第31話 探求

 次の時間、ジュリエッタと一緒にクローゼットで帽子を選んだ。ピアジェから助けてもらったお礼を伝えたら、「あんなの朝飯前よ、あの男にはいつも目を光らせてるの」といつになく神妙に言い、「じゃあ、帽子を選んで被ってみて、どれが似合うか鏡に映してみましょう」と微笑んだ。


 帽子置き場にはハット、鳥打帽、丸型のキャップ、冠まで色んな種類がある。


 そういえばタイトルをすっかり忘れてしまったけれど、小学生のときオーロラにあげた誕生日プレゼントの中に、色んな種類の帽子を木にかけて売る帽子屋さんが出てくる本があったっけ。お客さんが欲しいと言った帽子を、棒で取って落としてやる。あの木の帽子屋さんなら、欲しいものがすぐに見つかりそうな気がする。


 頭で考えるよりもまず手に取って被ってみよう。一番しっくりきて楽しい気持ちになるのがいいに決まってる。


 私は被っていたベースボールキャップを脱いでテーブルに置き帽子の試着を始めた。まず鳥打帽。ジェロニモが被っている茶色のものとは違う、黒と白の大きなブロックチェックの柄だ。被って鏡に映してみたら、髪の色とも今の服装ともよく合っていてなかなかいい感じだ。


「あら、似合うじゃない」


 試しにそれで今日習ったクラウンウォークをしてみたり、人差し指でくるくると回して宙に放って頭でキャッチしてみたり、羽音を響かせて高速で飛んできたゴキブリを捕まえてみたりした。


「ぎゃ〜、やめて!!」


 ジュリエッタは蒼白になって叫んだ。結局ゴキブリは帽子から逃げ出してテーブルに着地し、ジュリエッタに丸めた映画雑誌で成敗された。


 次に茶色い縦長の皺くちゃのデザインのハットを手に取る。この中に何か隠してみようかと考えた直後、ジュリエッタの手に持っていたミニチュアの猿のコリンズ人形が目に入った。もしや、アルフレッドが作ったやつじゃないだろうか。


 私の視線に気づいたジュリエッタは、微笑んで猿の人形を手渡した。そのコリンズは、イギリスのガーズマンの格好をしていた。黒い縦長の大きな熊毛帽を被り、8つの銀色のボタンのついた赤い制服を着ている。


「それね、アルフがくれたの。衣装を作って着せてるのは私。他にも色々な衣装があるわ」


「すごいや、これみんな君が作ったの?」


「ううん、私が作ったのは4分の1くらいのものよ。前はアンジェラっていう人が衣装作りをしてたの。ピアジェの奥さんね。すごく器用で多才な人だった。ピアノも得意で作詞や作曲もできて、料理も上手だったわ」


 あの団長にはもったいない。もしあの男が同じクラスにいたら絶対に友達になりたくないし、付き合うなんてもってのほかだ。


 私は試しにミニチュアのコリンズに宇宙飛行士の格好をさせてみた。このミニチュアの服はウケ狙いで作ったのかもしれないけれど、なかなかイカしてる。


 次にミニチュアのコリンズを頭に被ったロングハットの中に隠してみた。


「手品風に出して子どもにあげたりしたら喜ぶかもしれないよね」


「そうね、いい考えだわ」とジュリエッタも賛同してくれた。


 しかし、このロングハットの使い道が私の足りない頭では他に浮かんでこない。鳩を2匹入れるとかできるかもしれないけれど、うちに鳩はいないしそんな手品をやる予定もない。第一、コリンズ人形くらいの大きさのものを隠すだけなら普通の大きさのハットでも事足りそう。


 他にもシュークリームを半分にしたみたいな円形の帽子や、赤いもこもこの毛糸の帽子、先に白い玉のついた、パーティーで被るようなカラフルなボーダーのとんがり帽子もあった。それらを一つ一つ被って鏡に映してポーズをとったり歩いてみたけれど、どれもしっくりこない。


 俄かに隣の車両が騒がしくなってきた。一度中断して見に行くと、通路でジャンがコリンズと追跡劇を繰り広げていた。


「誰かコリンズを捕まえてくれ!! 俺の食べてたホットドッグを取りやがった!!」


 コリンズはキキキッとご機嫌な声をあげ走り回っている。右手にはホットドッグが握られ、見せびらかすようにして齧り付いた。


「食うな、コリンズ!! それは俺のだ!!」


 すばしっこい悪戯小猿は捕まえようとしたジュリエッタの脚の間をくぐり抜け、私の頭を跳び箱のように超えてクローゼットに侵入した。


「まずい!! クローゼットに入っちゃったわ!! 前にも服に悪戯されたのよ、ソースで汚れたら大変!!」


 コリンズは壁にかけられたシェルフに飛び乗り、端の一番高い場所にあるシェルフまで一瞬のうちに駆け上がった。


「こら、降りてこいコリンズ! ジャンにホットドッグを返せ!」


「ネロ、もういいよ」とジャンは諦めたみたいに私の肩を叩いた。


 高い場所から我々を見下ろしたコリンズは、キキキキッと楽しそうに鳴いたあと隣のシェルフに飛び移った。


 そのはずみで何か緑色のものが落ちてきて、私の頭にスポッと被さった。ついでに埃のせいでくしゃみが出た。


 何だろうと思って手に取ると、緑色のカボチャのような丸い可愛らしいフォルムのコットン製のベレー帽だった。真ん中にヘタのような2センチくらいの紐が付いている。埃まみれだけれど被り心地は良いし、程よく重みもあり膨らんでいるからいろんなことに使えそうだ。


「それね、昔アンジェラがお洒落で被ってたやつなのよ」とジュリエッタが懐かしそうに目を細めた。


「あなたによく似合ってるわ」


 コリンズはシェルフの上でホットドッグを完食し、ゆっくりと下りてきて迎えにきたアルフレッドの肩に乗って一緒にいなくなった。 


「俺のホットドッグ……」


 項垂れて泣きそうなジャンを、ジュリエッタが「今度作ってあげるから」と慰めた。


 不意に、ハンガーラックに掛けられた臙脂色の羽織が目に入った。黄色、青、緑、黒、白という色を使い、カラフルな丸い打ち上げ花火の模様が描かれている。


「それは、ずっと前に日本公演に行ったときに着たのよ」


 それを取って鏡の前であててみたら、「いいわね、すごくあなたに似合うわ。男の子にも女の子にも見えるわね」とジュリエッタは絶賛した。


「いい……いい!! 着物いい!! それ着ろよ!! この辺に和装のピエロなんていないからさ、絶対目立つよ!!」


 ジャンは何故が興奮している。


 すると考える間もなく、頭の中に鮮明なイメージが浮かんできた。私が衣装を着てリングの真ん中に立っているイメージだ。


「降りてきた! 衣装のイメージが! 忘れないうちに描いてしまわないと!」


 私はジャンとジュリエッタが何か話している間、色鉛筆を借りて衣装案を紙に書いた。


 中は灰色の着物で、下は足首くらいの丈の黒い袴。足には足袋と下駄を履く。これで完璧だ。何故和服の知識があったかというと、大学に日本の伝統舞踊の講師の先生がいて、日本舞踊の講義を選択していたからだ。他の講義よりもむしろその講義が楽しくて好きだった。綺麗な柄の着物を着るのも踊るのも楽しかった。


 和装なんて今まで頭になかったし、むしろ動きにくいかもしれないけれど、慣れればきっと大丈夫だと楽天的に考えることにする。


 ジュリエッタは出来上がった衣装案を眺めて、「ふむ……いいわね」と頷いた。覗き込んだジャンも「すげー、かっこいいよこれ!」と絶賛してくれた。


「時間はかかるかもしれないけど、頑張って作ってみるわ」


「ありがとう、ジュリー!」


「ふふ、あなたのためだもの。腕を振るうわ」


 ジュリエッタの存在に心から感謝した。


 ジャンが一瞬様子を見にきたピアジェに「サボってないで練習せんか!!」と怒られて出て行ったあと、ジュリエッタはまだ若い頃のことを打ち明けた。


「ここに入ったばっかのときは、まだ20代でね。いじめや失恋や差別やいろんなことに打ちひしがれてた。サーカスに入ったのは、街中で歌ってたのをアンジェラにスカウトされたの。行き場もお金もなくてついて行ったんだけど、最初は戸惑ってばかりだったわ。ここの大抵の仲間は親切だったけど、意地悪してくる奴もいてね。でもアンジェラはいつも私を助けてくれて、相談に乗って優しく仕事を教えてくれた。結局ピアジェにボロボロにされて出てっちゃったけど」


 悲しげにジュリエッタは俯いた。


「彼女はすごく献身的でね、このサーカスに尽くしてた。あの旦那よりもきっと、サーカスの方を愛してたのね。衣装作りからご飯作り、団員たちのケアや事務仕事まで、何から何まで彼女1人で頑張ってたわ。本当に彼女には助けられたし感謝してる。彼女がいなくなって仕事を引き継いで初めて、彼女の大変さと偉大さを思い知った。彼女こそ残るべきだったわ、このサーカスに……」


「あのピアジェにはもったいないくらいの人だね」


 なぜアンジェラの人生と心を狂わせたピアジェがのうのうと息をしているのだろう。つい愚痴を吐きたくなった。


「マジでムカつくよ、あんな体育会系今時流行んないって」


 ジュリエッタは共感してくれた。


「分かる分かる〜」


「チュロスみたいに身体が捻れてしまえばいいのに」


「ついでに油で揚げられればいいのにね」


 悪口に花が咲きそうなところでジュリエッタがしみじみと語った。


「世の中はアンバランスにできてる気がするわ。馬鹿な旦那とすごく賢い女の人が結婚したり、逆にすごくお人好しの男の人と放蕩好きの女が一緒になったりね」


「完璧にはいかないね、何事も。思い通りにはいかない」 


 不毛な交際、大学中退、両親の離婚、アルゼンチンでの退屈で死んだような日々、ディアナからの嫌がらせーー。生まれてからずっと決して不幸ではなかったのに、苦い体験を思い出すだけで何もかも思い通りにいかなかった気がしてくる。


「そうよ、世の中ってのは理不尽よ。意地悪な奴がのうのうと息をして、真面目な善人ばかりが損をして苦汁を飲む。でもね、そんなことばかりじゃない。サーカスに入ってそう思ったの。みんなそれぞれの苦しみを抱えてるけど、自分の置かれた場所で自分のできることを最大限に生かして必死に生きてる。そしていざショーが始まると、観てる人は全ての理不尽も悲しみも痛みも忘れるの。サーカスにはそんな不思議な力があるの、まるで魔法みたいな」


「歌ってるときの君はスターだよ。誰も君みたいに上手く歌うことなんてできない。すごく輝いてて、綺麗でかっこいい」


「その言葉が1番の薬だわ」とジュリエッタは満面の笑みを見せた。


「でも私も弱いのよ、悩むことも絶望することもある。でも歌ってるときはーーショーのときはマイナスな感情は綺麗さっぱり消え去る。誰かを感動させて幸せにすることに一生懸命になれるのは、すごく幸せなことなんじゃないかしら」


 サーカスに入ってまだ1ヶ月ちょっとだけれど、その間に沢山のことを学んだ。これからもどんどん学ぶつもりだ。でもどんなに上手くできるようになったとしても驕らずに、誰かのためにやるという献身的な気持ちを持ち続けていたい。愛情と情熱を持ってサーカスに尽くしたアンジェラや、観客のために歌を届けるジュリエッタみたいに。


 ジャグリングの自主練を行い夕飯を食べたあと部屋でメイクの研究をした。顔半分だけを白く塗るメイク、目と口の周りだけを白く塗るパターン、黒塗りも試してみた。


 2つのタイプどちらかで選ぶなら、私のキャラとしてはオーギュストメイクが合っていると思う。でも正反対のタイプを演じてみるのも楽しいかもしれない。なんて。


 顔を白塗りにして目の周りに面白い柄を描いてみるのもアリかもしれない。例えば猫とか。


 色々模索していたところにルーファスがやってきて「お、やってるな」と言った。


「ちなみに俺がよく演じたのはホーボー(浮浪者)だ。薄汚れたようなメイクをして、ボロを着てる。オーギュストやホワイトフェイスよりも当たりがきつい。ビンタされたり蹴られたり、水をかけられたりな。チャップリンがいい例だな。彼がやってた『ブロック』っていう、身体が寒くてカチカチに凍ったときの真似をやったこともある」


「それも面白そうだね」


「ついでに言うとホワイトフェイスはツッコミ、オーギュストはボケだ。一見気高くて上品なホワイトフェイスが、オーギュストにいじられたり邪魔されたりとばっちりを喰らう様が面白い。まぁ、オーギュストもホワイトフェイスも、所詮はクラウンだからアホなんだがな」


「オーギュストもキャラクタークラウンも魅力的だけど、普段の自分と正反対のキャラを演じるのも面白いんじゃないかって思うんだ」


「なるほどな」


 タイミング良くジュリエッタが来たので、白塗りにした顔の右目の上瞼を囲うように青と水色のグラデーションのイルカの形を描いてもらい、左目の下に黒い涙を描いた。唇はおちょぼ口にしたらバランスが悪くなったから、全部塗った。ちなみに眉毛はない。


「うん、凄くいいね! 気に入った!」


 メイクもイケてるし、性別不詳の謎めいた雰囲気がとてもいい。どんなキャラクターのクラウンを作ろうかと考えているとわくわくする。


「一応ホワイトフェイスということになるのか、これも」


 ルーファスが私の顔をまじまじ見た。


「型にハマる必要はないわよ、のびのび演じられればいいんだから」とジュリエッタ。


 ふと演じるという言葉の意味について考えた。演じるというのは、全く別の人間になり切るってことなんだろうか? そしたら私の中のアヴリルという人格はどこへ行くんだろう? 今ネロの格好で彼の振りをしていると、アヴリルという女の子の自分を忘れそうになる。最近の私は男の子でいることが心地良くなって男の子役がすっかり板についてしまい、動物たちに話しかけるときですらネロになってしまっている。でも、ふとしたときに私自身が現れる。感情を大きく揺るがされたときや、ピアジェに殴られたとき、私は否応なくアヴリルという繊細で脆い1人の女性なのだと思い知らされる。


 道化を演じている間はアヴリルを封じる必要があるんだろうか? でもそれは無理なんじゃないか。私は俳優ではないから演劇のセオリーなんて分からないけれど、クラウンの中にいるのは人ーーつまり私自身だ。自我を全て捨ててしまうのとは違う気がする。私自身でいる時間がなくなったら、一体私はどうなってしまうんだろう?


 メイクができたところで、ルーファスから宿題を出された。


 クラウンの名前を決め、プロフィールを作るのだ。


 部屋にいるとミラーにアレコレうるさく言われるから、静かな食堂の机で書くことにした。名前は中性的なのがいいと思い、詩(ウタ)にした。ついでにケニーの事務所で使っているパソコンを勝手に借りて日本の文化についても少し調べた。


 生年月日は3月3日。好きな食べ物は冬瓜。嫌いな食べ物は米。


 趣味は羽子板と将棋と買い物。得意なことは楽器の演奏。でも、得意な気でいるだけで音符は読めない。おまけに演奏はすごく下手くそだ。苦手なものはディズニーアニメと小さな子ども。特に小さな子どもとは相性が悪くて、いつも揶揄われたりいじられてはキレる。子どもを見た途端に逃げ回る。


 性格は怒りっぽくてプライドが高い。自分のことをとても美しいと思っているナルシストだ。お金持ちではないのにお金持ちのフリをしていて、目立ちたがり屋。誰よりも目立ちたいと思っている。自分よりも目立っている人がいると頭にくる。


 コンプレックスはないけれど、よく服装や見た目のことを揶揄われる。揶揄われるとぷんぷん怒る。


 暗い中伝統の灯りだけを頼りに夢中で書いていたら、ミラーが来て白塗りの顔を見てまたわっと驚いた。彼は見た目によらず怖がりなのかもしれない。


 電気がパッと点く。


「お前、その化粧落としてこいよ」


「いいじゃん、気に入ってるんだ」


「でもそれ、多分暗闇で見たら気味悪いぞ。夜に空き地にいる鹿の尻みたいで」


「鹿の尻と一緒にするなんて心外だな。仕方ない、洗ってくるよ」 


 これをクラウンショーにするなら、私がオーギュストでミラーがホワイトフェイスだな。


 仲間たちが集まってきた。食堂は夜には仲間たちの談話室に変わる。お酒を飲むメンバーもいる。アルフレッドはよく得意のギターを弾く。


「やぁネロ、そのメイクなかなかイカしてるな」


「ありがとう。ねぇアルフ、これを見て欲しいんだ。クラウンのバイオグラフィーなんだけど、どう思う?」


 バイオグラフィーを読んだアルフレッドは腹を抱えて笑った。


「アハハハ、こりゃあいいや! ネロ、君は面白いことを考える天才だな」


 珍しく現れたホクにも見せたら、彼も口を押さえて肩を震わせ親指を立てた。それを見て「君笑うのか?」とアルフレッドは驚いていた。こんなに笑うなんて、案外ホクはツボが浅いのかもしれない。


 ルーファスが来たから宿題を見せようとしたら、「明日見る。もう練習時間外だ。今は騒いで飲もう」と言って紙を折りたたんでポケットにしまった。少し残念だけど、オンオフをつけるのは大事なことだ。


 私はせっかくホクに会えたからと、部屋に戻ってピラニアの剥製を持ってきて渡した。彼にはイヤホンを貸してもらったり差し入れをしてもらったり、何かとお世話になっていたからお礼をしたかったのだ。


「次の公演頑張って、応援してるよ」


 ホクはリアルな魚の剥製に思いの外喜んでくれた。拳を握りしめて笑顔を見せた。頑張るという意味なのだと理解した。彼は無口だけれど、人と交わりたくないわけではない。ただやり方を知らないだけだ。生きているとどうしても人間同士でやりとりする言葉にこだわってしまうけれど、大事なのは心だ。それを彼が教えてくれた気がする。


 後から来たシンディとジュリエッタと、ホクも交えて4人でトランプをやっていたら、ケニーが青い顔をして現れた。この1ヶ月ちょっとで少し痩せた気がする。


 ケニーは私の腕を引っ張って無人の事務室に連れて行った。ケニーのいつもいるデスクの上は几帳面な彼らしく片付いているが、腹の部分のへこんだレッドブルとコーヒーの缶が並んでいる様子が過酷な残業の実態を浮き彫りにしている。


「アヴィー、ピアジェにやられたって本当か? 怪我したんだろう? 大丈夫か?」


「大丈夫、ホタルに手当てしてもらったから。心配しないで。それよりケニーこそ平気? 顔色悪いし痩せたわよ。ちゃんと食べないと」


「僕のことは心配するな、仕事にまだ慣れないだけさ。このくらいの残業なら、前の会社で死ぬほど経験したよ」


 ケニーはいかにも無理やりと分かる笑顔を作ってみせた。


「君が最初に言った通り、ピアジェはとんでもない奴だった。毎日呼吸するみたいに誰かを怒鳴ってる。それを聞くだけでも胃が痛くなる。僕は下っ端だし舐められてるんだろう。どうでもいい雑用や誰もやりたがらない仕事を振られたりする。ミスをしたりやった仕事が彼の気にそぐわなければ、馬鹿だの役立たずだの間抜けだのと詰られる。まぁ、そんなことには慣れっこだけどさ」


 ケニーも私と同じだ。ピアジェやディアナみたいな人間たちに舐められる。ときにいたぶられもする。舐められないようにするには強くなるか、強い振りをして受け流して耐えるか逃げるかしかない。卑劣な人の心を持たない存在に弱者とみなされ標的となった私たちに残された道は、驚くほど少ない。


「それよりもアヴィー、君の方こそ頑張りすぎるなよ。何かあったら頼るんだ。こんな僕だけど、いつも君のことは気にかけてる」

 

「ケニー、あなたこそ無理をしないで。あと、ちゃんとご飯を食べて。これから辛いことがあったとしても、お互いだけは味方でいましょう」


「そうだな、アヴィー。でもその顔で言われても、全然緊迫感がないぞ」


 ケニーが笑いを堪えているのが見え見えだ。そういえばまだ顔を洗っていなかったんだった。


「アヴィー、君が頑張ってると僕も頑張ろうと思える。一緒に頑張ろう、辛くても今を乗り切ろう」


 ガッツポーズを作るケニーの声は震えている。


「頑張りすぎないでね。ねぇケニー、笑いたければ笑ってもいいのよ」


 台詞が合図となって、ケニーは堰を切ったように笑い出した。そんなに笑うケニーを久しぶりに見た。心配していたけれど、笑えるということはまだ頑張れるということだ。


 私たちはまた拳を突き合わせた。お互いの健闘を讃え、労うみたいに。


 その日の夜から自主的に『クラウンノート』をつけることにした。夜寝る前、その日やった練習の内容やできた部分、反省点、前よりも改善したところ、キャラクターの分析などを細かく記録する。ちなみに思いついた面白い動きや、ショーで演じる劇の脚本なんかも書くアイデアノートにもなる。


 以前は書くという行為自体が好きではなかった。私が勉強嫌いな理由は、勉強が書くことと紙一重だからといっても過言ではない。だから中学高校の試験勉強の前は、なるべく問題や答えをノートに写したりしないで、目で読んで覚えようとしていた。だがそれは暗記力に優れた子どもに合ったやり方であって、鶏並みに記憶力のない私にはそぐわなかった。そうして私は試験で赤点を取り続けたのである。何度も留年のピンチを迎えたが留年しなかったのは、オーロラが熱心に追試の勉強を教えてくれたからだろう。


 ノートに纏めると頭が整理され課題がクリアになって、やるべきことが見えてくる。何で今まで面倒臭がってたんだろう。苦手なことこそ積み重ねることで自分のものになる。そう自分に言い聞かせて継続しようと思った。


 ブラジルを出たら次の国はペルーだ。クスコ、アレキパ、リマの3都市をまわる。


 クスコに着くと恒例の怒涛の場越し作業が始まる。今回は遊園地でなくて、劇場跡地の空き地を使わせてもらうことになった。この場越しがあまりにキツすぎて、全ての作業を人力で行っていた昔は場越しだけで脱落者が何人も出たという。その理由もよく分かる。


 今回ケニーが中心となってサーカス団のホームページをリニューアルし、大々的に広告を出し募集をかけたお陰で、千人を超えるボランティアが集まってくれた。その大半がボディビルダーや漁師、レスラーなど屈強な男たちで、これまでよりも作業がスムーズに進んだ。


 手袋を嵌めた手でテントの外周に釘を打ち込む作業をしていたら、突然背後で「ぐおぉ〜!!」と魔物が死ぬ時のような凄まじい叫び声が轟いた。振り向いたら段ボールを抱えたケニーが中腰の姿勢のまま固まっていた。


「ケニー!!」


 駆け寄って段ボールを受け取り地面に置く。


「腰が……腰が折れたああぁ!! 複雑骨折だあぁぁ!!」


 背中が地面に平行のまま叫ぶ伯父の声が夜の闇を引き裂く。これはギックリ腰と確信した。以前母も、メルボルンの畑の西瓜を抜こうとして同じ状態になったのだ。


「骨は折れてないはずよ、多分ギックリ腰だわ」


 騒ぎを聞いたシンディがホタルを呼んできてくれたが、ホタルもギックリ腰には詳しくないという。


「とりあえず安静にしてるしかないわね」


 ケニーはジャンとアルフレッドに抱えられ、サーカステントの裏に張られた宿泊用テントに連れて行かれた。


 怪我のことを聞きつけたピアジェは「役立たず」だの「こんなときに怪我なんぞしおって」と憤慨していた。私は流石に怒りが湧いて、団長に詰め寄った。


「団長、ケニーには事情があって、まだ外に出て間もないんです。パフォーマーでもないし、体力が追いつかないのは当たり前です。それに、この過酷なスケジュールで怪我をするのも無理はないです」


 ピアジェはピクッと頬を震わせた。


「何だ小僧、この俺に意見しようってのか? 下っ端のくせにいい度胸だな」


「本当のことを言ったまでです」


「いいか小僧」


 ピアジェは私の胸に人差し指を突き立てた。


「俺に付いていけない無能はクビ。役立たずも、口ごたえをする奴も然りだ。覚えておけ」


 カッと血が昇って言い返そうとしたところにルーファスが仲裁に入った。


「まぁまぁ、落ち着け。場越しはプロのパフォーマーでも次の日全身筋肉痛になるくらいの作業だ。怪我人が出ることもある。あの新しいホームページのお陰でチケットも売れたしボランティアもたくさん集まった。今までたくさん頑張ってもらったから、ケニーには2日くらい休んでもらおう」


 不服そうに舌打ちをする団長にルーファスがまだ何かを言い聞かせていた。


 団長の目が離れた隙にケニーの様子を見にいくと、彼は六角形の広いテントの中、寝袋にうつ伏せになって腰の上に氷枕を置かれていた。天井に吊るされた仄明るい光を放つ橙色のランタンが時折点滅し、真ん中の石油ストーブの上の薬缶から白い煙が上がっている。基本的に私とケニーは公演の最中は同じテントで寝泊まりしている。同じテントにはジャンとアルフレッドも泊まる。


 ちょうどデッキチェアの上にココアの粉があったので、紙コップにお湯と一緒に混ぜて手渡したらケニーはうつ伏せのままそれをゆっくり飲んで、「ああ、うまい」と嘆息した。


「助かるよ、アヴィー。でも抜け出したら怒られるから、早めに戻るんだぞ。そして、怪我にはくれぐれも気をつけろ。役立たずで筋力なんて皆無な僕1人抜けるくらいなら何ともないけど、君は大事なクラウンだ。君の代わりはいないからな」


「そんなことを言っちゃダメよ。あなたはすごく綺麗な内面を持ってる。優しくて包容力もあって、いつも助けてくれる。でも一つだけ悪いところもあるわ、人間だから仕方ないけど……」


 テントの薄っぺらいドアの隙間から冷気と夜風の匂いを含んだ風が入り込んでくる。重機の金属部分が擦れるような鈍い音と、ピアジェの怒鳴り声、声を掛け合う団員やボランティアの声が聞こえる。


「あなたは物事を悪く捉えすぎるわ。私もそういうときはあるけど……特に自分に対してね。私たちは似てるのよ、血が繋がってるし。何かあると自分の殻にこもってしまう。そして、自分の中にある言葉で自分自身を攻撃してしまうの」


「耳に痛いよ、図星すぎて」とケニーは自嘲した。ただでさえ怪我をして心身ともに弱っている伯父を傷つけてしまったかもしれない。でも伝えないわけにはいかない。伝えずにいることで、ケニーは余計に苦しむと思ったからだ。


「何を言いたいかって、あなたは役立たずなんかじゃない。ちゃんとサーカス団の一員として頑張ってるし、休まないで仕事もしてる」


「組織の中にいるんだから当たり前のことさ……」


 私たちが話している最中、アルフレッドとジャンが様子を見にきて、私と一緒にネガティブ思考の極みと化しているケニーを励ましてくれた。


「オッサン、あんまり落ち込み過ぎんのもよくねぇぞ!」とジャンがケニーの肩をバシンと叩いて喝を入れ、ケニーはまた叫び声を上げた。


「俺もサーカスを始めて何度も辛い思いをしたが、今日自分ができた部分を1つずつあげて褒めてやることにしてる」


「僕だって今でもよくピアジェに怒鳴られるけど、その度にあの髭野郎って悪態をついてる。アイツが玉乗りしながらテントに突っ込んだ時のことを思い出して、心の中で笑ってやるのさ」


「あれは最高だったな」とジャンが笑った。


「とにかくさオッサン、あんまり悲観しねぇことだ。その日あったいいことを寝る前に思い出せ。そして、いいところを褒めてやること。俺たちからみてもあんたは頑張ってるよ。めちゃくちゃ言われてもキレないで、夜遅くまで残業してさ。自分をもっと肯定してやりな!」


「そうだよ、最初はこのおじさん大丈夫かな、根を上げなきゃいいなって思ってたんだけど、よくやってるよ。それに君の作ったホームページ見たけど、かなり良くなった。これで集客も倍になるんじゃないか?」


 たちまちケニーの表情が泣き顔に変わり、枕に顔を埋めて「うぅ〜」と声を上げて泣き出した。


 私だけじゃない。彼も彼で長い引きこもりを脱したあと、慣れない環境で必死にもがき苦しんでいたのだ。思い詰めていたところに仲間から激励の言葉をかけられて糸が切れたのだろう。


「泣くなよ、オッサン」と苦笑するジャン。


 2人がいなくなったあと、ケニーにゆっくり休むように告げてテントを出た。そこにルチアがやってきて、「ネロ、テントができたらルーファスが何か練習するらしいわ」と言った。


「分かった、ありがとうルチア」


「伯父さんは大丈夫? 湿布と夜食を持ってきたんだけど……あなたも食べない?」


「いただくよ。申し訳ないけど、ケニーをよろしく」


「任せて」


 ルチアがくれたチーズとチキンのバケットサンドをくわえ仲間の元へ向かう。彼女の気配りはアンジェラ譲りかもしれない。こんなメンバーが1人いると団員たちは大助かりだ。


 広場では皆すっかりくたびれた様子でサンドイッチを齧っていた。テントの設営はまだ途中で、ピアジェは進行がスムーズにも関わらず怪我人が出たことが気に入らないのか、葉巻をくわえ腕組みをしてパタパタと右足を動かしている。


「機嫌悪くてやな感じ」とジュリエッタがシンディに話しかけ、シンディも「機嫌がいいときの方が珍しいわ」と苦笑いした。


 ピアジェは私の姿をみとめるなりツカツカとやってきて、胸ぐらを掴んだ。


「どこに行ってたんだ、小僧?! サボらずにやれ!!」


「パパ、ネロはケニーの様子を見に行ってたのよ、お願いだから責めないで」


 駆け寄ってきたルチアに止められたピアジェは、ふんと鼻を鳴らし手を解いた。


「あんな奴のことなど放っておいていい。おいお前たち、休憩は終わりだ!! さっさと働け!!」

  

 仲間たちは立ち上がり、再び会場設営にとりかかった。

 

 設営の間も苛々がおさまらなかった。自分だって怪我をして夢を絶たれた立場なのに、絶望に打ちひしがれた過去のことなど記憶にないかのようだ。あの男はどうしてああも他人に対して冷酷で自分本位に振る舞えるのだろう。


 夕方から始まったテント設営は深夜に終わった。


 ルーファスは疲れてるとこ悪いが少しだけ時間をくれと断って、私を暗闇のテントの中に連れて行った。


 リングに照明を灯し、真ん中に立ったルーファスは私に語りかけた。深夜の無人のサーカスリングは、覚醒する前の冷たい静寂に包まれている。


「これがお前が立つリングだ。基本的なことだが今立っている場所がリングセンターで、自分から見て右側がリング右、左側がリング左、リングの周りをリングカーブという。この後ろのアーチ型の登場口がエントランス、舞台裏はオフ・ステージだ。実際に立ってみた方が動きをイメージしやすいだろう」


「そうだね。こうして立ってみると何というか……本格的な感じがするよ」


「語彙力」とルーファスに突っ込まれ、実践的という言葉の方が的確だったなと気づいた。


「これから登場の時の動きと、ハローの練習、退場の動きをやってみるからな」


 ルーファスの指示に従い私はオフ・ステージに引っ込んだ。


「クラウンになったつもりで歩いてこい」


 エントランスの奥にはいつもより薄暗くて静かなリングが横たわっている。ここでショーをするのかと想像するとすこし緊張する。


 地面を踏み締めて足跡を残すように、曲線的な動きを意識しながら、俯かずに目的だけを見てーー。全身に神経を集中し、習ったことを反芻しながら歩を進める。


 中央まで来ると立ち止まって右手をあげたあと、腰のあたりまで下ろして礼をした。


「それがハローだ。それだとちょっと控えめだがな、つまりは、登場のあと、観客に対してする挨拶込みの自己アピールだな」


 ルーファスはちょっと見ていろと言って客席から観てエントランスの奥に引っ込んだあと、慣れた所作で真っ直ぐリングの中央まで歩いてくると、くるっと身体を反転させて客席の方を見て、観客に向かって手を振った。


「こういうやり方もあるし……」


 次にルーファスは笑顔を作って右手を挙げた。


「こういうのもある。最初は自分の動きを確認するために、登場、観客の方を見る、ハローをするという動作を一つ一つ区切ってやった方がいいな」


 ルーファスの真似をして歩いてきて、同じポーズを取る。これだけでクラウンになったみたいな気持ちになる。


「特にどんなハローをしないといけないという決まりはない。大事なのは自分がどんなクラウンか紹介して、観客の注意を引くことだ」


「なるほど。じゃあ、怒りながら出てきてもいいの?」


「それもアリだな。まぁ、お前が演じるクラウンキャラクターがどんな奴かと、これからどんなパフォーマンスをやるかにも左右されるが」


 ルーファスは今度は退場の例として、手を振るパターン、追いかけられて退場するパターン、トイレに行きたくてそわそわしながら退場するパターンなどをやって見せた。


「キャラに関してもう少し詰めて考える必要があるな。ちょっと即興劇をやるぞ。俺はセラピストだ。お前はクラウンの詩になったつもりで答えろ」


「分かった」


 ルーファスが椅子を2脚持って来て並べて座った。


「初めまして、セラピストのルーファスです」


「よろしくお願いします」


「そこはもっと詩っぽく答えろ」


 詩っぽくーー。詩ならおどおどしたりしないはずだ。


「よろしく」とつんと澄ましながら答えた。


「さて、さっそく詩さんにお伺いします。今日は初日なので、まずはあなたのことを教えてください。犬派ですか? 猫派ですか?」


 私は猫が好きだけど、詩は多分こう答える。


「どっちも好きじゃありません」


「なるほど。ちなみに私は犬派です。飼ったことないけど、前に近所にいたブラックというハスキー犬と仲良しだったんですよ」


「へー」


「凄い塩対応ですね。次の質問。紅茶派ですか、コーヒー派ですか?」


 ここは日本の飲み物を答えておこう。


「緑茶。あと、麦茶や蕎麦茶も好きですね」


「渋いな。あなたは何故クラウンに?」


「目立ちたいからです」


「ほう。あなたの好きなことは?」


「楽器演奏。それと、羽子板と将棋です」


「強いんですか? 将棋」


「ええ、まぁ。負けると頭にきますが」


「苦手なものは?」


「子どもとうるさい人、馬鹿な人は苦手です」


「一億円当たったらどうしますか?」


「すごく派手な服を買います。目立つために。あと、トイレをリフォームしますね」


「ほう、それはどのように?」


「音姫に『さくらさくら』のメロディを入れます」


「斬新ですな」


「大のときは第九が流れます」


「分かりやすいですね。子どもの頃の思い出は?」


「両親と巴里に旅行に行ったことです。あのときは楽しかったですね。フランスパンで背中をかいたり」


「辛かったことは?」


「両親が離婚し、父が失踪したことです」


 ここは私の話を混ぜておいた。


「あなたのこれまでの人生で、一番印象的だったことは?」


「成人してから、父と野球を観に行ったことでしょうか。ホームランボールを取り損ねて、父が指を骨折しました。なので、野球ボールにはトラウマがあります」


 これも実話だ。詩を演じるつもりが、いつの間にか私ーーアヴリルの話が混じってきている。完全に別人になるというのは難しい。


「大変でしたね。最近困っていることは何ですか?」


「近所の家からよくカレーライスの匂いがすることです。空腹を刺激されます」


 一通り質問が終わるとルーファスは「とまあ、今日教えたかったのはこんな感じだ。今日は遅いから、また後で考えよう。キャラクターが固定されて、衣装を着てからやる方が雰囲気が出ていいだろう」と声をかけた。

 

 ずっと列車内での練習のみだったから、リングに立ってみたことで動きや感覚のイメージが少し掴めた。


「深夜のテントってのもムードがあって良いね。深夜公演やりたいな」


「勘弁してくれ、疲れて死ぬぞ」


 確かに2回公演のあとの深夜公演は鬼畜すぎる。


 ルーファスがテントを出て行く直前、心の中に留めておいた質問を私は尋ねた。


「ねぇルーファス、誰かを演じるっていうことは、自分自身を切り離すってことなのかな。登場してハローをしたときには別の人に変わる、そしてクラウンキャラを演じながら観客と接してパフォーマンスをする。リングを出るまで自分自身に戻れない。それってすごく不思議なことの気がするんだ」


「確かにな」とルーファスは頷いた。


「完全にクラウンのキャラクターと自分自身を切り離すのは、僕には無理だな。僕の中には人としての思考と感情があって、それを根こそぎ忘れて他人になりきることはできない。忘れてしまったら、演じることすらできなくなるんじゃないかな」


 自分が自分でなくなる。それは楽しいけれど、とても怖いことのような気がする。今まで当たり前のようにネロになりきっていた。男の子でいるときは歩き方や話し方に気を配らなくてもいい、女性として見られる面倒さを回避できる。だけど、時々私自身の話し方や動き方を忘れそうになる。


「完全に自分と乖離していないといけないって決まりはないぞ。創造主のキャラクターを自己投影してしまうのは致し方ないことだし、時には必要なことだ。ある程度自分の経験したことがなければ、そのキャラクター自体を理解できないってこともあるしな。大事なのは自分のこととキャラクターのことをちゃんと理解することだ。そして、観客にどんなキャラのクラウンか理解してもらうことだ。


 なりきることは全てを忘れることじゃない。クラウンの奥には人間がいる。お前なりにこれから演じていく中でゆっくり自分のキャラを見つけて、観客にそれを表現できればいい


 大事なのは誰かの真似じゃない、オンリーワンのクラウンになることだ。パフォーマンスだって衣装だって、メイクだってそうだ。チャップリンやMr. ビーンは確かに面白いが、唯一無二の存在だから面白いんであって、彼らの模倣をする奴を見て、観客は彼ら以上に面白いとは感じないだろう」


 クラウンになりきる。でも、私自身を全て忘れてしまわなくてもいい。もし私自身をーーアヴリルを完全に忘れてしまえば、クラウンのキャラ自体が消えるのだ。


 このままでいい。私は私なりのやり方でクラウンのキャラクターを見つけて、リングの中では自由に演じる。観客を自分の世界に惹き込むのだ。


「お前は他の人が2年から5年かけて学ぶことを短い時間で学ばないといけない。その分大変だろうが、お前ならきっとできる。とことん自分と向き合え。そして自分を信じろ」


「ありがとう、ルーファス。君には沢山お世話になると思うけど、よろしくね」


「ああ。人は迷惑をかけて生きる生き物だ。何かあったら頼れ。思えば俺もずっと道化のような生き方をしてきた。自分を晒して人を笑わせることに幸せを見出してた。でもふと我に帰ると悲しくなる。孤独だと感じることもある。だが周りを見ると仲間がいる。俺みたいな奴でも生きていていいんだと、ここにいていいんだとと感じられる。ここはそういう場所だ」


 ルーファスはしみじみと続けた。


「クラウンは孤独だ。でも、自分や他者と切って離せない。クラウンを作り出すのは自分自身だ。そして、笑わせる人がいて初めて存在意義が生まれる。クラウンをクラウンたらしめるのは、自分や周りの人たちだ。それを忘れるな」


 クラウンになることは、別人を演じ続けることは難しい。でも孤独の中に光を見出せるのもまたクラウンなのだと思う。綱渡りに大失敗して誰かを笑わせたいと感じたあの日は、クラウンとして誰かを幸せにできる第一歩だったのだ。


 道のりは長いけれどそこに仲間や誰か笑わせたいと思える人たちがいる限り、途方もない挑戦に前向きに取り組める気がした。


 ルーファスは去り際言った。


「お前のキャラクター、俺は好きだがな。ピアジェは何て言うか分からんが、すごく面白いと思う」


 さっきのハローの動きを繰り返した。


 詩ならどんな挨拶をするだろう。


 リングセンターで一礼をしてみた。これだけじゃ寂しいか。


 例えばピアジェみたいなクラウンなら、鞭を振り回してぷんぷん怒って登場するだろう。ジュリエッタなら挨拶代わりに歌を歌うかもしれない。ミラーならツンツンしながら出て来て、「何だよ、見んなよ!」って言うかもしれない。こうやって身近な誰かに重ねて考えるのは楽しい。


 演じるキャラクターのタイプによって、登場の仕方、挨拶の仕方も違うのだ。そこがクラウンの面白いところだ。


 詩ならーー。


 プライドが高く気取った性格の詩はお馬鹿な登場の仕方はしないだろう。歩き方もゆっくりと、胸を張ってツンと澄ましてお淑やかに歩くはずだ。


 例えば子どもに揶揄われて怒りながら登場し、観客に向き直り怒りを抑えきれずに悔しそうに拳を振り下ろすハローもいいだろう。目立ちたがりだから自分よりもお金持ちで綺麗で目立つ人を見て、ハンカチを噛んで「キェー!」と奇声を発するパターンも面白い。楽器を演奏するのも趣がある。日本人だから、琴とか三味線とか。三味線はギターの要領で弾けないかな。試しに控え室にあった三味線を弾いてみたが、三味線っぽい音は出ず下手くそな演奏になった。でもこれもアリか。詩は楽譜読めないんだし。


 自分が演じる詩がどんなクラウンかと想像できたら、あり得る動きのアイデアが浮かんでくる。リングでの行動パターンを思い描き試行錯誤する上で、自分のクラウンキャラクターを作ることは凄く大事なんだ。


 暗いテントに私の足音だけが響き、テントの隙間から月明かりが差し込んでいた。


 ハローの反復を終え3ボールジャグリングの練習をした。テント設営で腕はすぐに棒になった。ピアジェに言われた「軟弱」という台詞が頭を過り、筋力のなさを嘆きつつ練習を続けた。ピアジェには負けたくない。見返せるくらい上手くなってやる。


 夢中で練習していたら、3つのボールを交互に放ってキャッチする3ボールカスケードという技と、2つのボールをまっすぐ上に向かって投げて、落ちてきたときにもう一つのボールを上に投げる1UP2UPという技がスムーズにできるようになった。


 空が白み始めた頃、オフ・ステージからぬっと何か大きな黒いものが出てきて驚いて尻餅をついた。


「わっ」


 相手はホクだった。ホクは無言で右手をあげ近寄ってくると、貝殻のネックレスを首にかけてくれた。彼の首にかかっていたのと同じものだ。


「ホク……。これはもらえないよ。君の宝物じゃないのかい?」


 ホクは首を振り、胸の前に拳を当てて一度頷いた。頑張れという意味と解釈した。


「ありがとう、ホク」


 ホクは私を応援してくれている。言葉がなくても気持ちは伝わる。難しくても、同じように言葉がなくても面白さは伝わるんだと思う。本当にそれが観客のことを考えて、笑わせたいという純粋な思いから伝えようとしたものであれば。そう信じたい。

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