覗き込むがおじいさんは気づかないで眠っているので、私は音を立てないように足早に厨房に戻り、ナプキンを取ってきて濡れたところを拭いてやる動作をする。おじいさんはなおも起きない。丹念に拭いたがまだ乾いていない。


 私はドライヤーを奥から持ってきて、しゃがんでコンセントを壁のプラグに刺す仕草をし、立ち上がりドライヤーをおじいさんに当てる。そのときおじいさんが目を覚ましてしまう。


 私はドライヤーを背中に隠し、バレないようにコンセントを右手で抜いてカニ歩きで厨房に向かう。おじいさんは首を傾げながら髪を触っている。


 これで終わりだ。


「なかなかいいな、お前。センスあるぞ」


「そうかな、えへへ。僕らいいコンビかもね」


 調子に乗って頭をかいていたら、「パントマイムなんてつまらんことをやるなと、あれほど言ったろう!」というピアジェの不機嫌な声が背中を刺して一気に気分が滅入った。いつの間に来ていたんだ。


「これはクラウニングの一環だ。それに、パントマイムはつまらなくないぞ。表現力を磨く上で大切だ」


 ルーファスがいくら説明しても、ピアジェの眉間の皺は消えなかった。彼はかなりのパントマイム否定派らしい。


「とにかく、そんなコントの真似事をやってる暇があったら身体を鍛えるなり、スキルを磨くなりさせろ。コイツは褒めると調子に乗ってどこまでも怠けるタイプだ、厳しくせんと!」


 お前に私の何が分かるんだと言い返したかったが、ろくなことにならないことが見越せたので口をつぐんでおいた。確かに私は賞賛に弱いし舞い上がりやすいけれど、怠けてはいないつもりだ。


「大体にして、お前らは後輩に甘すぎるんだ! 時には力で分からせにゃならんこともある! この頃の若者は特に甘い。ちょっとのことで根を上げる。そんな奴はこのサーカスにいらん!」


「団長、ルーファスの指導はとても的確で分かりやすいです。初心者でも楽しく学べるように工夫してくれてますし……」


「たわけ!! お前は自分の立場を分かってるのか?! 1番の下っ端で何も分からんガキのくせに、生意気に口答えをするな!! 黙ってこの俺に従ってればいいんだ!!」


 ピアジェはまたルーファスに向き直り、「くれぐれもこの小僧を甘やかすな」と釘を刺していなくなった。


「気にするなよ」


 ルーファスは軽い口調で言った。


「高圧的で厳しい指導をする人間というのは、指導力に自信がない。だから力を誇示して駆使して無理やり相手をコントロールしようとする。だがな、俺は思うんだ。指導者に大事なのは知識だけじゃなくて生き方を教えることなんじゃないかと。その背中を見てこんな風になりたいと思えるような人間にこそ人はついていくし、そういう奴が人に物を教えるべきだと」


「すごい、それ僕の心の中の名言集に乗せたい」


 ピアジェのような人間より、教わりたいと、ついて行きたいと感じるのは断然ルーファスだ。ルーファスはピアジェみたいに暴力的でもなければ怒鳴ったりもしない。学ぶべきことを理論立てて教えてくれるし、いつも感情的にならず冷静だ。ピアジェは指導者とはいえない。ただ自己満足で他者をいたぶる暴君でしかない。


 あんな風になりたくはない。将来ものを教える立場になったとしても、ルーファスのように真心を忘れずにいたい。


 午後は綱渡り練習のあとピアジェに罵倒されながら筋トレのノルマをこなした。ルチアが見学しているからか、ホクに鞭を壊されたからか。今日のピアジェは比較的大人しく、得意の鞭も使わなかった。


 自主練ではジャグリング練習のあとクラウンウォークで登場からハロー、退場までの動きを色んなバリエーションをつけてやってみた。場越し作業のために全身が筋肉痛だったが、弱音など吐いていられない。


 何度か繰り返しているうちネタ切れしてしまった。お辞儀をして微笑む、楽器演奏、日本舞踊ーー。どんな動きを試しても、果たしてこれは観客の興味を引くものだろうかと疑問が生まれてしまう。


 悩んでいたところ、ジュリエッタがドアを開けて手招きをした。


 彼女に続いてクローゼットに向かうと、なんと衣装が着せられたマネキンがあるではないか。灰色の着物の上にこの間の赤い羽織を着て、下は黒の袴、足袋と下駄まである。思い描いていた詩の和風で中性的、気高い雰囲気によくマッチする。


「ジュリエッタ、これは……」


「ふふ、公演の合間に露店で布をかき集めて作ったのよ。和服を仕立てたことなんてなかったんだけど、パソコン借りてYouTube観て作ったわ」


 そういえばジュリエッタは公演が終わったあとも夜遅くまでサーカステントの控え室に残り、秘密で何か作業をしていた。彼女も練習やら公園で忙しいのに、この10日ほどの間にこんな素敵な衣装を作ってくれていただなんて。和服を仕立てるのはただでさえも繊細で根気の要る作業のはずだ。経験したことがなくても分かる。彼女の腕前に舌を巻くとともに、思いやりに深く感謝した。


「ジュリエッタ、君は本当にすごいよ。お礼は必ず……」


「いいのよ」とジュリエッタはとんでもないという風に首を振った。


「あなたが喜んでくれることと、これを着てショーに出てくれるのが1番のお礼だから」


 彼女の真心を肌で感じ、じんわり胸に温かいものが広がる。彼女の気持ちを無駄にしないために精一杯頑張らないといけない。教えてくれたルーファスや、これまでたくさん支えてくれた仲間のためにも。


 衣装を身に纏いベレー帽も被って鏡に映す。花火の柄の臙脂色の羽織、灰色の着物と烏の羽を思わせる漆黒の袴、化粧と衣装の雰囲気もイメージ通りだ。髪が短いのおかげもあり、女性にも見えるし男性にも見える。高貴で華麗で、だが掴めない謎めいた空気感が気に入った。


「やっぱり似合うわ〜、綺麗すぎる!!」


 ジュリエッタが興奮して仲間たちを連れてきた。ジャンは「似合う、すげー似合う!!」と騒ぎ立てカメラを持ってきて写真を撮り始め、シンディは「わぁ、素敵!! 私も着てみたい!!」と感激していた。アルフレッドは「ああ、目の保養だ」と微笑み、肩の上のコリンズは誰だこいつとでもいうような不審な目を向けてくる。ホタルは「これ私が着るより似合うわ」と言った。


 メイクをして衣装を纏って練習すると、とても雰囲気が出る。下駄で歩くのはかなり難しいけれど。


「みんな、ちょっと観ていてくれない?」


「いいわよ」


 ここがリングのつもりで、クラウンの詩になったつもりでツンと澄まして歩いてきて正面を向く。お辞儀をして小さく微笑む。


「サマになってんな!」というジャンの声が聞こえ、「シッ、静かにしなさい!」とジュリエッタが注意した。


 披露したのは三味線の『さくら』だった。ただ出鱈目に演奏して礼をしてもそれなりにウケたが、「これ、ある程度ちゃんと弾いた方が面白いぞ」というジャンのアドバイスにより、微妙に高音を外して弾いてみたらそっちのほうがウケが良かった。仲間からの客観的なアドバイスは役立つ。


「しかし、こんなに変わるんだな。最初誰だか分かんなかったよ」


 アルフレッドが言った。


「いいわね、着物。私もジュリーにお金払って作ってもらおうかしら」とシンディは真顔で言った。


「いいわよ、ご飯奢ってくれれば」とジュリエッタが答え、「じゃあ俺にも作ってくれよ!」とジャンが言って返事も聞かずに紙に下手くそなオカメの顔を描いた。


「これ、この柄がいいんだ!」


 その顔があまりに不格好すぎてシンディとジュリエッタは大爆笑し、ホタルに「福笑いに失敗したみたいね」と呆れられていた。が、当のジャンは大真面目で笑われている理由が分からないみたいだった。


「僕は河童柄がいいな。皆で和装で出るっていうのもいいんじゃないか?」アルフレッドが面白い提案をし、周りの皆が「いいね、やろう!」と賛同した。


「大神楽みたいになりそう」


 ホタルがつぶやいた。


 皆和装のサーカス。何だかすごく華やかで楽しそうだな。

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