第30話 ピアジェの過去

 アルフレッドの部屋のドアを叩いたが返答がなく、入るよと断りを入れてノブを回したが鍵がかかっている。


「ミラー、いるのかい?」


 やはり返事はない。怒って私と話もしたくないんだろう。昨日あんな脅かされ方をした上、練習に協力したらしたで揶揄われたり笑われたりーー。とんだ赤恥をかいた、協力して損したと感じたに違いない。


「ミラー、君を傷つけるつもりはなかったんだ。脅かしたのは、毎日うるさい姑みたいにアレコレ言われるのに頭に来ていたからなんだ。ゴメンよ。あと、せっかく練習に協力してくれたのに揶揄ったりして申し訳なかったよ」


 数分後ガチャリと鍵が開く音がして、「入れよ」とぶっきらぼうな声が返ってきた。


「失礼します」


 ドアを開け部屋に入ると、ミラーは2段目のベッドの縁に腰掛けていた。まだムスッとしてはいるが、さっきよりは雰囲気が和らいだ気がする。


 本棚の上にはジオラマのサーカステントと象やライオン、猿、馬が置いてある。アルフレッドの趣味なのだろうか。慰みにその中のライオンの小さなライオンを手に取る。こうして手の中にいると、いつも世話に行くたびに牙を剥き出しで吠えまくるレオポルドとは正反対でとても可愛らしく無力だ。


「あのさ……」


 謝ろうと口を開いたら、「いいよ、もう謝らなくて」とミラーが遮った。手にルービック・キューブを持ってカラフルなブロックをカチカチと動かしている。


「俺もお前にあれこれうるさく言って悪かったしな。でもお前も悪いんだぞ、いつも夜に何か歌ってるし、脱いだ服そこらに散らかしておくし。部屋狭いんだから、もうちょっと考えろよ」


 また始まったと少しうんざりしたが、これ以上揉めたくないので「分かったよ」と答えておいた。確かに私もガサツなのはいけない。一緒に暮らしているミラーのことを考えられていなかった。こんなに本音でぶつかって話せたのは初めてだった。共同生活だからこそ、お互いに思いを伝え合わないといつか爆発してしまう。修復困難な状況になる前に話せてよかった。


「散らかさないように気をつける。あと、いつも歌ってるのはアヴリル・ラヴィーンっていう歌手の曲だ。君もきっと気にいると思うよ」


「歌うなら別の場所で歌えよ」


「別の場所ったって、どこだって響くしカラオケもないじゃん」


「前はやってたよ」


「本当?」


「ああ、お袋がいたときはよく夜にみんなで食堂車のテレビに機械を繋いでカラオケをやってた。だけど今はやってない。親父がめちゃくちゃ機嫌が悪い日があって、カラオケしてたらうるさいって怒鳴り散らして機械を壊しちまったんだ」


「何も壊さなくても……」


 あのピアジェならやりかねない。やはり第一印象は当たっていた。彼はそんな人間なのだ。自分の感情次第で皆の楽しみを破壊するなんて滅茶苦茶としかいえない。


「親父はそういう人だ。俺なんて生まれてから一度も親父に褒められたことなんてない。練習で何かミスすると、馬鹿だ役立たずだと怒鳴られる。殴る蹴るは当たり前。他の団員に対しても厳しいけど、息子だから余計に容赦ない。本番前はいつも吐き気がするんだ、失敗したらどうしようって」


 華麗な演技の裏で、彼は父親から与えられる大きなプレッシャーと恐怖に耐えてきたのだ。彼が本番前に口数が極端に減ってトイレにこもっていたり顔色が悪い原因は、他でもない実の父親だったのだ。もしミラーがピアジェの息子として生まれていなければ、こんなに苦しむことはなかった。ピアジェの子どもに生まれなくてよかったと、ミラーには申し訳ないが思ってしまったのは事実だ。彼の生い立ちを考えると、私はずっと恵まれていた。


 父は雑で無神経で空気が読めないところもあったけれど、妻子に手を挙げたことなんて一度もなかった。たまに突拍子もない間違いを犯すけれど基本的にはマイホームパパで、子供のときはよく山にハイキングやキャンプに連れて行ってもらった。家族でグリルを囲んでBBQをするのが楽しみだった。父はいつも面白い冗談で笑わせてくれ、学校で嫌なことがあれば親身に相談に乗ってくれた。運動会や劇の前にはいつもこう言って励ましてくれた。


「いいか、こう思え。お前は今日だけ宇宙人だ。人間の子どもたちより遥かにすごいことができるって、自分に言い聞かせるんだ」


 父の言葉のおかげで、本番は緊張しないでいつも以上の力を発揮できた。


 離れてみて分かる。私は父が嫌いじゃなかった。むしろ思春期までは母よりも父との方が仲が良かったくらいだ。私が高校に入ったあたりから夫婦仲が本格的に悪化して、父が家にいないことが増えた。どんなに間を取り持とうとしても修復はできなかった。


 母が父のことを悪く言うのを聞いて複雑な気持ちになったり、父を1人家に置いて行くことに深い罪悪感を抱いたのは、父のことが本当は好きだったから。たまに父にうんざりすることはあったけれど、それはきっと私たちが似ている部分が多かったからだ。


 母だって決して悪い母親ではなかった。料理が大の苦手で、フライパンを持てばせっかくの新鮮な肉や野菜が黒焦げになり、味だってしょっぱ過ぎると思うこともあれば味覚が消えたのかと思うくらい味が感じられないこともあった。掃除も段取り良くできなくて余計に散らかってしまって、できない自分自身に苛立っていた。見かねて手伝っても、途中で疲れた飽きたと投げ出してしまうこともしばしばだった。そんな風に完璧ではないけれど、母なりに頑張って家事をこなしていたし、私にたくさん愛情を注いでくれた。アヴリル・ラヴィーンをはじめたくさんの素敵なアーティストの音楽を教えてくれたのは、他でもない両親だった。


 父も母も悪い人間ではない。ただ生きるのに不器用なだけだ。思えば私もそうだ。過去の私は上手く生きている気になっていただけで、気づけば窒息しそうになっていた。悲しいくらいに、私は他でもない2人の子なのだ。会えなくなって初めて彼らが、彼らと過ごした時間が恋しいと思った。もう戻らないと知っているから余計に。


「僕の親は最近離婚したんだ。いつも喧嘩ばかりしてて見てるのが辛かったよ。だけど二人とも僕のことを大切に育ててくれた。両親がくれた愛情は本物だったって、離れてみて分かるんだ。君のお父さんだって本当は君のことを……」


「大切なわけあるか!」


 空気を切り裂く声に身体が跳ねる。ミラーの顔は怒りと悲しみに歪んでいる。


「親父に大事にされてると感じたことなんて一度だってない。母さんは手先が器用で、ここで皆の衣装を作ったり、ピアノを弾いてショーで使う曲を作ってた。皆が疲れていれば飲み物やおやつを作って差し入れしてくれたり、内緒で俺とルチアにだけ夜食を作ってくれたりした。俺が怒られても母さんだけは味方だった。ずっと隣で励ましてくれた。だけど今はいない……」


 ピアジェに元妻がいたことは知っていたけれど、何となく触れてはいけない空気があって詳しい事情を知らなかった。母親を必要としている時期にいないというのは、想像以上に辛いことだろう。


「辛かったね。陳腐に聞こえるかもしれないけれど、君には仲間がいる。頼りにならないかもしれないけど、僕だって……」


「ここにいる皆は良い人ばかりだ。前はもっとたくさん団員がいたんだ。俺が小学生の頃は全盛期で、120人くらいいた。団員同士で結婚して子どもを産んで、ここで育ててる人も何人もいた。俺と歳の近い子どももいたりして、皆が親代わり、兄弟代わりだったよ。でもいつの間にか人数が半分に減っちまった。母さんもいなくなった。どれもこれも親父のせいだ」


 ミラーは母親から以前に聞いたという話を、沈鬱な表情のまま語り出した。


 サーカス団は28歳のピアジェの祖父チャーリー・ビショップによって、1928年にロンドンで旗揚げされた。当時の名前は『グレート・ビショップ・サーカス』という名前で、団員は30人ほど。国内やヨーロッパを中心に巡業していた。チャーリーは龍をも恐れぬ度胸を持ち、社交的で人望に厚く商才に秀でていた。ロンドンの大手新聞社や雑誌社と提携して戦略的な広報活動を行い、更に動物園を営む友人に協力を仰いでゾウや馬、アシカや熊などの動物を自ら調教した。多彩なパフォーマンスと動物芸で、小さなサーカス団はたちまち繁栄に導かれた。5年後には団員は70名近くに増え、英国一のサーカス団と呼ばれるまでになった。


 祖父が80歳で亡くなったあと、跡を継いだのは40歳の息子のジェレミーだった。動物学者であったジェレミーはサーカスのことについては詳しくなく祖父ほどの商才はないが、お人好しで人徳があった。経営は主にマネージャーの女性ーー後に彼の妻となるメアリーに任せ、自分は主に好きな動物の管理や調教の仕事にあたった。


 2人が結婚したのはジェレミーが42歳、メアリーが35歳の時だった。1年後に男児が生まれ、ピアジェと名付けられた。ジェレミーは一人息子を極度に甘やかし、メアリーは逆に厳しくした。自分の夫以上に、跡取りである彼に期待をかけたのである。


 ピアジェは生まれてからずっとサーカスで暮らし続けた。抜群の運動神経を持つ彼は、6歳の時にはリングでアクロバットを披露していた。


 ピアジェが10歳の頃、心優しいジェレミーは愛する動物たちがサーカスで使われているのを見ることと鞭を使い調教するのに耐えられなくなり、サーカスでの動物使用を辞めた。動物ショーが人気の半分以上を占めていたサーカス団の経営には、この頃から暗雲が立ち込め始める。


 ミラーの母アンジェラとピアジェが出会ったのは、ロンドンにあるサーカス学校だった。2人は同い年で、アンジェラはコントーショニストを目指していた。アンジェラは天使のような無垢な美しさを持っていただけでなく、身体の柔軟性とパフォーマンスの素晴らしさも校内随一で、ピアジェはたちまち彼女に心を奪われた。


 今の彼からは考えられないことだが、ピアジェは当時曲芸師を目指す仲間の中でも一、二を争う運動神経の持ち主だった。元々サーカス団で技を磨いていたこともあり、技の熟練度と正確性では群を抜いていた。教師からは学ぶことはないと言われたほどだった。


 一方で彼は、気に入らない教師の車のタイヤの空気を抜いたり、大人しい生徒、もしくは自分よりも才能があり教師たちに気に入られていると思われる生徒に嫌がらせをしたり、他人の物を盗むなどの悪さを働くので目立っていた。


 最初アンジェラは粗暴な彼が苦手だった。執拗にアプローチを仕掛けられたものの、適当にあしらっていたという。


 そんなある日、周りからちやほやされパフォーマンスも絶好調なことで図に乗って暴君の極みと化していた男を悲劇が襲う。


 学校の校門前の歩道で、他の生徒が見ている前で後方抱え込み宙返りをして見せたとき、着地に失敗して右脚の靱帯を怪我してしてしまったのだ。医師からはもうサーカスができないと絶望的な言葉を告げられ、パフォーマーとしての輝かしい将来しか描いたことのなかったピアジェは絶望の淵に立たされた。


 心優しいアンジェラは、激しく落ち込み学校を休みがちになり、自棄になって酒や博打に走る彼を見捨てておけなかった。彼がアルコールに過度に縋るようになったのはこの頃からだった。


 アンジェラはピアジェの家を訪れては、笑顔を忘れ死にたい、自分に明日はない、サーカスを辞めると弱音を吐き続ける男を根気強く励まし支え続けた。やがて自然の流れで2人は交際を開始した。ピアジェの本質を理解している周りの友人たちからは猛反対を喰らったが、当時のアンジェラは落ちぶれ荒み切った彼を救いたいという同情と、そこから派生した恋心によって盲目になっていた。


 3年の4月にピアジェの父ジェレミーが急死し、誰よりも父親を慕っていたピアジェはまたしても悲しみの淵に突き落とされる。


 こんな彼に救いの手を差し伸べた人物がいた。ある時、アメリカの歴史的サーカス団の団長が学校に講師としてやってきた。人心掌握を得意としていたピアジェはその講師の懐にまんまと入り込み、自分の悲劇的境遇を切々と語って同情を引いたのだ。


 講師の有益なアドバイスを引き出した彼は経営者ーーつまり父の跡を継いでサーカス団の団長になる道を進むことに決めた。アンジェラはそれまで以上にコントーションに磨きをかけた。


 卒業後2人は結婚。ピアジェは団員が皆辞めて殆ど廃業状態のサーカス団を立て直そうと決めた。サーカス学校時代の仲間に声をかけると、2人の人脈により30人ほどの団員が集まった。『ミルキーウェイ・トレインサーカス』という名前は、日本の作家宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』の翻訳版のタイトル" The Night of the Milky Way Train" からとったものだった。幼い頃からその本が愛読書であったアンジェラのアイデアだった。


 彼はまたロンドンの自宅兼事務所で暮らしながら、サーカスのパフォーマーとスタッフを募集する。そこにやってきたのがロシア人のミハイルというクラウンだった。ロシアのサーカス団を飛び出しソロのクラウンとして芸をしながら世界を旅していた20代前半の彼は、たまたまイギリスに来ていた際に募集を知りピアジェたちの元にやってきた。3人はそこで意気投合。アイデアを出し合い、共にサーカスを動かしていく仲間となる。


 全部で70人ほどの団員とスタッフを集め、機材やテントの設備も一新して最初はイギリス国内のみを巡業した。アンジェラは団員たちのご飯作りや雑用、衣装作り、事務仕事と忙しく働いて夫とサーカスを支えた。


 興業成績はまずまずだが、世界を目指していたピアジェは満足していなかった。


 サーカス団を結成して2年ほどした時、サーカス学校の臨時講師として来ていた例の男性から連絡が来る。サーカス団を畳むのだが、巡業に使っていた50両ある列車の処理に困っているから引き取ってくれないかという。世界を廻るサーカス団になることを狙っていたピアジェにとって、またとない話だった。


 ピアジェはアンジェラとともにアメリカへ向かい、大金を叩いて列車を修理した。エンジンも性能の良い最新のものに取り換え、暖房設備やシャワー、厨房やトレーニングルームなどの設備だけでなく、団員たちの部屋も全てリフォームした。

 

 大掛かりな列車の改造が終わるとピアジェはイギリスにいる団員たちを呼び寄せ、アメリカ大陸から南米までを巡る公演を始めた。巡業しながら新しい団員を獲得し、団員の数は100人ほどになった。


 そんなある日彼はロシアに単身で渡り、世界的サーカス団のショーを観る。そこで動物芸に目をつけた。動物を心から愛するアンジェラはサーカスに動物を使うことは否定的だった。ミハイルも同意見だったが、利益第一主義のピアジェは耳を貸さなかった。


 彼は元々列車に連結されていた家畜車を、人間が走行中も行き来して世話ができるような檻付きの車両に作り変えた。


 また、以前アメリカのサーカス団で活躍していた調教師のトムを雇い、サーカスが廃業した、または気性が荒くて調教できないなどの理由で動物園に送られかけていたゾウや馬、猿、熊などの動物たちを集めて調教しなおした。ベテランのトムの優れた手腕で、動物たちは優秀で愉快なパフォーマーへと変身した。


 当時は野生動物をサーカスに使うことへの法規制が厳しかった。何らかの理由で捕獲され殺処分になりかけた野生動物を引き取り、一度遊園地を営む知り合いに預けて繁殖させ、産まれた子どもをサーカスに使うという方法をとった。それならば2世となり野生動物とはみなされないからである。


 ピアジェの経営手腕と個性豊かで才能あふれる団員たちのお陰で落ち目だったサーカス団は再び隆盛を極め、世界に名前が知れるようになった。


 やがてピアジェとアンジェラの間には子どもができた。それがミラーとルチアだった。2人の兄妹はサーカス列車の中で育った。公演が1つの都市につき2週間単位で行われていた際は場越しのたびに転校を余儀なくされ、せっかくできた友達ともすぐに別れなければならなくなった。また、厳しい練習に時間を取られ友達と遊ぶ時間もなかった。その分周りの子どもや大人たちが遊び相手だった。彼らにとってはこの世界がーーサーカスが全てだった。


 父親に辛く当たられるミラーを不憫に思ったのか、母親以外で誰よりも彼に愛情を注いでくれたのがミハイルだった。ミハイルはロシアのクラウンに特徴的な、ウィットに飛んだ独創的な四コマ漫画のような寸劇の要素のあるパフォーマンスが得意だった。客席に大量のティッシュペーパーを撒き散らし、滑稽な仕草で回収に行く。その途中で女性のバッグを奪ったり(もちろん後で返す)、子どもに手品を観せたり風船で作った動物をあげて喜ばせた。


 彼は運動神経こそ良くなかったが、パントマイムや手品に秀でていた。彼独自のクラウンキャラクターとパフォーマンスはヨーロッパ諸国でよくうけ、瞬く間に大人気クラウンとなった。その人気は伝説級で、ヨーロッパのサーカス関係者の中で彼の名を知らぬ者はいないほどだった。


 繊細な神経を持つミハイルは他の団員に対しても親切だった。さりげなく体調を気遣い、本番前に緊張しているメンバーたちをジョークで笑わせた。とりわけともにサーカスを再興させた同志であるアンジェラに対して親しみと慈しみを持って接しているように見えた。パンクしそうに積み重なっていた彼女の仕事を手伝い、ピアジェが彼女に何か嫌味を言ったり手をあげそうになると庇った。一方のアンジェラもミハイルには心を開き、乱暴で独善的な夫のことを相談したりしていたようだ。


 やがてピアジェはそんな2人の仲を訝しむようになった。元々彼は、才能があり団員からも客からも人気のある稼ぎ頭であるミハイルに対して激しい嫉妬心を抱いていたのだ。彼はミハイルをサーカスから追い出した。そして以前よりも妻を激しく束縛し、サーカス列車の自分の部屋に軟禁するまでになった。妻が何か言ったり逃げ出そうと画策しようものなら殴り蹴りつけた。鞭で背中を血が流れるまで打つこともあった。それこそ鬼畜のように意識を失うまでやり続け、止めようとしたミラーのことも容赦なく殴りつけた。


 妻が彼に従っているうちはピアジェは気味が悪いくらいに優しく献身的だった。赤子に語りかけるように声をかけ、食事も自らの手で与えた。


 やがてアンジェラの心は壊れ、笑うことも怒る気力すらもなくなり、1日の大半を涙を流して過ごしていたという。


 そんな地獄のような日々が続いていたある時、アンジェラが姿を消した。ロシアのウラジオストクでの公演の夜のことだった。公演を終えて帰ってきたとき、部屋にアンジェラの姿がないことに気づいたピアジェは狂ったように喚き散らして彼女を探し回った。だがアンジェラは列車内のどこにもおらず、翌日雪の積もる街を団員総動員で端から端まで探したが小さな手がかりすら見つからなかった。


 ミハイルが妻を連れ去ったに違いないと思い込んだピアジェは怒り狂い、偏執的な鬼と化した。彼は1人だけ次の公演地には行かず、妻の行方を追ってロシア中を駆けずり回った。団員の誰も彼の無謀な試みに対して口出しはできなかった。


 しかし、1月の極寒のロシアをほとんど飲まず食わずで悪鬼の如き形相で捜索をつづけていたピアジェは、モスクワの空港で倒れ病院に搬送される。診断は肺炎だった。2週間の入院を余儀なくされた彼は回復後に何度も脱走を試みたが叶わなかった。


 退院後半年ほど、ピアジェはルーファスに代理の団長を任せサーカスそっちのけでアンジェラの行方を追い続けた。結局アンジェラは見つからず失踪したままだ。ピアジェの横暴さについていけなくなった団員たちは1人、また1人と辞め今に至る。


 「親父は恐ろしい人だよ」


 ミラーは暗い声でつぶやいた。


「自分の願望はどんな手段を使ってでも叶えないと気が済まない。完璧主義でショーにも妥協を許さない。って言うと聞こえがいいけど、結局金のことと自分の利害に関わることしか頭にないんだ。ワンマンで、気分次第で怒鳴り散らしたり、練習で上手くやれない団員や動物に乱暴したり……」


「そんなのあんまりだ! 誰にも止められないのか? 君のお母さんが捕まったときだってそうだ。何で彼女をそのままに……」


「無理だよ。止めようとした人は皆同じ目に遭って、結局辞めていく。俺も何度も親父を止めようとした。ルチアと一緒に母さんを何度も助け出そうとしたよ。そのたびに失敗してボコボコにされて終わりだった。まぁ、親父はルチアには手を出さなかったけどな」


 誰にでも、動物にでも感情がある。暴言を吐かれれば深く傷つくし、自分は駄目な奴なんだと思う。殴られれば痛い。ディアナに殴られたときの痛みは、今もリアルに鳩尾に染み付いている。痛みを知っているからこそ、私は他人に同じ感覚を味あわせたくないとおもう。動物に対しても昔から親しんでいて愛情を感じる機会が多いからこそ、傷つけるという方向に意識が向かない。多くの人はそうだ。でも一定数他人の痛みに無頓着な人間はいる。もしくは他人が苦しんでいるのを見て愉悦に浸る人間が。ピアジェはどちらの人間でもあるように思える。彼の根本にある歪んだ何かが、狂気的で残虐な行為に駆り立てているかのようだ。


 どうにかならないのか。何かできないか。


「小さい頃からいつも親父に言われた、俺は出来損ないだって。何もできない役立たずだって。親父は俺が邪魔なんだ、大事なのはルチアだけだ。ルチアは母さんにそっくりだから……」


「そんなことない」


 私はミラーの悲しそうな目を見た。どんなに虚勢を張っていても、心は19歳の青年でしかない。愛情に飢え、自尊心を根こそぎ剥ぎ取ろうとする父親からの重圧と恐怖と闘いながら空を飛ぶ1人の青年ーー。


「君は頑張ってるよ。すごいよ。プレッシャーがある中で、あんな完璧な演技ができるんだから」


「別にすごかねーよ」とミラーは鼻の下を擦った。


「すごいよ、僕にはできない。僕は弱いんだ、君よりずっと。今まで人に流されてばかりで、大学だって中退して、本当に打ち込めるものなんて一つもなかった。ここでサーカスに出会って夢中になって初めて、君たちを羨ましいと思った。小さな頃からサーカス一筋に頑張ってる君たちを……」


「俺は逆に普通の人が羨ましい」


 寂しげにミラーは答えた。


「俺はお前たちみたいに外の世界のことを知らない。この列車の外の社会がどんな風かも。物心ついたときから俺の世界は、このサーカスと仲間と家族と動物たちだけだ。他の子どもらと同じように学校に通って、転校なんかしないで友達と馬鹿やったりしたかった。もちろんここの仲間は皆いい人ばかりだ。でも時々思うんだ。ここに生まれてなければ、もっと違う人生があったかもしれないって」


 サーカスは魅力的なだけじゃない。光があれば影もある。ミラーのようにサーカスという閉ざされた世界にいるために外の世界を知らず、辛い思いをすることもある。私たちが当然のように甘受していた普通が誰かにとっては羨ましくて、自由で輝いて見えるのだ。


「僕は逆に、これまで遊んでばっかりだったことを後悔してる。僕の母さんも色んなことを後悔してるかも。父さんとも離婚したし……」


「能天気な奴だとばかり思ってたけど、お前も色々苦労してんだな」


 能天気という言葉にカチンときたが怒らないでおこうと思った。彼は感情や思考を素直に言葉にできない類の人間なのだ。


「きっとさ、100%満足のいく人生なんてないんだよ。でも僕はこの頃思うんだ、そのうちの50%……いや、30%だっていい。本物だって、生きてるって強く思える瞬間があれば」


「たまにはいいこと言うな、お前」


 最近はクラウンのトレーニングからその他の業務、怒涛の場越しから公演から、忙しくて目が回りそうだ。でもその分充実していた。これまでぼやけていた世界の輪郭が、急にくっきりと鮮明に迫ってきた。そして知った。これが生きているって感覚なのだと。私がずっと欲していたものなのだと。その感覚は乾き切った心を潤す水のようで、否応なく私を意欲と活気で満たした。


 これまでの人生が無駄だった、偽物だったとは思わない。過ぎ去りし日々を懐かしく思い出すことはあるし、恋しく思うときもある。でももし過去に戻りたいかと聞かれたらNOだ。今は例え郷愁や懐古の念を振り切ってでも前に進みたい。ずっと人生に疑問を持ち続けていたのに、今の私にはこの生き方しかーー道化として生きる道しかないように思える。妥協でも諦念でもない、確かな決意に似た希望に溢れた確信だった。


「そろそろ練習に戻らなきゃ」


 私が部屋を出ようとするとミラーも立ち上がった。


「俺も行くよ」


 トレーニングルームへ向かう通路を歩きながら、私は気がかりなことを打ち明けた。


「ケニーも最近疲れてるみたいなんだ、お腹の調子も悪いみたいだし」

 

 この頃ケニーも顔色が悪い。長年の引きこもり生活で体力が失われたケニーは場越しのたびにくたくたで、翌日は全身の筋肉痛に喘いでいる。公演がない日は、ピアジェの怒鳴り声が響き渡る事務所で深夜まで続く仕事で疲れ切っている様子だ。彼の胃腸の問題も、おそらくは慣れない生活環境と過酷な労働のために違いない。


「多分オッサンそのうち倒れるぞ。親父の扱きには付いてけねーと思う」


「ケニーは繊細なんだ、優しすぎるんだよ。人一倍色んなことを敏感に感じてしまう分、疲れやすいんだ」


「でも、お前が手を出していいことと悪いことがあるんじゃねーの? オッサンだって大人だし、ある程度の問題は自分で解決するだろ」


「だけど……」


 ケニーがいつかパンクしないか心配だ。今は私の冗談に笑ってくれているけれど、もしいつか笑えなくなったら?


「助けが欲しくなったらあっちからサインを出してくるだろ。それまで黙って見守ればいいんじゃねーの?」


 考え込んでいるのを見破ったみたいにミラーが言った。


 彼の言うことは一理ある。どうにかしてあげたいけど、伯父は頑張りたいと言うだろう。変わりたいと言っていたし、その決意は中途半端なものではない。私が助けに行くことを望んでいないかもしれない。姪っ子に庇われて恥ずかしいとか迷惑と思う可能性もある。


 ミラーの言う通り、今はケニーを静かに見守ろう。でも、いつか彼が助けが必要になったときには駆けつけられるような心算もしておくつもりだ。


 午後綱渡りの練習が終わると、ずっと部屋の隅で険しい顔で観察していたピアジェが筋トレをすると言った。


「ジャグリングでも綱渡りでも筋力が必要だ。お前はあまりにひ弱すぎる。その棒っ切れのような腕を見ろ。そんなんじゃパフォーマンスの途中でバテちまうぞ」


「こう見えて体力には自信があります」


 ムッとして答えるとピアジェがふんと鼻で笑った。神経に触る笑い方だ。


「とにかく鍛えろ、付いてこれなければショーには出さん」


 脅しなんて怖くも何ともないけれど、ショーには出たい。認めたくないけれど、筋力がないのは確かだ。場越しの作業のときも、重いものを持ち上げる際私1人では心配らしく他のメンバーが駆けつけて助けてくれたっけ。有難いことだけれど、皆それぞれの仕事で忙しいのに、私の力がないせいで作業の効率を落とすのは申し訳ない。何よりジャグリングや綱渡りをやっていても、筋肉が強張って疲れてしまいやすいのは確かだった。ピアジェには強がって見せたけれど、彼のような体育会系の人間からしたら私はひ弱なのだろう。


 ピアジェはトレーニングルームのランニングマシーンの隣に並ぶダンベルを持ち上げるように指示を出した。5キロから始めて15キロまでは何とか持ち上げられたが、それ以上になると無理だった。ピアジェは私に次々と矢のように否定の言葉を浴びせた。


「お前はそれでも男か?! ミラーでも20キロは持てるぞ!! 俺が学生の頃は50キロも楽勝だった、お前のような貧弱な奴はサーカスではやっていけん!!」


「男だからって、皆が皆マッチョである必要があるとは思えませんが。男は強くあるべきなんて考え、今どき流行りませんよ。大体にして男、女という括り自体が時代に反して……」


「つべこべぬかすな、このガキがぁぁ!!」


 ピアジェの怒鳴り声に驚いた何人かの仲間がチラチラと心配そうにこっちを見ているのが分かるが、彼らに助けを求めたくはない。今私が対峙すべきは、パフォーマンスに耐えられない自分の身体と、血管が切れそうなほどの大声で喚き立てる目の前の男だ。


 ピアジェは鞭を手に取り、私に腕立てと腹筋を100回ずつやるように命じた。まるで軍隊のようだと思いながら床に手をついて30回ほど腕立てをしたところで、腕に力が入らなくなってきた。


 ゴムが弾けるような音と一緒に背中に激痛が走り、短い悲鳴が漏れる。


「根性のない奴だな!! このくらいでへばるんじゃ、サーカスなんて夢のまた夢だ!!」


 うつ伏せの状態から男の顔を見返した。その唇は歪み、茶色の目は爛々と輝き頬が紅潮している。まるで人をいたぶることを楽しんでいるかのように。


 もう一度、今度は右肩に鞭が振り下ろされる。もう20回、ほとんど気力だけで身体を持ち上げ床にうつ伏せになった私の脇腹を男が靴の先で蹴り付ける。


「どうした? もう降参か? どんな練習にもついてくるという気概はどこへ行った? あれは見せかけか? え?」


 歯を食い縛る。この男の前にいると、自分が至極無力で矮小な存在に思えてくる。私の軟弱な身体が全ての不幸の源で、彼の欲求に応えられない自分は愚かで情けない存在なのだと。


 だがそれは真理だろうか?


 本当に私が悪いんだろうか?


 それにYESと答えてしまうことは、ケニーが職場で受けてきた数々の理不尽な仕打ち、そしてルーファスが世間から差別を受けミラーが虐げられているのも、本人たちの問題と結論づけるのと同じことだ。彼らが悪いんじゃない。私が悪いんでもない。悪いのは、この暴虐の限りを尽くしてきた目の前の男なのだ。


 ミラーの「恐ろしい人」という言葉が脳裏に浮かぶ。本当に恐ろしい人間なんてこの世にどのくらいいるだろうか。ホラー映画に出てきたAI人形のミーガンの方がずっと怖い。


 彼はおそらく自信がないのだ。ルーファスのような頭脳も人格もないから、大声を出し鞭を振るうことで人を服従させようとする。ディアナと同類だ。力を誇示し誰かをこき落とし嘲笑うことでしか自分の価値を見出せない、臆病で情けなくて矮小なのは彼の方だ。


 この男には負けたくない。絶対に。


 ピアジェの恍惚とした目を見据える。


「女みたいな目をしているな」と男が嘲笑する。


「その顔がそそるよ」


 あらゆる暴言と被虐的な行動の生贄となりながら100回ずつのノルマをこなす途中、駆けつけた団員たちがピアジェを何度も止めた。ピアジェは掴み掛かろうとしたジャンを殴りつけ、ルーファスの小さな身体を突き飛ばした。


 混沌と化したトレーニングルームにジュリエッタがやってきて、「団長、女子トイレが詰まったわ」と言った。


 憤怒に覆われた男の顔が入り口を向く。


「何?! そんな修理などスタッフの誰かにやらせろ!!」


「皆忙しそうなのよ」と困ったように言うジュリエッタ。私に目配せをしているのに気づき助けに来てくれたのだと分かった。「俺も忙しいわ!」となおも憤っているピアジェに向かってシンディが「お願い団長、やってちょうだい。一つしかないトイレが使えないのは大変だわ。何でもできる団長なら、きっとすぐに直せるわ」と持ち上げながら懇願して初めて、ピアジェは呆れたみたいにため息をついた。


「やれやれ、手のかかる便所だ」


 ピアジェは去り際振り向いて、ギロリと私を睨んだ。

 

「今日はここまで勘弁してやるが、また明日もやるぞ」


 力が抜けて床に突っ伏した。背中がヒリヒリして痛くて、周りに心配した仲間たちが集まってきたのに泣き出しそうになった。私は確かにひ弱だ。仲間たちが軽々乗り越えられるようなノルマもこなせずに、加虐的な男の玩具になっている。情けないよりも悔しかった。噛んだ唇から血が滲む。


 アルフレッドがしゃがんで私の顔を覗き込んだ。


「大丈夫か、ネロ? 背中が痛むだろう?」


「平気さ、このくらい」


 強がってみせたけれど震えた声で泣き出しそうなのが伝わったはずだ。やるせない、悔しい。


「ホタルを呼んでくるわ、念の為消毒をしてもらいましょ」


 大丈夫だと止めるのも聞かずシンディが飛び出して行った。


「しかしとんでもねぇ奴だな! 新入りをこんなに痛めつけるなんざ鬼の所業としか思えねぇ」


 ジャンが苛立たしげに拳を壁に叩きつけた。


「今日、ピアジェは朝から電話でスポンサーとの契約の件で揉めて特に機嫌が悪かったんだ。助けられなくて悪かったよ」とルーファスも項垂れた。


「君たちのせいじゃない、僕がひ弱なのは本当だし……」


「俺も入ったばっかんときは散々やられたよ、口答えすると余計に酷くなる。皆通る道だ。でも、辛いときは俺らに頼れ。いつでも助けてやるからさ」


 ジャンがポンと私の肩を叩いた。仲間たちの心遣いに胸がいっぱいになった。


「アイツは新入りをいたぶるのがとりわけ好きだ。俺からもお前に乱暴しないように、ピアジェにキツく言っておくよ。もし辛ければこの練習自体を辞めても……」


「ありがとう、ルーファス。でも僕は負けたくないんだ。人を笑わせるためには強くなければならない。こんなことで泣いちゃいられないよ」

 

 私は立ち上がった。ケニーだって頑張っている。皆同じ苦労をともにして助け合って練習に励み、完成度の高いショーを作り上げている。私だけが辛いからと泣き言を言って脱落するわけにはいかない。クラウンをやると決めたのは自分だ。こんな理不尽な暴力を受けながらやる筋トレに何か大きな意義があるとは思えないけれど、ここを乗り越えなければ私は今までのように中途半端な人生に逆戻りだ。


 何よりあの男に負けたくなかった。他人をいたぶることに愉悦し快楽をおぼえるような人間に負けて、せっかくのチャンスを捨てたくはない。


「僕は負けない。できるならアイツの鼻を明かしてやれるくらいまで成長してみせる。アイツを笑わせるくらいのパフォーマンスを見せてやる。皆も見ててくれ。今はまだ何も上手くできてないけど、必ず皆のショーに華を添えてみせる」


「すごいよ、お前は。お前が本気なら俺も本気で応援するぜ! もう一度言うけど、いつでも頼れよ!」


 ジャンが私の髪を手でぐしゃぐしゃにした。


 最初にシャワーで傷口を洗ったあと、ホタルに背中や肩についた傷の手当てをしてもらった。一応動物専門とは言っているが、人間の治療もできる範囲でしてくれるみたいだ。


 ホタルは私を部屋に入れてくれ、傷口を消毒し軟膏を塗ったあとガーゼを当ててくれた。背中の骨格の感じを見て性別がバレそうだったが、ホタルは何も尋ねなかった。代わりに「大変だったわね」といつもより優しい声で言った。


「まあね、でもこれくらいでへばってられないよ」


「強気なのはいいけど注意して。ピアジェはマジでクズよ。ヤバい奴なんだから。前はもっと酷かった。団員に暴言、暴力は当たり前。コリンズやトリュフや馬たちを虐待するわ、無茶な芸をやらせようとするわで、辞めてく人が後を立たなくて……。前の獣医も3ヶ月前に辞めたしね。私が来てからは、トムやルチアと協力して動物たちにピアジェを近づけないようにしてる。アイツに調教させるなんてもってのほか」


 ホタルが不意に立ち上がり、「レオポルドの爪を切ってる途中だったんだわ。あなたも行く? 疲れてるなら部屋で休んでてもいいけど」と尋ねた。先ほどの筋トレのせいで筋肉が悲鳴を上げていて打たれた背中と肩は痛かったけれど、このまま部屋で休んでいても受けた仕打ちを思い出して怒りが湧いてくるだけなのでついて行くことにした。


 レオポルドは檻で、前後の両脚を地面に投げ出して眠っていた。いつも私を警戒心を込めて睨みつける両目は閉じられ、食いつかんとばかりに突き出される大きく鋭い牙も閉じた口の中に仕舞われている。静かな寝息に満たされた檻の中は、普段の騒がしい鳴き声など嘘のようにあまりにも平穏な静寂で包まれていた。


 ホタルが獅子の爪を切る傍らで、金色の立髪をそっと撫でた。それは藁のように固く、指に絡まりついてきた。


 檻から出てホタルがいなくなった後も、しばらくの間レオポルドを見つめていた。眠り続けていた彼はやがて目を薄く開き、静かに私を見つめた。


「ねぇレオポルド、君はここにいて幸せかい? 僕はここに来て楽しいことも沢山あったけど、何故だか今はすごく辛いんだ。君には分からないだろうな、きっと」


 今日のことだけじゃない。新しい環境での慣れない生活の中で知らず知らずのうちに溜まっていたものが、涙となって言葉と一緒に溢れ落ちて頬を濡らした。


「君は団長に殴られたりしないだろう? まさか君をいじめる奴なんていないだろうな、君は大きいし、一番強そうだもんな」


 いっそ彼になれたらいい。もし私にレオポルドのような誰もがひれ伏すような屈強な肉体と鋭い牙と爪という武器があれば、ピアジェはあんな暴行を働こうなどとは考えないだろう。あの手の人間の憂さ晴らしと嗜虐の矛先は、必ず自分よりも弱い人間に向くのだ。それは人間だけでなく、言葉を発することのできない動物に向く。それも、猿や象などの凶暴さとはかけ離れた存在に。


 レオポルドは眠そうに薄目を開けてただ私を見つめていた。彼が聞いてくれているかは分からないけれど、もうどちらでもよかった。ただここで打ち明けてしまいたかった。


「君の火の輪潜りを観た時に思ったんだ、君のように強くなりたいって。でも今日の僕はあのタキシード野郎にやられっぱなしで、睨みつけることしかできなかった。仲間には強気なことを言ってみせたけど、本当は100%の自信なんてない。今の僕に本当にクラウンを演じ切れるのかすら分からない」


 溢れてきた涙を手の甲で拭う。地に伏したレオポルドの姿が滲んで見える。


「でも僕はやりたいんだ。誰かを笑わせたい。そのために強くなりたいんだ」


 レオポルドがゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと檻を挟んで鼻先が付くくらいの位置までやってきた。彼の目にいつものような敵意は感じられない。波打つように生えた立髪の下にあるその漆黒の目は、静かな輝きを湛えながら私を見つめている。


「なぁレオポルド、君の心臓を僕にくれないか」


 ライオンは鳴き声一つ発さなかった。だが私は静寂の中に何らかの理解を感じ取った。私は彼に手を伸ばした。手が鼻先に触れかけたとき、レオポルドは大きな口を開けて「ブオオオオオッ」と一声鳴いた。生臭い突風のような吐息が顔にかかる。


「お腹が空いてるのかもしれんな」


 後ろから声がして振り向いたらトムがいた。トムはバケツに入った肉をトングのようなもので掴んでライオンの口元に持っていく。


「食い足りんかったんじゃろう、今日だけ特別じゃ」


 なんだ、お腹が空いていただけか。分かったら急に気が抜けた。ライオンが私の気持ちを理解していると思ったのは間違いだったのかもしれない。


「さっきお前さんが話してるのが少し聞こえてきたんだがな」


 トムに言われて顔が熱くなった。誰もいないと思って色々ぶちまけていたけれど、まさか聞かれていたなんて。


「ワシも若い頃はしょっちゅう落ち込んだ。一度若い頃、調教中にライオンに噛まれて首の骨を折ってな。死ぬかと思ったが奇跡的に助かって、2ヶ月くらい入院した。そのときにこの仕事を辞めようと本気で考えた。ライオンに恐怖をおぼえたまま調教することなんてできない、それではあまりに動物が可哀想だと。だが、調教師になるための学校に通っていたときに先生に言われたことを思い出した。


『君はいい目をしている。動物のことが本当に好きで堪らない、純粋な人間の目だ。だが、その優しさや愛情が仇となって苦しむこともあるだろう、動物に鞭を振るうのだからな。そんなときはこう考えろ。自分はお互いを痛めつけるためにいるのではない。動物たちの先生として、彼らにもう一つの生き方をーー野生ではない場所で新しい技を習得し、自分の才能を見つけて生きていく方法を教えるためにいるのだと』


 与えられた生肉を噛み砕くレオポルドを目を細めて見つめながら、トムは続けた。


「ワシは結局調教師を辞めんかった。仲間が動物に襲われて死んだり、辛いことも沢山あった。同僚の中にはピアジェのように短気を起こして動物に暴力を振るう奴もいた。そんな奴はすぐに辞めさせられたがな。


 だが落ち込みそうになるたびに、あの先生の言葉を思い出した。彼らにはサーカスで調教されて生きていく道しか残されていない。ワシが辞めたら動物は師を失うことになる。次に来る奴が横暴な調教師かもしれん。


 お前さんも今が頑張りどきじゃ。お前を待っている、必要としているお客さんがいる。まだ出会っていない世界がある。それを見るために歯を食いしばるんじゃ」


 トムの言葉で、萎みかけていた感情が蘇ってきた。もしこれが火の輪をくぐりぬけるような困難だとしても、仲間がいたら乗り越えていける気がした。もしもその火の勢いがあまりにも強くて潜り抜ける隙間もなかったとしても、たとえ1人きりだとしても、どんな酷い傷や火傷を負うことになったとしでも今の私は飛び込んで行くだろう。


「トム、ありがとう。お陰でまた勇気が出たよ。僕はピアジェに負けない。何より僕自身に負けたくない。ピアジェだって、レオポルドだって笑わせてみせるよ」


「ライオンは笑わんぞい」


「心の中で笑ってるかもしれないだろ?」


「それはどうかな」


 トムの白いちょび髭の下の口元が緩んだ。レオポルドはまだ餌が欲しそうに鳴いていた。


 心の火は消えるどころか、始めよりもずっと強く熱く燃えていた。

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