第22話 動物ショー
第一部が終わると、20分の休憩を挟んで動物のショーが始まる。
出番が近づくと動物たちも落ち着きがなくなる。人間の緊張が伝わるのか、それとも彼らなりに状況を理解して緊張しているのか。
ツキノワグマのニックが、トムと一緒に柵の張り巡らされた場所で練習をしている。1人と1頭のいつになく真剣な空気が伝わってくる。
少しでも彼らをリラックスさせたくて、テント裏の檻にいる動物たちに声をかけて回った。
コリンズはずっと裏でルチアと練習をしていたらしい。
「緊張しないで、きっと大丈夫だよ」
伝わっているかわからないが、いつもおちゃらけているコリンズはルチアの腕につかまりながら神妙に私の顔を見つめた。
「最初は私とコリンズのモンキーショーなの。楽しみにしててね」
ルチアが微笑んだ。
「うん、楽しみにしてるよ。何だか、動物たちも緊張してるみたいだね」
「そうね。人間の緊張も伝わるし、彼らも自分の状況を理解しているから」
サーカスの動物たちというのは、動物園で飼われている動物とも違う特殊な環境下に置かれている。人を楽しませるために訓練をされ、ときに長時間の移動をし、人との生活に順応していく。
一度どこかのサーカスの調教師が、暴言を吐きながら猿を鞭でめった打ちにして虐待している動画を観たことがある。動物たちが本当にショーの楽しさを理解していたらいい。ここの動物たちはトムやルチア、ホタルの献身的で愛情深い指導や治療のおかげでのびのびやっているようにみえるけれど、そうじゃなくて、あの動画に出てきた動物のように鞭に怯え、暴力を恐れながら何の意義も見出せないままトレーニングをしていたらとてもやりきれないし、一刻も早くこの場所から逃してやりたいと思うだろう。
「恐怖ばかりを植え付ける調教では、動物たちは萎縮してかえってモチベーションを失うし、本来のパフォーマンスができなくなる。彼らも人と同じで心がある。疲れることもあれば練習に気持ちがのらないときも。それを上手く宥めて、それぞれの性格に合った調教をするのがワシらの役割じゃ」
昨日トムが話していたのを思い出す。動物に接するのは非道な人間たちばかりではなく、多くの場合トムやホタルのように覚悟と信念を持っている。共に生きる以上、一つの命として動物たちへの尊厳を忘れずにいたいと思う。
第二部の始まりが近づくと、観客がパノラマのような客席に戻ってくる。動物のショーを観られるとあって、とりわけ子どもたちの顔は期待に輝いているように見える。
アリーナの周りは安全のために鉄のゲートで囲われている。
私とケニーは、また登場口の裏で動物たちの演技を見守ることにした。
やがて明るかったテントは再び暗転し、ピアジェの口上が始まる。
『Ladies and gentleman!! これからサーカスショー第二部の幕開けです!! 皆さん、楽しんでおられるでしょうか?
第二部はお待ちかね、動物たちのショーです。我がサーカスには沢山の動物がいて、団員たちと一緒に生活しています。
皆優秀で、才能に溢れた仲間です。
トップバッターを飾るのは、猿のコリンズのモンキーショーです!!
それでは、驚きに満ちた動物たちのショーをとくとご覧ください!』
エントランスから出る直前のルチアとコリンズに頑張れと声をかけた。彼女は緊張した面持ちで微笑み、コリンズの手を引いてアーチ型の登場口からアリーナに駆け出した。
やがて、ヘッドセットマイクをつけたルチアの声が響き渡る。
『みなさん、こんにちは! 今日は楽しい友達のコリンズと一緒にびっくりするような芸をお見せします!』
ルチアは隣のコリンズに目配せをし、『じゃあコリンズ、自転車に乗ってみましょうか!』と声をかける。
コリンズはリングに用意された子ども用の小さな自転車をいとも簡単に漕いでみせた。
途中、バランスを失って自転車が音を立てて倒れた。地面に投げ出されたコリンズは、うつ伏せでぐったりしている。
「大変だ!」
助けようと駆け出した私の腕を後ろにいたトムが掴んで止めた。
「大丈夫じゃ」
そう言うトムの顔は意味深に笑っている。
ルチアが慌てて駆け寄り、コリンズの身体を揺する。客席からは心配する声が響いている。泣き出しそうな顔の子どもまでいる。
観客のざわめきが最高潮に達したところで、コリンズはむくりと起き上がり「ききっ」と一声鳴いてしてやったりといった顔で頭をかいた。
何とコリンズは死んだふりをしていたのだ。あの感じだと、転んだのも芸のうちでワザとだったのだろう。ほっと息が漏れた。さっきまで青くなっていたケニーも「何だ、びっくりしたよ」と安心した様子だ。
「あの死んだふりは、ワシが仕込んだんじゃ」とトムは得意げだ。「心臓に悪いよ」と私はつっこんだ。
『死んだふりをしてたのね、コリンズ! ああ、びっくりした! もうしちゃだめよ。一体誰から覚えたの?』
ルチアに訊かれたコリンズは、誤魔化すように手を後ろで組んで口笛を吹いてみせた。
客席からは一斉に胸を撫で下ろすような声と、安堵の笑いが上がる。さっきまで泣きそうになっていた子どもたちも笑顔を取り戻した。
コリンズはその後もルチアと滑稽でテンポの良いやり取りを繰り返しながら、最前列の席の前に円形に巡らされた1メートルほどの高さのリングカーブの上を逆立ちで歩いたり、雲梯をしたり、1.5Mの高さにかけられた3メートルほどの2本の棒の上を前歩きや後ろ歩きで渡ったり、日本の昔の遊び道具だという竹馬という道具を使って、1Mほどの高さのハードルを軽々と飛び越えて見せたりした。
「猿は抜群の運動神経がある。猿の筋肉というのは、優れた持久力を生み出すんじゃ。ワシもこの通りじいさんじゃ、年齢とともに疲れやすくなる。あの筋肉が1%でもあればいいなといつも思う」
しみじみ語るトムは今年で65歳になるというが、高齢には見えないほど若々しい。
コリンズの愛嬌と豊かな芸に、観客たちは笑い声と惜しみない拍手を送った。
ルチアと猿のコリンズの息のあった芸の途中で、シーザーとヘイリーが乗ったプレッツェルと、トムが乗ったジョンが乱入する。トムがジョンの背から降り鞭の動きで指示を出すと、艶やかな毛並みを持つ2頭の馬は長い立髪を靡かせ蹄の音を響かせながら、くっつきそうな至近距離で並走を始めた。シーザーがプレッツェルとジョンの背中に片足ずつ置いて立ち、ヘイリーはシーザーと息のあったコンビネーションで、シーザーに肩車をしたあと肩の上で逆立ちをしてみせ、今度はシーザーに腕に横抱きにされたあと車輪のように頭の上でピザ生地を作るときのように2回回された。
ルチアはやがてヘイリーと一緒にプレッツェルに乗り、コリンズはシーザーに引き上げられてジョンの背中に飛び乗り何周か駆け回った。
人間たちが馬から降りて退場したあと、2頭はバーを飛び越えたりフープをくぐり抜ける曲芸を披露し、最後同時に二本脚で立ってアリーナを歩いてみせた。観客は馬たちの芸に熱狂している。
「みんな凄いな。人も動物も、すごくキラキラしてる」
「そうだね、すごい。これがサーカスの世界か」
ケニーが感嘆した。
馬たちが颯爽と走り去ったあとは、ツキノワグマのニックのショーだ。
明転したリングには、木のベッドの上に半裸でうつ伏せに眠るピアジェの姿がある。足元には蒸気の上がるお湯の入った木のタライが2つと、その上にセージの葉がおいてある。
そこにトムに連れられたニックがやってきて、ベッドの横に二本脚で立つと、セージの葉を両手で持って邪気払いをする神職のように左右に振ってみせた。
かと思うと、タライを持って病人にするみたいにピアジェの身体に何度か水をかけ、セージの葉を更に大きく振り回す。
大爆笑の中、可笑しくも愛らしい寸劇を演じてみせたニックはトムと一緒にお辞儀をして退場した。
ゾウのトリュフの曲芸もまた興味深くエキサイティングだった。
トムが投げたバレーボールを鼻先でトスしたり、最後はトムがトスしたボールを鼻でアタックした。
かと思えば今度はバスケットボールをリンゴを食べる前のように鼻先で持ち上げてゴールに入れた。
最後は銀色の大きなちゃぶ台のような台を下に円を描くように5つ並べ、その上にさらに3つピラミッドのように重ねたものの上にゆっくりと上り両前脚を上げて後ろ足だけで立ってみせた。彼らが失敗しないか、台が崩れて怪我をしてしまわないか。見ている時はハラハラしたが、私の心配をよそにトリュフはゆっくりと上げていた両前脚を積み上げられた台の上に下ろすと、巨大な身体を両前脚の力だけで持ち上げ逆立ちをして見せた。
どっと客席が沸いて、私はまた胸を撫で下ろした。
トリュフは満足げに鼻を上下させながら、トムと一緒に退場した。
トリュフと入れ替わりにライオンのショーが始まる。
トムに引き連れられたライオンのレオポルドは、豊かな筋肉に覆われた身体を揺らし堂々と大きな4本の足で地面を蹴りながらやってきた。会場の視線と歓声、拍手の全てが彼に向いている。先ほどまでの浮き立つような雰囲気が一転し、何か神聖なものを見るような厳粛な空気が漂っている。
レオポルドがリング中央に佇んだ時、宇宙空間にいるかの如き静寂が訪れた。まるでこの会場にいる誰もが、今この瞬間をーー彼の一挙手一投足を見逃すまいとするかのように固唾を飲んで見守っていた。
トムが大きなフープに火をつけ、手袋で覆われた手で持って空中にかざす。鋭い二対の目と4本の大きな手脚を持った雄の獅子は、その大きな赤い炎の燃えたぎる輪に向かって怖気付く様子もなく駆け出すと、金色の稲穂のごとき立て髪を揺らして、輪の手前で2本の後ろ脚を折り曲げ弾みをつけてふわりと跳躍した。軽やかに宙に舞ったその身体は炎の輪をいとも簡単にすり抜け地面に着地した。
間髪を入れず、彼は両側に4段の階段のついた5メートルほどの長さの白い台に駆け上がり、その上に設置された火の輪の中で舞って台の上に降り立った。
私は彼が褐色の大地と緑が生い茂り、野生の動物がいななき、鳥の羽ばたくサバンナの中を悠然と走る様を思い浮かべることができた。彼の立髪は照明の中で燐光が弾けるほどに美しく、全身の筋肉を躍動させながら駆け抜け、跳躍し、炎を潜るその姿はこれまで見た何者よりも屈強で恐れ知らずで勇敢だった。
その姿を見ていたら急に胸をギュッと掴まれたみたいになって、泣き出したいような気持ちに襲われた。
あんな風に強くなれたらーー。
燃え盛る熱い炎を恐れることなく火の輪に飛び込むライオン。立髪を靡かせ、逞しく闊歩していく姿ーー。その姿に私は身を焦がさんばかりの強い羨望をおぼえていた。同時に自分自身の矮小さを肌で思い知り、羞恥心にも似た後ろめたさに圧し潰されそうだった。
私は弱かった。臆病で人目を気にしてばかりで、自分の弱さと向き合う強さすら持ち合わせてなかった。
笑われることや陰口を言われることなんて恐れないで、堂々と生きていけたらいいのに。
今まで周りに流されて面白くないジョークに笑い、好きでもない相手と付き合い、興味ないものを好きと言ってみたりした。本当は合わせることなんて息苦しいのに、普通の枠からはみ出すことを恐れて、常識や周りの目ばかりに囚われ、小さな箱の中に縮こまっているしかなかった。
本当は、身も心もすり減らすような男たちとのデートなんてしたくなかった。心から愛する人なんて現れないと、好きでもない相手と打算と惰性で結婚するのだろうと思い込んでいた。
何もかも忘れて打ち込めるようなことが欲しかった。たとえ誰かに笑われても胸を張れるような、自分にしかできないことを見つけたかった。多くの友達は当たり前のようにそれを見つけられていたのに、私にはなかった。長い間抱えていた心に隙間風の吹くような虚しさは、そのせいだったのだ。
レオポルドの咆哮が聴こえた。それが歓声だと気づいたのは数秒後のことだった。彼は最後の演技を終え、トムと一緒に轟音の如き拍手と激励を送る観客の波に向き直っていた。
私は目から溢れ落ちた涙を拭うこともせず、アリーナを歩き去るライオンの後ろ姿をただ見つめていた。
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